女性が取り組む都市環境デザインの世界
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私の仕事史

司会
   都市環境デザインの分野において「男性の取り組み方」「女性の取り組み方」という区別があるわけではないのですが、 実際には圧倒的に男性優位にあるのが現状です。

こういった視点をふまえ、 今日は建築・都市計画・造園などいろいろな分野でお仕事をされてきた女性の方々にお話を伺っていきたいと思います。

それぞれ分野もキャリアも違うのですが、 今までのワークヒストリーや、 今どういうことを仕事上の課題にされているかなどお話いただきます。

では、 よろしくお願いします。



環境デザイン分野の
横山あおいさんの場合

〈最初は人材派遣だった〉

   環境デザインの仕事を始めて、 今年で9年になります。

きっかけは、 ある鉄工メーカーが新規事業に景観資材を扱う試みをし、 そこにスタッフとして人材派遣会社から3カ月だけの派遣で雇われたことがはじまりでした。

 

   その当時、 時代の流れがメーカーにとって何か新しいものへと変化することをのぞむようになり重厚長大から軽薄短小をへて美感優創の時代へとその要求を変えてゆき、 特に公共事業においては景観や環境といったニーズが広まりつつありました。

派遣された会社は日本一の鋳物メーカーで、 新規事業としてなにか鋳物を使った景観資材をやれないかということを考えこの時代のニーズに答えるべく、 動きはじめました。

そこで、 自社デザイナーを育てるより、 本当にこれが事業化できるのかどうか人材派遣でためしてみようという理由で私が雇われたわけです。

 

   私自身は工学部を出たわけでもなく、 きちんとした技術の教育を受けてこの仕事についたわけではありません。

子どもの頃から何になろうと考えたこともなく毎日を暮らしていました。

就職もせずに人材派遣会社に登録して、 仕事がきたらそれに従うというその日暮らしの生活を送っていました。

 

   そういう状態で仕事を始めたのですが、 私の仕事場の環境である「鋳物事業部」はブレーキディスクの部品や摩耗する部材の部品を作ることを主としたところで、 民間の工場用の「減らない、 熱に強い」ということだけを追求する完全に機能中心の部署でした。

私の直属上司は冶金を専門とし、 「僕は環境もデザインも一番関係ない人間だから」という具合でした。

そんな中「さ、 とりあえず何かやってください」というところから私の仕事はスタートしはじめます。


〈売り込みに行くまで〉

   私としては、 まず「鋳物って何?」から始めて、 鋳物を使って何ができるのかから考えなければいけない状況でした。

会社にいろいろと教えてもらったこととしては、 鋳物は特殊な形がつくれること、 橋の高欄や手すりにも使われていることでした。

 

   「じゃあ、 それを売りに行けばいいんだ」と単純に考えて会社を出て行くのですが、 会社から「公共事業でないと売ってはいけないよ」と言われていましたので、 とりあえず最初は道路工事や土木作業の現場でつるはしを握っているおじさんに「こういうものを売りたいんだけど、 どこに行けばいいんでしょう」と尋ねてみました。

「それは役所の土木課じゃない」との返事が返ってきましたので、 役所の土木課に行って「鋳物をデザインして売りたいんですが、 何か仕事はないでしょうか」と営業に出歩く日々が始まりました。

 

   当時は土木課の営業に女の子が来ること自体が珍しかったので、 私が行くと「あ、 来た来た」と喜んで話だけは聞いてくれました。

本当に話だけで終わることが続いたのですが、 そのうちに「こんな計画があるよ」と教えてくれるようになり、 じゃあそれをデザインして持ってきてみようという話になってゆきました。

今でしたら強度とか基準をクリアしなければ、 ということも頭に浮かぶのですが、 その頃は何も分からず、 ただ「鋳物は強い、 割れない」ということしか聞かされていませんでしたから、 恐ろしいことに自分の思いこみで好きなように絵を描いて配り歩いていました。


〈最初の納品〉

   時代はちょうど80年代のバブル期に入る頃で、 どんどんデザインを採用してもらえるようになりました。

内心「えっ、 本当にこんなデザインでもいいの」と思ってはみたものの、 使ってもらえたらとにかく嬉しいと思いはりきりました。

話が進んでゆく中、 役所の担当者から「設計に入りたいから誰か男の人を連れてきてよ」とその当時はよく言われました。

男の人でなければダメなのだということもクリアしなければいけなかったのですが、 とにかく設計をしなくてはということで、 工場に帰って冶金課長に相談しましたら、 「そのへんのカタログを見て設計して持っていったら」という事になり、 私はカタログを見習うような形で図面にしました。

