道路は通常、 公道です。 公道で幅員が広いと、 人間の意識の上では、 道は公共物であって「私」とは全く関係のないものとなります、 路地という幅員の狭い、 言ってみれば人間の両手を広げて届く幅の道であれば、 尾道市道であっても、 公道であっても、 「私的」空間になってしまいます。 したがって、 道に対する親密性が出てきますし、 そこを歩くと、 そこに住む人々の生活を覗き見するという面白さもあります。
路地空間に接して生活している人にとっては、 プライバシーは建物によって物理的に守られ、 外界とは遮断されているのですが、 路地という私的空間が、 そこに住む人々の心の中で重層することで、 他者との共有感、 一体感を生むのではないでしょうか。 現代の団地や一戸建てではほとんど隣同士のコミュニケーションがないということを考えると、 路地空間は、 我々現代人が忘れかけている大切なものを温存しているような気がします。
尾道の路地を歩いていましたら、 必ずといっていいほど、 私的空間の奥に井戸があります。 井戸はみんなの共有空間です。 「私」のものであって、 みんなのもの、 そんな路地を尾道のまちづくりのなかに積極的に活かしていけいないものかと思うのですが。
例えば、 尾道のあるゾーンについてはそこに合う「尾道美」というか、 その地域にあった「美の基準」というものがあってもいいのではないかと思います。 ですから、 画一的に、 中心市街地、 旧市街地と周辺の街の美の基準が一致する必要はないと思います。
ゾーンごとに美しさの概念は違うはず
大崎義男
私的空間としての路地
尾道について我々が考える場合、 尾道三山(千光寺山、 西国寺山、 浄土寺山)に囲まれた狭い空間をイメージ・シンボル・ゾーンとして考えます。 この都市空間には、 重層性、 密集性、 界隈性と日常性が混在しています。 そして、 それらを構成する重要な要素の一つとして「路地」があるのです。
美について
それから、 「美」ということを言われていましたが、 路地空間にしても尾道の街並みにしても、 私も決して綺麗だとは思っていません。 しかし、 例えば、 電信柱一つをとれば美しくなるのでしょうか。 尾道に電信柱がなくなってしまうと、 空間の質的なものが失われてしまって、 それは尾道の美しさではなくなってくるという気がします。
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