それでは、 鳴海先生の方から、 コメントをお願いしたいと思います。
今日のテーマの路地について、 みなさんに知っておいていただきたいことを申し上げて、 私のコメントに変えたいと思います。
まずビデオをご覧ください。
このビデオは、 インドネシアのジャワ島にあるジョクジャカルタという街の路地を写したものです。 先ほどモロッコの路地の話がありましたが、 東南アジアの路地の話がありませんでしたので、 ご紹介させていただきます。
尾道の路地とはずいぶん違いますが、 ここは観光客にも人気がある街で、 保存しようという運動が進められています。 この路地の両側の壁は、 家の壁だったり、 その内側は庭だったりします。 必ずしも家ばかりが建っているわけではありませんが、 自転車一台がやっと通れるぐらいの道幅です。 ですから、 自転車とぶつかるから気をつけてくださいという張り紙が貼ってあったりします。 それから、 音がずいぶんと聞こえてきます。 テレビやラジオの音、 家の人の話し声とか、 料理している匂いとかもにおってきます。
こういう路地は、 世界的に共通した特徴を持っているのではないかと思います。 ジャワはイスラムですから、 イスラムの影響かもしれませんが、 世界各地にかつてこういう空間が生まれて、 今でも残っています。 ただし、 このような空間は、 どの国でも都市計画によって近代化していく中では作られないものです。 もちろん不法には作られるのですが、 堂々と作るわけにはいかないというのが今の状態ですから、 言ってみれば路地の空間はこれからは生まれてこないわけです。 ですから、 路地には歴史的な価値があると思います。 もちろん歴史的な価値があるかどうかは、 そこに住んでいる人を含め、 いろんな人が決めていけばいいわけですが。
路地は新しく生み出すことができない
鳴海:
海辺の路地
上野さんから路地のいろんなタイプの話がありましたが、 私が持っている情報で少しご説明させていただきたいと思います。
図1(a) 台北、 三峡、 尾道などの路地 |
図1(b) 淡路の漁村などの路地 |
それから、 (b)は淡路島の例ですが、 漁村では非常に土地が少なく、 アミ道というのがあって、 横道があります。 地形によってだいぶ違いますが、 こういうタイプは、 海や川、 港などと非常に関連のある空間の構造です。 そういう意味では歴史を表している路地です。
中には、 (c)の左のように路地すらない場合があって、 そういう場合には他人の庭先を通って自分の家に行くという路地もあります。 農村に多いのですが、 東南アジアでは街の中にもあります。
それから(c)の右のように、 例えば道路に面している家の裏の土地を買ったとすると、 この家には道がありません。 そうすると、 囲繞地通行権といって民法でこの家の庭先を通行してもよいという権利が保障されていますから、 非常に古い形態の路地であるということがいえると思います。
まちなかの路地
他にも路地の系譜はいくつかあります。 図2(a)のようなタイプは、 京都の例ですが、 非常にきれいな整形の街区を作って表に町屋が並んています。 その街区中が使いにくいので、 路地を通してそこに長屋を並べました。 「図子」と呼ばれるものです。 こういった街区の利用効率を上げる役割の路地が、 城下町や都市の真ん中で発達しました。
図2(a) 図子−街区の内部に入り込み利用、 効率を上げる役割
図2(b) 庭先ロウジ−陣取り的に展開した宅地へのアクセス
図2(c) 庭先ロウジと囲繞地通行権
それから、 もう一つは、 (b)のように、 陣取り的に進んでいくもので、 スプロールです。 尾道の山手の路地もそうだと思いますが、 建物のすきまに道ができていきます。
図3 大阪の南の岸和田の子字 |
ここには皆に合わせる協調的な行為が見られ一種の規範性も感じられます。 しかしこの互いに協調するということが失われると、 こういった自由で暖かい環境が、 かえって荒々しい環境になってしまうわけです。 この自由性と協調性が共存できないと、 路地の良さは失われていくのではないかと思います。
それから、 残していく路地、 残っていく路地というものがあります。 これは、 利用されていて生きている路地です。 先ほどお話のあった、 創造的にメンテナンスしていくということです。 ただ守っていくのではなくて、 そこでの使い方を変えてみたり、 新しく活かしていくという意味です。
それから、 今のような建築制度の状態で路地を新しく作るというのは、 本当にできるかという問題があります。 江川さんのお話にもあったように、 コーポラティブ的に作っていくとか、 一つの一体の建築として作っていくことは可能でも、 街そのものをそういったふうに作ることは非常に難しい現状です。 ですから、 路地は新しくできない可能性があります。
この10年、 20年の間に、 色々な議論がありました。 例えば、 近代というものが便利さを求めてまちづくりをしていくと、 捨て去ってしまうものがたくさんあります。 そういうことに対して、 文脈主義者と呼ばれる建築家たちは、 なかなか過激な議論をしています。 近代主義は路地みたいな空間を捨て去ってしまったのですが、 彼等の中には、 いかにそこが犯罪の危険性を持とうが、 もう一度取り戻さなければならないと過激に主張する人もいます。
新たな路地空間の創出が難しいということは、 今日のみなさんのお話を聞いていて分かりますが、 コーポラティブ的に一体の建築として作っていくことは十分できると思います。 これは一番可能性があります。
残していく、 残っていく路地というのは、 歴史的な環境として位置づけるとか、 あるいはそれが観光に役に立つという様相を実現していくということで、 メンテナンスの創造性ということが表現できるのではないかと思います。
最初に言った人の住まない路地については、 なかなか厳しい問題です。 要するに過疎で朽ち果てていく茅葺き農家と同じで、 そんな路地も日本中のあちこちにあるわけですから、 それをどうするのかというのは今日の議論を越えており、 また機会があればそういうことも議論したいと思います。
私は、 尾道のための発言はしないことにしておきましたので、 あまり的確なコメントになりませんでしたが、 路地は生まれてきた理由がそれぞれにあって、 たぶん、 尾道の路地も探っていくと、 それを発見できるのではないかと思います。
できれば一年に一回ぐらいは、 関西と中国ブロックの共催で、 こういった催しがやっていければいいと思っています。
有り難うございました。
今回は、 中国ブロックと関西ブロックの共催でさせていただきましたが、 こういった機会を今後も作っていきたいと思っております。 また、 尾道のファンになった方もおられると思いますし、 私個人としてもぜひまた尾道のまちに来てみたいと思っています。
今日は長時間本当にありがとうございました。
なぜ路地は気持ちいいのか
路地がどうして我々に気持ちよく感じられるのかというと、 二つの意味があるかと思います。 (1)相反する状態が共存できること、 それに先ほど上野さんがおっしゃったように、 (2)各個人が自由に身の回りの環境に働きかけて、 使ったりいろんなことをして、 暮らしの気配が感じられることです。
路地の今後
路地には、 取り残されていく路地というものがあると思います。 人も住まない路地で、 そういうものはどんどん朽ち果てていく可能性があります。
終わりに
西斗志夫
今日は、 パネラーの方も含めて120名を越える方に参加していただきました。 非常にたくさんの方に来ていただいて、 我々も驚いています。 半分以上の方が泊まりがけできておられます。 尾道の街の魅力がこれだけのみなさんに来ていただく大きな動機になったことはまちがいないと思います。 私はよそ者ですけれども、 そういう意味でも尾道の街に対してあらためて敬意を表したいと思います。
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