僕自身は長田区出身で、 1985年から神戸郊外のニュータウンに住んでいましたが、 JRの長田に降りたことは一度もありませんでした。 必ず三宮で降りて、 そこからどこかに行くという生活パターンでした。
ところが震災で、 図らずも大都市問題に直面することになったのです。 自分が生まれた場所とは何なのかを考えざるを得なくなったのです。 民俗学で言う「内省」をせざるを得なくなって、 そこから逃げ出したら民俗学者を廃業するしかないというところまで追い込まれました。2。 近代生活の変遷
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関西の近代社会は、 もともと西日本各地あるいは朝鮮半島にあった村社会から出てきた人たちによってつくられたのですが、 その生き方には2つの流れがあったように思います。
ひとつはいわゆる「阪神モダニズム」という生活です。 これは「自立した個人主義」であり、 建築の人からはそれなりに評価される「良き景観」を生み出したと言えるかもしれません。
しかし、 実は「見えない景観」もありました。 それがもうひとつの流れです。 例えば、 大正時代の終わり頃に建った長屋がそうです。 見ようとしたら見えたのかもしれませんが、 僕は震災まで見ることが出来ませんでした。
ですから下町の居住環境は、 仕事も生活も一緒にしないと仕方がないものです。 例えば、 炊事場がないから天ぷらが家でできない、 魚なんかは家の前で七輪を出して焼いていました。 その代り、 天ぷら屋が下町のあちこちにありました。 また、 お客さんをもてなす場が家の中にないから、 そのための専門の店ができています。
昭和初期にはミルクホールとカフェーという2つのパターンがありました。 カフェーには女給がいてちょっと上等。 そこまでの金がない連中がミルクホールに行きました。 日本で最初のミルクホールは早稲田大学前に出来たそうですが、 神戸には「アジアのコーヒ」とか「ホワイト」などのチェーン店がありました。 白いのれんが掛かっていて、 中ではカステラ菓子やぜんざい、 コーヒー、 ミルクなどを出していました。 そこで商談をしたり、 親戚をもてなす生活がありました。
また、 下町は工場と隣り合わせの生活ですから、 騒音も生活のリズムでした。 先日、 真野のふれあい住宅で入居者のお話をうかがう機会があったのですが、 その中で「日曜日は工場の音がしないから寂しい」という話が出ました。 それで僕は、 工場の音も生活のリズムなんだな、 そういう暮らし方もあるんだと気づかされました。 ニュータウンにある僕の家なんか本当に静かですが、 それが子供たちにとって幸せかと考えると、 いろいろと思うことがあります。
それどころか、 初期の長屋はトイレも共同でした。 不衛生な環境でしたから、 子供がよく死にました。 統計はありませんが、 長屋では4、 5歳くらいの子供がよく死んだと聞きます。 長屋には年寄りも含めていろんな年代の人が住んでいました。 昼間に両親が働きに出ている間、 子供たちは長屋の老人たちとも自分の家族のように接して遊んでいたのです。 ですから子供が死ぬと、 長屋全体の悲しみとなりました。
また、 死んだ子供のために大家さんが地蔵をつくってくれることも多かったようです。 地蔵はもともと京都の町ごとにあったものですが、 それが大阪に広がり、 神戸の各長屋ごとにも祀られるようになりました。 そして、 死んだ子供の供養や後から生まれた子供の成長を願って提灯を奉納することが一般化して、 地蔵盆の風習となりました。 長屋がなくなり、 個別居住の家になってからも、 8月23日の地蔵盆には町内の家がそれぞれ分担してバラズシをつくっていました。 それは震災前もあったし、 震災後もありました。
しかし、 時がたっていくと多くの人が長屋からいなくなりました。 僕自身も85年に長田から出ました。 ニュータウンに家を買わなくちゃと思ってしまったのです。 そういう風にして長田はだんだんと衰退し、 高齢者だけが残されました。 そこを震災が襲ったわけです。
高齢者が長屋を懐かしむのは、 彼らが古くさいからではなく、 長屋の住み方に何か良いところがあったからだと考えるべきでしょう。 僕自身も、 自分で選んだニュータウンの生活が、 本当にこれでいいのかと思うことがあります。
そこで、 長屋から抜け出した人々が次に選んだ個別居住の生活について考えてみることにしましょう。
個別居住でみんなが求めたのは、 イチゴハウスのような庭付き一戸建てでしょうか。 あるいは「隣は何をする人ぞマンション」になるのかもしれません。 そこではいわゆる標準世帯、 つまりお父さん、 お母さんがいて子供が一人か二人の核家族の家が出来るのですが、 その中で子供は家に閉じこめられることになりました。 それが子供にとっては、 とても負担になっていると思います。
