色々な話が出てきましたが、 最初に申し上げたように、 根本的には案内という概念から我々が想起する何らかのスタイル、 フォーマットというものがあると思います。 都市案内は、 いくつかの型に、 我々がある種の都市的情報をあてはめて解釈する、 解釈装置として非常に機能的なものであると思います。
例えば、 京都の案内だと、 格子状の空間に対応した案内のある種のフォーマット、 スタイルがあって、 誰もがそれにあてはめて情報を出せば理解しやすいし、 誰もが理解しやすいだろうという考えが先にあるだろうと思います。 ただ、 私は京都のはずれの方に住んでいますが、 そこだと街は碁盤目状ではないのに、 通り名から言われると非常に困ります。 そういった思い込みが先行するといったことが実際にはあるわけです。
さらに言うと、 先ほど、 日本はランキングを好まない文化だと断定しましたが、 相撲の番付の話があったように、 かつては、 そういったランキングが好きだったかもしれません。 各種の番付を印した刷り物が発行されていました。 その時も、 ミシュランのような星をいくつというようなフォーマットではなくて、 番付という相撲から生まれたある種のランキングの型に、 ありとあらゆるものをあてはめ込んでいくという方式がとられています。
相撲の番付の東と西というように、 二つに割るというような発想が、 世界中に他にあるのかどうかが面白いと思います。 東と西の意味付けの背景に文化的な伝統があります。 また、 真ん中に行司の欄を作っています。 例えば、 大阪の昔の橋の番付を見てみると、 どうもなんとも分類しがたい橋をそこに入れているようです。 小さいけれど値打ちのある橋とか、 四つ橋とか分類不可能な橋を、 そういうニュートラルなところにはめ込んでいくという手法です。 そういったことも含め、 はじめに何らかの形式があって、 そこに落とし込んでいくというところがおもしろいと思います。
いつからあるのか分かりませんが、 非常におもしろいと思うサインに、 不幸があったときに駅からお通夜の会場に向かって置いてある「指のガイダンス・サイン」があります。 駅から目的地までそのお通夜に行きたい人たちだけのために用意されたものです。 あれに類するものとして、 温泉町に入って、 目的の旅館に行くまでに適切な角々に置いてあるサインも、 よくできていると思います。 その時にだけに必要なサインのありようを、 考えていく必要があるのではないかと思います。
田端先生は、 わかりやすさとおっしゃっていましたが、 それは、 じゃまなものを省いて示すということだと思います。 我々は非常に膨大な量の案内の中から、 自分にとって無駄なものは全部省いて理解しています。 町なかの案内板でもそうですし、 分厚いガイドブックでも本当に必要なものはごく一部だけです。
例えば、 銀行の場所を示す案内板は駅などいたるところにありますが、 まず見たことはありません。 本当に必要なときにしか意識しないと思います。 でも、 地下鉄の駅の何番出口がどこに出るのかという案内板は、 よく使います。 だからその案内板が見つけにくいと困るのです。 膨大な情報の中から、 必要な人が必要な情報をいかに検索しやすくするのかという、 問題だと思います。
解釈・検索装置としての都市案内
橋爪紳也
都市案内のいくつかの型について
橋爪:
情報を見つけやすくする
もう一点は、 「案内の中で途中を省略する」というお話がありましたが、 要は、 膨大な量の情報から必要な情報を、 いかに簡単に見い出しうるようにするのかということです。
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