私達が考える景観と、 建築的な、 例えば大阪の100景というような世界で考えられる景観では、 スケール的にずいぶん違うのではないかという気がまずしたんです。
だから、 コンテキスト分析といったときに、 その時代性の把握がないと、 いつでもそれが通用するわけではないんじゃないかなと思います。
また、 言葉自身の問題なんですけれども、 景観とか風景とか情景とか、 いろいろ出てきました。
もう少しこの辺の言葉の意味を厳密にしていかないといけないと思います。
例えば、 まちの中でおもしろいものをみたというのは、 それは色々な見方があって、 かつては考現学があって、 今では、 テキスト論とか色々ありますが、 その時に直感的に感じたことが、 単純におもしろければいいというわけではないと思います。
先に言葉ありきというか、 くくり方によってはなんでも言えてくる。
もちろん計算機を使って、 こういう関係があるということを統計的に出していけば、 でてくるのかもしれませんが、 その恣意性というのか、 それによってどちらの方に向かっていくのかということが、 やっぱり見えてこない。
こういう分析というのはやっぱり不安だなという感じがします。
特に日本の場合、 風景とか自然ということに、 先ほどもいいましたように時代性の話もありますが、 例えば保田与重郎が『日本の橋』という、 それだけではなんの意味もないような文章を書いたことが、 やはり日本の戦前の社会というものを変えていったかなり大きな要因になっていたと思います。
それについて、 今、 その結論は得られないのですけれども、 風景や景観、 自然など、 私たちをとりまいているものに対して、 関わり方のスタンスというのが非常にプラスに向くときと、 マイナスに向くときがあると思います。
一つは、 先ほどのテーマパーク的な非常に商業的な形でいく場合もあれば、 あるいは後ろ向きな精神性みたいなものでいく場合もあります。
やはりコンテキストというものはそういう流れの中のものではないかなというふうに私は思いますので、 こういう、 個別的な、 先ほどのIMPRESSIONとPATTERNとDIMENSIONという枠組みを作るもう一つ外の関係みたいのものが見えてきたらなというふうに思います。
鳴海 色々みなさんから、 コメントをいただきました。
これを参考にしながら、 先ほど紹介しました延長線上でもう少しまた検討しまして、 みなさんに再度ご紹介して、 ご批判を仰ぎたいと思います。
今日はどうもありがとうございました。