極私的イタリア紀行
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10月11日 アッシジからメルカテッロへ

 

 

アッシジかペルージャか

 この旅行の事前打ち合わせをした時、 旅行社からアッシジにほんとうに行くのかと何度も念押しされた。 というのも、 1ヶ月程前に地震があり、 アッシジも被害を受けていたからだ。

 「ペルージャにしてはどうですか」

 「聖フランチェスコ教会にも入れませんよ」

 「レストランはきっと開いていませんよ」

 誰もこれといって意見を言わない。 僕は恐いもの見たさもあってアッシジに行きたかったのだが、 若輩者なので黙っていた。 だが、
 「やはり、 専門家として地震のあとは見ておかれたらどうでしょう」

という井口さんの勧めで、 予定通りアッシジに行くことに決まった。

 ところが、 前日のローマでガイドの馬場さんがまた同じことを言う。

 「MIKIツーリストでも地震以降はツアーを出していないんです」

 「家をなくした人がいたりしたら、 観光ってわけにもいかないでしょう」

と盛んにペルージャをすすめる。 どうも、 恐いらしい。

 僕の住んでいる京都も阪神大震災の時は震度5だったが、 実際にはたいした揺れではなかった。 だが、 多くのメンバーはかなりひどい揺れを経験している。 古い教会の天井画が落ちたぐらいでは動揺しない。 ともかく行くのだと嫌がる馬場さんに半ば無理強いすることになった。

 朝、 ツーリストがチャーターしたバスでローマを出る。

 「皆さん、 揺れたらバスですぐ逃げることにしましょうね」

と馬場さん。 地震と噴火と混同している。

 バスから見たローマは、 やはり立派。

 歴史的市街地を抜ければ、 普通の街が広がっているのかと思っていたが、 これという郊外もなく、 いつの間にか農村風景になった。 メルカテッロで開いたセミナーで都市計画家のスパーダさんが説明してくれたことだが、 ローマはぽつんとある大都市とのこと。 連担した市街地が永遠と続く日本の風景とは違うわけだ。

 高速道路を通りアッシジへ。 休憩したパーキングエリアではレスキュー隊と出合う。 やっぱりお邪魔だったかもしれない。


地震後のアッシジへ

 いつの間にかバスは高速をおり、 小さな街に入っていた。 アッシジのお膝元、 S. Maria degria Angeliの街の筈だ。 目を凝らしてみるが、 地震の被害らしき物は見当たらない。 おや、 まだ違うのか。 じゃあなんで高速を降りたんだろう、 と考えていると、 アッシジの街が丘の上に見えてきた。

 パーキングにはレスキュー隊の姿も見え、 少し緊張した雰囲気だが、 建物に被害は見当たらない。 馬場さんも少し拍子抜けしたようだ。

 「どこが被害にあったんでしょうね」

 「ほんとですね」

と馬場さん。

 「神戸はこんなもんじゃないですよ」

と難波さん。 この後、 ひとしきり体験談を語っている様子。 馬場さんは心底感心している。

 「でも、 街の人の表情が暗いですね」

 「そりゃ、 観光客が激減しているだろうし。 神戸の時も、 観光に来てくれて呼び掛けていましたよ」

 「そうですね。 MIKIもツアーを出さないと」

 なんでもMIKIでは地震後最初のツアーとのことだが、 日本人の団体客は他に3組もいた。 うち二つは若い女の子ばかりの団体。 たくましい。 一方、 欧米の団体客は皆無。 確かに観光客が少ない。

 馬場さんから聞いた話では、 日本人と欧米の人では地震への反応が違うのだそうだ。 アッシジに本格的な被害をもたらした地震の前に小さな地震があったという。 その時、 アメリカ人の団体とイタリア人は街路に出て不安に脅えながら夜明けをまったらしいが、 日本人の団体はすぐにまた寝てしまったとのこと。 噂話しなので若干怪しいが、 馬場さんの恐がりようを見ていると、 確かに感覚が違う。

 もし本格的な地震が来たら、 呑気に寝ていた日本人は全滅していたかもしれないから、 どちらが良いとも言えないのだろうが、 やっぱり世界に冠たる地震国の国民はエライと妙な優越感を覚えてしまった。

 帰国してからこの冬にイタリアに行くという人から、 「アッシジやペルージャは行けますか。 地震があったのでしょう」と聞かれた。 情報化時代といっても、 結局、 ほんとのところは伝わってこないということだろうか。

 

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アッシジの路地/いやー、ヨーロッパに来たんだね、と納得させてくれる静かなたたずまい 壁に見える補強用金具/地震に備えて古くからつけられている補強用のアンカー。ワイヤーで締め付けているらしい 修復中の聖フランチェスコ教会
 

いよいよメルカテッロへ

 アッシジを出たバスは高速道路を北に走り、 やがて細い山道に入っていった。

 とても狭い。 アッシジもペルージャも見たいと希望を旅行社が一蹴したその理由は「暗くなるとバスが帰れなくなる」だったが、 確かに夜中にバスが走る道じゃない。 対向車もほとんど来ない。 道沿いに家もない。

 そんなヘアピンカーブを登ること約1時間。 ようやく山を越えると、 まもなくBorgo Paceの街についた。 メルカテッロの隣り街だ。

 

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エミリアロマーニャ州位置図(現地パンフより) メタウロ位置図(現地パンフより)
 
 ここでメルカテッロの位置をだいたい説明しよう。

 イタリアは長靴に似ていると言われているが、 僕にはむしろハイヒールをはいた大根足に見える。 その大根足のちょうど膝にあたるあたり、 北と南のちょうど中間あたりの表側(西側)にローマがある。 そのちょっと上がアッシジだ。 そこからさらに200kmほど北に向かいSansepblocroという街からバスは山道に入った。

