3。 未来の都市景観のために
個別分断消費の社会に景観はない
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人間の主観で景観を捉えると心象風景や原体験の「風景」という言葉になります。 僕の場合でしたら下町の風景です。 空間として捉えると川のある風景とか雪が降っている「景色」という言い方が馴染みます。 しかし雪の原風景とはちょっとへんです。 時間軸で言えば江戸の原風景などで、 江戸の景色といった言い方は少し馴染みません。 このように「風景」と「原風景」と「景色」は、 「時間」「空間」「人間主観」との全ての組合わせで使えるとは限らないのですが、 景観はすべての場合に使えると思います。 江戸の景観でも、 雪の降る景観でも、 下町の景観でもしっくり使えるのです。 すなわち景観とは、 時間、 空間、 人間の生活の仕方、 すべてと関わる言葉だと思います。
このように見てくると、 個別分断消費の社会は、 過去や自然環境、 他者や都市と無関係な「景観のない社会」ではないかと思うのです。
もう一度、 「2。 近代社会の変遷」をふりかえると、 かつての村社会ではいやらしいぐらいに人と人がつながっていました。 またその時代は、 谷から水を取ってきて使うという生活ですから、 人と自然もそれなりにつながっていました。 自然と人間、 人間と人間、 人間と地域とのつながりがあまりに密接で、 それが厭だから都市に出てきた。 近代はそうしたつながりをみんな切っていく時代でした。 しかし、 都市の下町では貧しいが故に、 つながりを絶っては生きていけなかった。
そうやって、 自立した豊かな環境が作れたら良かったのですが、 実際はどうだったか。 みんな頑張って擬似的な近代個人主義に行こうとした。 大量生産がそれを支えました。 その結果、 自分だけの家、 すなわち庭付き一戸建てを持つことをゴールとする社会になりました。
そういう社会では、 他人は「人」ではなくモノであって、 見えなくなります。 景観という言葉自体が存在しない社会になってきたのではないでしょうか。 すなわち、 私の家だけあったらいい、 私だけこんな生き方をすればいいということになっているのだと思います。
かつては村を出て都市で稼ぎ、 都市を仮の住まいと考えながら故郷へ帰ることを前提として暮らしていました。 しかし今は都市で生まれ育った人間が多くなり、 都市を故郷として考えていかざるを得ません。
近代都市はつながりを断ち切り、 モノをめぐる取り合いをしてきたわけですが、 何とか連帯感を作っていかないと自治体としてはやっていけない。 そこで、 行政は「ふるさとづくり」に力を入れるが、 役所まかせのふるさとづくりでは、 市民の共感は得られません。
例えば神戸祭に本当に市民が参加しているか。 浴衣を配るから婦人会のおばさんが踊っているだけ。 写真を撮っている人も「神戸祭」を撮っているんじゃない、 自分の家族が出ているから撮っているだけなのです。 家族のアリバイを撮る方が大事なんです。 そうやってビデオや写真に撮って、 自分の家族が存在するかのように錯覚しているのが今の日本人の家族です。
しかし、 子供が中学校に入る頃にはもう子育てに挫折している。 先日、 街づくり支援協会がやっているフレックスライフ研究会での議論で、 子が15才になったとき、 日本の親は15%しか子育てに満足していないそうです。 つまり、 あとの85%は子育てに挫折している。 この状況は「消費アイテム」として子供を育てているからです。 ちなみにアメリカの親の満足度は65%だそうです。 日本ではおそらく、 この子育て満足度に回答した人の中にお父さんは入ってないでしょう。 回答する資格すらないのです。
東京に企業町内会というのがあり、 そこでは地域の企業が協力して地域活動をしています。 例えば紙のリサイクルを進めたり、 防災活動に協力したり、 あるいは企業町内会が音頭をとって緑化などの地域景観を考えたりすることもあります。 大阪の御堂筋の景観を考える活動も、 それに近いものがあるのかもしれません。 企業も儲けることだけを考えるのではなく、 みんなが気分がよくなる場所づくりに参加していく時代になりつつあるのでしょう。
水辺づくりにしても今までは企業が川に背を向けてビルを建て、 後ろの水辺には知らんぷりでした。 考えたとしても、 自社のネオンサインをつけることぐらいでした。 しかし、 これからは水辺をみんなのものにしていこうという動きが出てくるかもしれません。 また、 歴史空間や地域の特色(外国籍の住民が多い、 あるいは高齢者が多いなど)を生かしたまちづくりも考えられます。
たとえば大阪に淡路という街があります。 ここは都市計画の専門家の目で見ると車も入れないとんでもない街なのでしょうが、 車が入らないからこそ魅力的な街になっているのです。 ここでは高齢者がたくさん歩いています。 安心して歩ける街はとってもいい雰囲気です。 その街にはボクシング場もあって夢をいだいた若者も歩いていたりする。 これも豊かな景観ではないかと思います。
ところで、 僕はコミュニティという言葉が好きではありません。 むりやり人を縛り付けるというニュアンスを感じてしまいます。 縛られるために都市に住んでいるのではないと言いたい。
そういうイメージではなく、 都市では一人一人が自立していいのですが、 もうちょっとお互いがつながり、 それぞれの存在を認め合って気分のいい空間が出来ればいいと考えています。 そういう方向へ動く時代になっているのではないかと思うのですが、 ちょっと動きが遅いという状況なのだと思います。
偽りの故郷、 偽りの家族
ただ最近はそんな考え方だけでは駄目だということに段々と気がついてきたように思います。 未来の都市景観を考えるとき、 これからは都市が故郷だという考え方が出てくると思います。
個別分断消費を越える
そこで、 個別分断消費を越えてかつ個別の活動を阻害・強制しない、 なんとなく気分の良い空間づくりを考えたとき、 男は一体どうすればよいのか。 自分の住んでいる場所に関わりを持つのも大事ですが、 働いている場所も自分の場所と見るのも大事ではないかと思います。
空間づくりはありうるか
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