 

   その最初の仕事は車止めの設計だったのですが、 実際の工事現場に行ってサイズを測りながら「あ、 車止めってこういうサイズなんだ」と数字をメモし、 よりオリジナルな図面を作ってみました。

さすがにそれを直接役所に届ける勇気はなかったので、 メーカーの機械設計部の人に見てもらい、 一応のチェックを受けたあと役所に持っていきました。

すると担当者の人も「あ、 これが図面ですね」とあっさり受け取って、 それでめでたく物がついていく(売れた)という結果になりました。

その時は、 こんなに簡単に売れていいんだろうかと悩んだりもしましたが、 そうやって景観資材という現在につながる仕事が始まっていきました。

当時の私の仕事の中身は、 営業・デザイン・設計、 それから製造過程で木型をみて、 鋳込みを見届け、 あとの手入れも手伝い、 さらに現場据え付けに立ち会うという内容です。

 

   最初の仕事である車止めの仕事には続きがありまして、 納品が遅れ、 普通は据え付け立ち会いをするのですが、 自分で据え付けるはめになってしまいました。

もちろん一人では無理ですから、 会社のおじさん2人を従え、 現場で埋め込んでいく作業を行いましたが、 その時も、 コンクリートがどうやって作られていくかすら知らなかったんですが、 見よう見まねでなんとか納品できたという次第です。


〈有限会社を設立〉

   そういう毎日が続いていった頃、 私の残業労働時間数は月200時間を優に超えていました。

3ヶ月の契約のはずだったのに、 それが半年続きました。

派遣会社としては、 ちょうど派遣業界が労働条件を整えようとしていた時期でもあって「女性の残業が月200時間を越えてしまうような労働条件ではとても扱えない」と会社に通告してきました。

会社側ではこの半年の動きを見て「これは事業化できるのでは」と見込み、 また私をそのまま雇っておきたいという気持ちも持っていただいたようで人材派遣会社を辞めることになりました。

それから、 会社側から「有限会社を設立しなさい」と言われました。

当時有限会社は資本金10万円程度で設立できたのですが、 「君、 10万円ぐらいの貯金はあるよな」の一言で、 私は有限会社を設立することになったのです。

 

   その頃、 一人でやっていくのはとても体がもたないほどしんどい毎日だったので、 「誰か助けてくれる人間がほしい」と会社に言いましたら、 「じゃ、 友達2人ほど呼んどいで」という返事です。

私は文学部出身で工学系や美術系の友達もいなかったんですが、 たまたまヒマにしている女の子2人(幼児教育出身と文学部出身)が来てくれることになりまして、 3人で会社を運営することにしました。

人材派遣のスタッフからスタートして何も考えないまま走ってきてはみたものの会社をやるということは、 想像以上にいろいろあって、 実務だけをやっていたらいいというわけにはいかないようです。


〈セクハラその他〉

   さて、 女性だからということで起きる差別、 セクハラは仕事をしていく上でないとは言えません。

例えば、 鋳物の世界は古い職人の世界で「女の子が工場に入って、 鋳物を上からのぞく」のはタブーなのです。

それは火の神様は女の神様で、 やきもちをやいて、 いい物が作れないからです。

 

   トンネルの工事現場もそうです。

山の神様をおこらせると事故がおこってしまうということです。

こんな話が女であるがゆえに体験することが多々あります。

 

   話はかわりますが、 何の教育も受けないでこういう仕事をしてゆく中で本当に大丈夫なのかと皆さんはきっと疑問をもっていらっしゃると思います。

 

   がむしゃらな時期は、 とりあえず走ることに一生懸命ですが、 パーツのデザインに手慣れてくると、 もともと絵を描くことを習慣としたこともないので、 「何故この形がいいんだろう」と思い始め、 専門教育を受けてないことや素養のなさにぶつかって、 デザインすることが作業となり、 作業となることへの不満と悩みがくり返され自分の前に何度も立ちふさがります。


〈パーツから全体へ〉

   最近はパーツのデザインを考えるだけでは、 いいものができなくなっているのを実感しています。

「なぜこのデザインにしたのか」「なぜこのデザインが必要なのか」「全体のバランス」や、 特にストリートファニチャーの場合、 機能を持った形を風景の中におさめていくことを要求されています。