 イタリアに詳しい人ならアレッツオという街はご存じだろう。 フィレンツェから南に50kmほどいったところにある街だ。 Sansepblocroはアレッツオからアドリア海岸沿いの都市群、 リミニ、 ペーザロ、 ファノといった街に抜ける道沿いにある。 そしてバスが入っていった山道が、 まさしくアドリア海に抜けるその道だったと言うわけだ。

 世界史にさほど興味がない人でも、 ルビコン川は知っているに違いない。 当時ルビコン川はローマ本土と北イタリア属州の境界だった。

 ルビコンをわたったシーザーが最初に占領した街がリミニだ。 そこからシーザー本隊は南下するが、 分遣隊をアレッツオに派遣している。 メルカテッロに向かう道は曲がりくねったど田舎の山道だが、 ひょっとするとその分遣隊が通った道なのかもしれないというわけだ。

 なお、 このメルカテッロは正式にはメルカテッロ スル メタウロという。 このメタウロというのはアドリア海のファノに注ぐ川の名前だが、 イタリア攻略中のハンニバルを助けるべくスペインからアルプスを越えて駆けつけてきた弟ハシュドウバルの軍勢を、 クラディウス・ネロが破った会戦の地としても知られている。

 帰ってきてから地図をちゃんと見ると、 シーザーの分遣隊もハシュドウバルも、 メルカテッロからは遠いようだが、 まあ、 そういう血踊り、 胸が熱くなる地方だということだ。

 

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メルカテッロ位置図(現地パンフより)
 

メルカテッロの街

 メルカテッロの街はほんとうに小さかった。 井口さんが用意してくれた略図を見てみよう。 小さくPOLICEなんて書いてあって大きな街区に見えるが、 まったくの誤解。 この図の端から端までが200mもない。 城壁に囲まれた中心市街地の人口500人。 周辺地域をあわせて1500人の街だと言う。

 

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メルカテッロ地図(by 井口勝文)
 
 僕たちが泊まったペンショーネは地図の★印のところ。 看板も出ていない普通の家だった。

 さて、 いよいよメルカテッロでの生活が始まる。 今までは旅の恥じは書き捨てと、 「まあ、 無事帰れたらいいさ」の世界だったが、 これからは違う。 緊張が走る。

 図は井口さんが用意して懇切丁寧に説明してくれたスパゲッティの食べ方。 なんでもズズズーと音を立てながら食べると、 イタリア人はショックを受けるのだという。

 出発前、 井口さんは我々にこう言った。

 「皆さんと一緒にイタリアに行けることになって、 ほんとに良かったのですが、 ちょっと気をつけて頂きたいことがあるんです。

 小さな街だから、 日本人が25人も行くと言うのは大変なことなんですね。 人口が一挙に5%も増えることになるんです。

 だからどうしても目立つ。

 いや、 別にそんなに緊張して聞いていただかなくてもいいんですけどね、 あはあは」

と冗談めかしながら注意を述べたものの、 井口さんの目はマジだ。

 「僕たちはお蕎麦を音を立てて食べますよね。 それが文化です。

 だからスパゲッティも音を立てて食べちゃうんですが、 これがまずい。 ほんとうに変な目で見られるんです」

 井口さんに恥をかかせたら彼は村で孤立してしまう。 僕の頭には、 家財道具一切をリヤカーにのせてとぼとぼ村を出て行く井口さんの姿が浮かんだ。 せめて、 スパゲッティぐらいは静かに食べなくては。

 

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スパゲッティの食べた方(by 井口勝文)
 
 次の日から出発日までわが家では特訓が始まった。

 「こうすれば、 音が出ないのよ。 こう。 …………ズズ。 あれ」

 ゆっちゃも口ほどにはうまくない。 僕はフォークの先にスパゲティを巻き付けることすらうまくゆかない。 なんとか巻き付けても普通に口に持ってゆくと駄目だ。 口をあんぐりと開けて上から突っ込むと音はしないが、 こんなんでいいんだろうか。

 「せっかくのスパゲッティがおいしくない!」

とゆっちゃ。

 最後の日は手抜きをしてラーメンで試してみた。 箸とラーメンならなんとかなる。

 「箸を持ってゆこう。 箸を」

なまじ毛唐と同じ道具を使うから変なのだ。 いっそ異文化を持ち込めば、 文化の違いということで納得するに違いない。

 「いやよ。 そんなことしなくとも、 イタリアのスパゲッティは日本のスパゲッティと違うから大丈夫よ」

とゆっちゃ。 ほんとうだろうな。

 が、 初めての食事は何がなんだか分からないうちに終わってしまった。 25人が勢揃いしてワアワアと食べだすと、 ズズズーなんて音は紛れてしまっていた。

 この初日のパーティは、 この町一番のリストランテで食べたのだが、 最後は隣り合わせた地元グループも入り乱れての大賑わいになった。 最初は僕たちのことを「いったい何なんだ」とじろじろ見ていただけなのだが、 とうとう好奇心を抑えきれなくなったんだろう、 「いったいどっから来たんだ?」「おまえたちみんな家族か」らしきことを聞いてくる。 僕たちのテーブルには、 関西以外のメンバーの佐藤さんと橋口さんが座っていたが、 片言で答えているうちに最後は僕たちは佐藤さんとこの子供にされてしまって、 なぜか「そりゃあめでたい」と、 何回も乾杯が続いた。 ワイン以外の珍しいお酒(レモンを発酵させたようなもの?)が回ってくると、 他のテーブルにいたメンバーも「僕にもちょうだい」とやってくる。 特に、 わざわざ日本から着物を着てきた難波さんはとても珍しかったのだろう。 「おお、 ナンバ・ケーン」と何回も握手を求められていた。

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