震災復興の中のまちづくり
震災後まもない1995年2月中旬には、 復興協力の委託を受けて神戸市復興都市構造計画案を提案し、 市街地整備計画を作成しました(図1)。
東の方は市浦都市開発コンサルタント、 西の方はOURが担当し、 三社共同で作成したものです。
このように、 全体の計画もすれば、 もっと細かい地区の計画を手がけることもあります。
たとえば六甲道駅周辺の区画整理事業が行われる地区では、 コンサルタントとしていろんな協力をしています。
この六甲道駅北地区には8つのまちづくり協議会があり、 週に1回打ち合わせしているのですが、 毎日どこかの協議会の役員さんたちと会議をしても、 なお全部の協議会とは会いきれないといった状況で、 2年半ほどほぼ毎晩、 担当者が手分けしてあちこちの会合に出かけています。
今では仮換地がすんで、 道路がどんどん出来始めていますが、 いまだにそうした会合が行なわれています。
このような震災復興の動きに合わせて、 たくさんのまちづくり協議会ができています。
再開発や区画整理が行われる地区では、 かなり細かい単位でまちづくり協議会ができています。
このような新しい協議会だけでなく、 震災前からあった新在家や味泥のまちづくり協議会もいろんな活動をしています。
例えば、 新在家は酒蔵や古い街並みがあり、 震災で多くが被災した地域ですが、 震災後には古い街並みに配慮した住宅共同化事業などが進められています。
このような共同化事業のほかに、 まちづくり協定、 地区計画などを決めて、 復興後のまちづくりを進めています(図2)。
また、 味泥地区では、 大阪の都市計画プランナーの久保さん、 神戸大学の安田・三輪研究室が震災前からまちづくり活動に協力してをしていましたが、 震災後も直後から市民まちづくりの支援をされています。
灘中央は白地地区といって、 重点復興地域と違って面的な整備計画がないところです。
震災後、 灘中央地区まちづくり協議会ができ、 ここはコープランが派遣コンサルタントを担当しています。
このようなまちづくり協議会は神戸市全体では100近くあります。
その全部にコンサルタントがついているわけではありませんが、 大部分の協議会にはコンサルタントがついて市民のまちづくりを支えています。
内容は、 再開発事業地区ですとどんな建物を建てるのかといった協議もありますし、 区画整理地区ですと道路や公園をどうするか、 家をどう建てるかなどの話し合いをします。
そうでないところでは、 先ほどの共同化事業のように地区計画を決めて、 その規制項目に合わせてコントロールし、 できる建物に対して協議会としてどう対応していくかといったような形で話し合われています。
また何の事業指定もない白地区域では、 これからのまちづくりをどう進めればいいかの相談を受けていますが、 我々コンサルタントにとってはどういう話し合いの場をいかに設けるかが大事ですので、 地元の婦人会や老人会、 自治会、 商店街が参加できるようにまちづくりに関して話し合う場を作り上げていくという仕事をしています。
このように、 我々の仕事の9割方は地元の人々との話し合いです。
その時間帯もみんなの仕事が終わってからですから、 ほとんどが夜、 半分以上は飲みながらということになります。
サラリーマンタイプの人ですと、 仕事にはならないでしょう。
しかも、 公共のコンサルタント派遣代を飲み代に回すわけにも行かず、 飲み代は自腹ということになって、 働けば働くほど貧乏になるという不思議な仕事をしています。
ただ、 震災以降はまちづくり協議会が果たす役割について、 行政からも市民からも認められて、 コンサルタント派遣費用やまちづくり助成については復興費用の中に盛り込まれてきています。
しかし、 充分なバックアップ体制はまだできていないのが実状です。
「清貧のプランナー」を自称するジーユー計画研究所の後藤さんは「それに耐えられないやつは、 この業界に来んかてよろしい」と言っていますが、 世の中そうもいかないだろうと思います。
私はなるべく新しい人たちには、 ちゃんと意義のある形で普通の仕事となるようにしたいと思っています。
ちゃんとした仕事をしていれば、 お金は後からついてくるでしょうから。
そういう業界ですから、 我々まちづくりプランナーは高齢化し、 非常に限られた仲間しかいない限定された範囲でしたが、 震災以降、 地元密着のまちづくりのやり方が評価されたこともあってか、 随分若い人たちの参加が増えてきました。
バブルも崩壊しましたから、 金だけで動く世の中ではなくなってきたのかもしれません。