自分自身もパーツデザインだけ浮いてしまった現場をいくつも作ってきていますので、 最近ではパーツからそれに付随するいろいろな物へも提案を広げています。

景観資材を作るのが仕事ですからそれ以外の部分は本当はお金にはならないのですが、 この作業はパーツをデザインする上でもとても重要な作業であると思っています。

 

   木を見て森を見ずということはよく言われることですが、 パーツのデザインだけで毎日をすごしてゆきますと、 風景をこわしてゆくようなデザインをしていても気づかないことが多々あるように思えます。

橋の高欄から橋全体へ、 橋全体から周辺道路や河川、 公園、 さらには街全体や、 人の心や土地のもっている力を思いながら、 わかりながら、 1つのパーツをデザインすることは、 私にとってとても豊かな作業だと思っています。


〈独立へ〉

   そういう仕事の仕方をしていますと、 私の中にあれこれ疑問がわいてくるようになりました。

全体を意識すると、 メーカーにとっていい仕事をもらっても「これにこれだけのお金を払うんだったら、 隣の公園を整備した方がいい」という風に考えてしまうようになり、 しかもそれを提案するようになってしまい会社としては全然よろしくない社員になりはじめました。

 

   時代もバブルがはじけ公共事業が削減されると言う時代ですから、 会社は私のような生産性の悪い人間に必要性を見いだせず、 お互いの考えが違う方向を向きはじめました。

そんなわけで、 私は近々独立した形で仕事を始める予定です。

 

   私にとってこの仕事、 公共空間を作っていく仕事は、 いろんな人が関わり、 いろんな議論を経験してできる仕事だと思っています。

のほほんとしていた学生時代よりはるかに「生きててよかった」という思いがあり、 それが私を支えていると考えています。

何とかなるだろうし、 何とか生きていこうと思える強さも身についたように思えます。


〈女性としてできること〉

   最後に「女性として」という今日のテーマで仕事を考えた場合、 俗に言う「女性がいると場がなごむ」というのも事実ですが、 それよりも先ほど○○さんがおっしゃったように、 女性は性として守り産み育てるという本能を持っています。

つまり「自分の体にとって何が一番いいと感じるのか」という視点で発想することが、 この仕事における女性の仕事の役割のような気がします。



都市計画分野の
三谷八寿子さんの場合

   私は都市環境研究所に入りまして、 今年で五年目になります。

まだ一人立ちはできていないので、 上の人について仕事としているという状況です。

去年上司が産休で休んだため、 別の人につくことになり、 この半年でものの見方、 考え方がドラスティックに変わりました。

最近、 折りに触れ、 学生時代から今日に至るまでの10年間、 私は何を目指していたのかをよく考えます。

まずはなぜ都市計画の分野を選ぶに至ったかを、 学生時代からお話ししたいと思います。


〈都市計画を選んだわけ〉

   もともと私は都市計画をしたいと思って大学に入ったわけではありません。

家が設計事務所をやっている関係上、 家業を継いでほしいという半ば強制のような家族の願いで、 住居学科を志望させられました。

将来は設計の仕事をしていかなければいけないと思いつつも、 一方ではもう少しいろんなことを見たり考えたりしたいとも思っていました。

今思い返すと都市計画に関わるきっかけとなったのは、 高校生の時に読んだ田村明さんの本だったかと思います。

そのときは都市デザインが何であるかはっきりとは理解できなかったのですが、 今都市デザインに関わる機会を得て、 その時の思いと見えない糸でつながっているという気がします。

 

   私が高校生の時ちょうど男女雇用平等法が施行されました。

これからは男女の区別なく仕事ができるんだ、 私も一生仕事を続けるんだという気概を持って大学に入ったことを覚えています。

当時はバブルのまっただ中。

私自身がリッチな学生生活を送る一方で、 世間では京都の景観破壊の問題がかなり騒がれていました。

私も古都である奈良に住んでいて、 古い街並みが壊されていく状況を目にして、 「住宅だけではなくてもう少し広域に街を考えてみたい」と思うようになりました。

それで住居学科を卒業してから、 鳴海先生の研究室でお世話になった次第です。

その当時は、 自分のテーマとして住宅分野を残しておきたいという気持ちもあり、 街をテーマにこれからの街がどうなるかを見ていきたいし、 作っていく現場に関われたらいいなと思っていました。


