町中の方は、 西国寺の方からのびてきた路地の突端のところが中世以来、 豪商が巣くっている場所で、 地図上では三好屋小路、 今蔵小路、 小川町など消防署の海側のあたりです。 そのあたりは中世以来の豪商が住んでいますので、 江戸時代に興った新興商人(代表的なのは現在の広島銀行を作った橋本さんの灰屋さんです)は、 そこに入ることができませんから、 その背後、 消防署がある胡小路あたりに展開していきます。 例えば国道2号線沿いの公園は橋本さんの邸宅の跡ですし、 千光寺山の東斜面から天寧寺にかけて豪商たちの邸宅が展開していました。
本通り商店街が東西に延びていますが、 それと山の手を結ぶ道のほとんどは、 お寺さんの何とか大門というような参道をかねた小路がそのまま生きています。 国道のところには、 戦後まで民家が密集していましたから、 そのことを考えてみると、 基本的なパターンとしては、 お寺さんを結ぶ参道を中心に、 ほとんどの路地が成立しているということが分かります。
西側については、 JR駅の辺りまで、 今の海岸線から山際までのだいたい3分の1ぐらいのところが中世の海岸線です。 戦後、 塩浜が盛んな頃に石炭がらをどこに捨てるのかが問題になったのですが、 結局土堂の海岸通りの下に石炭がらを埋め立てました。 石炭がらは埋め立てに非常に有効で、 潮が入ってきても土をもっていきません。 このあたりは、 1m50cmぐらい下は石炭がらが埋まっています。
尾道を歩いているとあちこちで、 万有売りといって魚屋さんのお母ちゃんが荷車を引いて魚を売っています。 豊臣秀吉が朝鮮征伐に行くときに、 このあたりの漁師を全部連れていき、 戦争で旦那が亡くなって、 寡婦になってしまったので、 寡婦に路上でものを売る権利を与えたという記録が残っておりまして、 それが万有売りの始まりだろうと思います。 今でも実際に、 土堂の漁師町に住んでいる漁師さんのお母ちゃんが売っています。
朝、 漁に出て、 昼に帰ってきて、 明くる朝の市に出す魚をより分け、 残りを売ったのが万有売りの始まりです。 当時、 市には出せないけれども生きのいい魚を売っていました。 現在でも、 新鮮な魚が手に入ります。 路上についてはそういう使い方もされています。
街空間にただよう尾道の歴史
森重彰文
お寺の参道だった路地
歴史的な空間の違いについてですが、 中世における湾周辺のまちは、 基本的には山の手に配置されています。 いわゆる尾道三山をすべて意識した形で、 寺院が中心になって路地が作られてきています。 大正時代に今の街並みが作られたわけですが、 山の手については、 お寺さんを中心に、 檀家さんなどを接待する応接間のような形の建物が寺院の上にどんどん作られていきました。 それを結ぶ道というのが山の手の路地の感覚だと思います。
埋め立てと路地
江戸時代の豪商が住んでいた市街地の東側は、 新開などといった地名からも分かるようにいわゆる新街です。 そこの歴史を見ていきますと、 一気に埋め立てていったという記録はありません。 土砂が割合たまりやすいところでしたので、 大きめの石を一列に並べておくとそこまで埋まっていって、 そこが海岸線になります。 さらにその先に一列石を並べるというような埋め立てをずっとしてきています。 新街のあたりの横の路地からは、 そういった海岸線が読みとれます。
歴史的な路地の使い方
路地とは関係ありませんが、 上野さんのお話にありました路上の使い方について少し付け加えさせていただきます。
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