まず、 都市案内について。
先ほどの田端先生のお話にありましたように、 案内図とガイドブックという見方があります。 ガイドブックは、 例えば自宅である程度調べて記憶してから出かけたり、 あるいはそれを持っていくというものです。 ですから、 ガイドブックは自分とともにあるという原点があります。
もう一つは、 現地に行ってその空間に置かれている案内図です。 これは日本においてはサインや標識を伴いながら段階的に置かれています。 目的地に向かって近づいてゆくと、 だんだん詳細な情報になってゆきます。 日本社会に限らず成熟社会では、 案内が丁寧に置かれています。
先ほどの橋爪先生の中国の話は、 成熟社会に向かう中でのあるプロセスだろうと思います。
この前、 調査に行ったときに、 ある人がパソコンを取り出してルートの検索をパタパタとして、 乗り換えるときに「次はこっちの方がいい」というふうにやっていました。 状況に応じて検索してゆくといった感じです。 今後はたぶんパソコンがもっと小さくなっていくでしょうから、 携帯グッズをたくさんつけるにしろ、 パソコン一つでやるにしろ、 案内板を自分でもって歩いていけるわけです。
案内とともに動くという意味でそれと似ていますが、 カーナビには私は反対です。 カーナビはジェット機の自動化と同じようにできるだけ外を見るなというものです。 「外を見るな」ではだめで、 やはり、 外を見ながら状況の変化を自分も確認して、 情報を入れていけるものでなくてはだめだと思います。 参加型で空間を感じ、 空間の変化に自己を対応させていくことが、 都市案内の中で期待されるものだと思っています。 それは、 都市案内自身を楽しくするものです。
結局、 プラスマイナスゼロの線をどこにおくのかということと、 マイナスもそれほどけなしていないという話として解釈すれば、 ある程度マイナスにも価値を置いてくれているわけです。 大きいプラスだけを探して追いかけていくという探索を続けているのが、 日本社会であろうかという感じがします。