〈就職にあたって〉

   都市計画コンサルタントを選択するにあたり最後までポイントになったのが、 仕事を生活の中でどう捉えるか、 ウエイトの問題でした。

「コンサルは3Kの職場」と言われていました。

現在の私の勤務状態は朝11時から夜中の2〜3時になるのはザラ、 土日が休めるのは数えるほどという状態です。

しかし、 その時は仕事一筋でいくことが自分の中では当たり前のことでもありました。

生活イコール仕事と考えていたのです。

 

   出身が関東だったので東京で働くことを考え、 都市デザインから都市計画まで幅広い仕事ができそうだ、 男女の区別なく働かせてくれそうだという理由で、 今の事務所に入りました。


〈就職してから〉

   もともと都市デザインと都市計画の違いもよく分からないまま就職したこともあり、 まずは都市計画がどういうものか勉強してみようと思いました。

入ってすぐ、 木造家屋の密集市街地の調査をしている人につくことになり、 3年間それに関わりました。

私が関係した時にはすでに地区計画ができ、 建て替え補助金が出ることが決まっていて、 一通りの調査が一段落していました。

ですから私の仕事は整備方策を具体化するために何をするかを考えることでした。

登記所に行って土地と建物の所有関係を調べたり、 共同化する場合の模型を作って住民説明会で提案したりしていました。

 

   また、 市営住宅の基本計画を手がけたり、 市街化区域と市街化調整区域の線引きの見直し調査、 都市マスタープランなどに関わり、 都市計画と言われている分野を一通り見させてもらったという状況です。


〈この半年〉

   最初に私の考え方がドラスティックに変わったと話しました。

それは物を作る場として都市デザインに関わりたいと思うようになったことです。

計画は、 悪く言えば実体が伴わない架空のものにすぎないのではないか、 都市計画が対象としているものと実際の都市空間には隔たりがあるのではないかと感じ始めました。

それは、 都市デザインをしている人と一緒に仕事をすることで、 空間が作られていくプロセスに関わるようになって一層強く感じられるようになってきました。

 

   この仕事をする人は、 早い人であれば3年で一人立ちできると言われていますが、 私の場合は未だ勉強中です。

ただ「30で一人立ちできるかなあ」と入所当時言われたこともあり、 今29歳ですから、 この一年で一定の方向性を出さければいけないと考えています。


〈女性としての課題〉

   さて今回のテーマである一般的に指摘されている「女性の課題」を私に当てはめると、 4つほど考えられます。


1)「女性イコール生活者か」

   まず、 打ち合わせで役所に行くと、 担当者のほとんどは男性ですし、 こちら側も男性ばかり。

20人ぐらいでテーブルを囲むと、 女性は私だけという場面がよくあります。

都市全体を扱うような話の中では生活者の視点が必要となります。

もちろん、 その場で「女性の視点で」意見を求められることはありませんが、 仮にあるとして一般的にいわれるように「女性イコール生活者」の公式を私に当てはめられても、 私自身も働くおじさんと化していて生活の場イコール仕事の場になっていますから、 生活者の視点は持っていないのです。

生活者の立場というものを想像することはできますが、 私が女性であることが役立っているわけではありません。


2)「狭い視野の中で感情的になりやすい」

   例えば、 関係者が多い打ち合わせとなると20人の人間が集まり、 物事ひとつ決めるのにも何時間もかかったりします。

一人一人意見が違っているために収拾がつかなくなると、 私はそこでいらいらしてしまう。

それが、 「どうしてこんなに時間がかかるのか」という文句につながったりします。

そしてそのたびに「感情的になっている」という指摘を受けます。

私が感情的になるのは、 気持ちの中で打ち合わせの時間を短くしたいという、 狭い視野の中だけで物事を考えているからかもしれません。

関わっている人間が多いということは、 より良いものができる可能性があるということですから、 打ち合わせを重ねてどういうものができるかを長いスパンで考えることが求められると思います。


3)「細かくなりがちで全体の流れを捉えにくい」

   それから、 細かくなりがちなのが私の欠点です。

例えば調査の構成を考えるとき、 仮説で組み立てて全体のストーリーをつくります。

そこで、 私は「正しいかどうか検証できないような仮説では組み立てられません」と言ってしまいがちです。

仮説がなければストーリーはできません。

 

   何かをつくるという目的のために考えを組み立てていく大きな流れを考えつつ、 同時に細かい仮説を検証することを考えていかなければいけないと考えています。

 

   細かいことだけにとらわれてしまうと全体像は把握できなくなってしまいます。

自分は細かい性格だからといって細かい部分だけを担当すると、 私はプロジェクトの大きな流れをつかめないまま、 部分的にアシスタント的にしか働けなくなってしまいます。

それはデータ集めに顕著にあらわれます。

目的を明確にしないまま進めてしまうと、 結果として全体の流れの中で無駄な作業になってしまう可能性があるのはもちろんのことですが、 アシスタント的に部分を担当するようになると、 その意味や全体での位置づけ、 適正なボリュームはわかりにくいのも事実です。


4)「バランス感覚をもつ」

   感情的になることと細かい部分にとらわれがちなのが私の欠点であると話しました。

それに陥らないためには、 バランス感覚が必要だと思います。

細かい部分を切り捨て、 大きな流れをつかむことが大事だと言っているわけではありません。

常に今何が大事なのかを、 その場その場で考えることであると思います。

 

   バランス感覚は、 打ち合わせで多様な意見をどう取捨選択するか、 自分と相手の意見が対立したとき、 どのへんで折り合いをつけるかという場面でも要求されるものだと思います。


〈女性であるがゆえに受ける差別〉

   最後に女性であるがゆえの差別については、 私は幸いにしてそれを感じたことはありません。

コンサルタント業界では女性が多く働いていますので、 私が一人で打ち合わせに行ったからといって、 「上の者を出せ」とか「男性がいないとどうも…」と言われることはもちろんありません。

私も入社して半年後には一人で打ち合わせに行き、 いろいろと決めてくるというチャンスに恵まれています。

 

   むしろ、 男性に申し訳ないと思うのは、 仕事で関わっている人に女性が少ないがために、 すぐ顔を覚えてもらえる利点をもっているということ。

名前を覚えてもらわなければ意見を言っても印象に残らないこともあるでしょうから、 その点は得をしているかもしれません。


〈女性の意識と就労環境〉

   最初に上司が産休で休んだことをお話しました。

今後は、 女性が働き続けられる環境をどう整えていくかと働いている女性の職業に対する意識と、 課題は2つ考えられます。

現在では、 女性がかつてのように「仕事か家庭か」の二者択一を迫られることは少なくなり、 女性の意識の上でも「仕事も家庭も」と両立を指向する傾向が強まっています。

しかし、 現実的にはそう簡単なことではありません。

 

   私は未経験ではありますが、 特に仕事と子育ての両立の困難さは予想されます。

出産後に職場に復帰してもしばらくは働く時間が限定されてしまうことは仕方がないにせよ、 働く時間が限定されることで仕事の第一線からはずれてしまう可能性があることは、 私が出産に対して不安を抱える部分でもあります。

コンサルタントの仕事は昼間の時間だけでは終わらないのが現状ですから、 自分のライフスタイルとして仕事のウエイトをどう設定するか、 どのような働き方を選択するかは、 仕事と家庭(子育て)をバランスよく両立するために自分自身の意識の問題として大きいと思います。

 

   その一方で、 年間6本のプロジェクトをもちたいとか、 子育てがあるから年間1本でよい等、 複数の選択肢が用意されていて、 そのときの働く側の意向に応じて選択できる就労環境があることは望ましいと考えています。

この状況は、 今は出産・子育ての多くを負っている女性だけの問題に捉えられがちですが、 今後高齢社会になり、 男性も親の介護のために仕事が制約される可能性も十分考えられます。

柔軟な就労環境を用意することにより、 働く側もライフスタイルを柔軟に考えられるようになり、 女性だけでなく男性にとっても働きやすい状況が生まれる可能性が考えられます。

 

   今のところ、 私の職場では、 個人のライフスタイルの指向に対して柔軟に対応できるため、 個人の意識の問題に委ねられています。

男女の区別なく働きたいという私の要求は受け入れられているため、 とても満足して働いています。



造園分野の
大矢京子さんの場合

   私は都市環境計画研究所に勤めており、 ランドスケープデザイナーとして仕事をしております。

また、 会社の組織運営部門の担当としても仕事をしています。

 

   ちなみに、 造園コンサルタントにおける女性の割合をもうしますと、 関西の社団法人日本造園コンサルタント協会に加盟しているのは36社約800人で、 そのうち2割が女性です。

170人ぐらいが造園コンサルタントとして働いている現状です。

当社の場合でも、 アシスタントも含めて約2割の女性スタッフが技術者として仕事をしています。


〈アルバイトから正社員へ〉

   私がこの仕事に関わるようになった経緯ですが、 私はもともと建築の方を専門としていたのですが、 卒業時期が就職氷河期ということもあって、 現在の都市環境計画研究所にはアルバイトという形で入りました。

最初1年間は技術のサポートからお茶くみ、 事務系の仕事とかをすべてやり、 その業務を終えた後で造園設計部門の仕事をやらせてもらうという日々でした。

しかし、 1年目に「技術者として仕事をしていきたいので、 ここはもうやめたい」と所長に訴えたんです。

すると「技術者としてやればいいじゃないか」ということになりまして、 初めて正式社員として入社することになりました。

 

   その後はアルバイト期間よりはるかにハードな日々で、 3年間ほど毎日毎日仕事をこなし、 2週間ぐらい家に帰れないということはザラでした。

5年目でようやく一人立ちで仕事もできるようになり、 どこまで所長が認めて下さったのか分かりませんが、 主任という肩書きもついての仕事となりました。

 

   その頃(1986年)、 ようやく男女雇用機会均等法が制定されたのですが、 私は女性の若年定年制が廃止されたことに関心を持ちました。

その時点では、 技術者の意識はまだまだそこまで考えられず、 日々仕事をこなしているのが現状でした。

しかし、 ある日所長に「女性の若年退職はなくなるんですよ」と話したら、 いつの間にか35歳定年が廃止され、 会社の規約も50歳定年に変わってしまいました。

そのころ、 当社でも「女性は35歳で定年退職」という規約があって、 それに当てはめると「私はあと4年しか働けないんだなあ」と思っていたところですから、 若年定年制の廃止はまあよかったといったところです。


〈仕事に「女性ならでは」はあるか〉

   その頃は主に住宅の外構部を手がけていましたが、 仕事をやっていく中でたまに「女性だったら細かなことに気がつくんじゃないか」と言われるんですけれど、 私に言わせれば細かいことについては私のまわりにいる男性の方がはるかによく気がついていました。

だから、 「女性だから細かいのが得意」とは言えない状況ではないでしょうか。

 

   またランドスケープデザイナーとして仕事をしていく上では、 子どもから老人までいろんな方々が利用する空間を設計しますから、 当然様々な人の日常生活を想定した上でデザインしていくわけです。

だから、 日常生活をおくっているのは女性が多いんだから女性向きの仕事ではないかと言われていますが、 決してそうではないと思っています。


〈転機になった仕事〉

   私が手がけた仕事の中で、 自分自身の大きな転機になったのが10年目の兵庫県での仕事で、 これは最終的には公園設計になりました。

約5年ほど関わりましたが、 兵庫県の過疎地にある場所で、 村おこしのような面を持つ仕事でした。

 

   最初の3年は、 基本構想から基本設計、 実施設計へとつながっていくのですが、 その中でただ設計者として公園を作るだけでなく、 過疎に悩む町で何ができるのかを考えるようになったんです。

そして、 やはり町おこしをしようということで、 公園を作る過程の中で、 イベントも含めて、 外からいろんな人を呼んで公園をつくっていくという計画を立てました。

計画が4年目に入った時点で町長さんも賛成してくれ、 公園づくりのひとつのイベントとして彫刻シンポジウムを行うことになって、 外国から7人の彫刻家が参加しての公園づくりが約2ヶ月間行われました。

 

   その時私も現場に入って一緒に仕事をしたんですが、 自分がプロとしての自覚を持って彫刻家や石工の人と話をしていれば「女だから」という見られ方はなくなっていくようでした。

ただ若干女性であることを感じたのは、 技術や工法について考えの違うガンコな職人さん同士で意見が食い違った時、 私を介してコミュニケーションを図ったことがあって、 一種の緩和剤になっているなと思いました。

それは別に女性差別ではなくて、 男女の区別として考えればいいと思います。


〈最後に〉

   最後に、 今日参加されている学生さんへの参考としてお話しいたします。

大企業に就職した人に話を聞くと、 技術者として入っても仕事をさせてもらえないということがあるそうです。

また、 セクハラ問題については、 もし遭遇していれば大変なことですが、 私はあったとしても分からなかった。

気がつかなかったから、 やってこれたとも思います。

 

   また、 仕事を続けることについては、 私もそうですが今日お話しされた方々に共通して言えることは、 仕事にやりがいを見つけてやってこれたということです。

仕事をやり始めて合わなければ、 早めに方向転換したほうがいいかなと思います。

「仕事は楽しく、 人生は明るく、 前向きに、 女性は美しく」という私のモットーで、 今日の話を締めくくりたいと思います。

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