先年、 世間を震撼させた北須磨ニュータウンの「酒鬼薔薇事件」を上げるまでもなく、 閉じこめられて生活していると、 人間なら誰でも持っている内面の暴力性の出方がきつくなってしまうのです。 多くの人たちと交わって生活していると暴力性も消化されていくのですが、 家庭の中に閉じこめられていると暴力性が時に噴出してしまう。 他人に向かって噴出すればいじめになるし、 自分に向かえば自殺になってしまいます。
しかし、 コンビニとコインランドリーがあれば高齢者はそれなりに自立できるという面もあります。 インナーシティに残った高齢者が、 よその都市やニュータウンに住む子供に呼ばれても同居しないのは、 行ってしまうと、 自分の生活の全てを断ち切って子供に全面依存しなければ生きていけなくなるからです。
あるお母さんが80歳をすぎてから東京の郊外に家を買った子どものところに行ったのですが、 子供の声だけを頼りに生活しているという話を聞きました。 そういう環境で親を看るということが果たして良いのかと思います。
また、 男の立場からニュータウンを見ると、 ここには男の居場所がありません。 回りはベッドとショップばかり。 女の方は、 子供を中心としたネットワークがあり、 PTAや親子劇場などがあって毎日が忙しい。 僕など、 ひたすら庭で夏野菜を植えて孤独な世界に入り込んでいます。 まあ、 男が居場所を作れないということもあるのですが。
ところが、 社会が近代化されて性も商品化されてしまうと、 男は買春の方が手っ取り早いとそっちへ走っていくようになりました。
女性はどうだったかというと、 大正頃(1920年代)から処女尊重が言われるようになりました。 女学校で箱入り娘を育てるようになり、 女性の近代化、 つまり商品化が展開していきます。 結婚するとき「良い家にもらわれる」と言いましたよね。 阪神モダニズムの地域でも、 都市の下町でも、 同じようなことが進行していたのです。
ただ長屋の方ではかなりルーズだったようです。 長屋では子供のお父さんが誰なのかよく分からないという嘘か本当か分からない話があったそうですが、 江戸時代では多分本当の話だっただろうと思います。
そして今の社会では性はどうなったかというと、 「自分の性は自分の物」という考え方です。 Sexの私物化であり、 「あんたに迷惑かけなきゃ何してもいい」というのが、 援助交際をする子供たちの論理です。 「売れるんだから売るんだ」ということです。 それで豊かな人間関係が築けなくてもいい、 物をたくさん買えば幸せになれるとブランド品に走るのです。
しかし、 ブランド品をいくら買っても幸せになれないことに段々気づいてくる。 18歳を越えたらババアで自分に商品価値もなくなってくると、 今度はホストクラブに入れ込んでしまうわけです。 売春からホストクラブへというのは、 もはや決まったパターンになってしまっています。
そんなことになるのなら最初から金を介在させずにちゃんとした人間関係を築けと言いたいところなのですが、 今の若者たちにはそれができない人が多い。 お金を介在させないと人付き合いができない形になっているのです。 それが80年代から現在にかけての社会状況ではないかと思います。
この援助交際については、 宮台真司さんとも議論したことがあるのですが、 やはりニュータウンの問題と関わってくるように思います。 ニュータウンにコンビニがたくさん出来てくる中、 80年代後半からエロ雑誌、 写真投稿雑誌、 少女セックス雑誌が流行してきます。 そういうのと関わっているようです。 「売れるものは何でも売れ」という風潮がその頃から出てきた。 ただ、 最近では援助交際も相場が下がってきたから、 売ったら損だということになってきています。
どうも子供も私たちもどう生きていいのか分からない時代になっていると思われます。 個人がバラバラになっていく中で、 さあ自分で考えろと言われてもどうしたらいいんだろうという昨今です。
この事件の犯人の父親は、 神戸の有名な重工業に勤めていた人で、 昭和23年に奄美の島から集団就職で関西に来ました。 いろんな努力の末、 1975年に北須磨ニュータウンに家を構えるのですが、 それは当時としては成功者の部類でした。 しかし、 それが子供にとって幸せだったかどうか。 母親からは「勉強しろ」と介入され、 近所からは東大に通ったどこそこの息子さんの話も聞こえてくる。 しかし、 90年代に入ると子供は「そんなに戦っても自分は一番にはなれない」と分かってくるのです。 勝利者は一握りだけで、 大多数の子供は挫折感を味わなければならないのです。
僕の勤める大阪外大は今では入るのが大変な学校になっていますが、 その割りには学生は負けたような顔をしています。 競争を続ける社会の中で、 親は子供に生き方を示せなくなり、 なおかつ子供は家の中に閉じこめられている。 どうも子供たちにとって、 今の社会は勝ちのないゲーム、 抑圧ではないかと考えています。
下町の生活
そこではむしろ建物よりも住み方に意味があるのかもしれません。 都市の下町の住み方を振り返ると、 そこでは厳しい労働環境の中で男も女も働いていました。 阪神モダニズムは、 男が働き、 女が働かないことをプライドとする社会でした。 しかし、 下町では男も女も働き、 働くけれども食べていけない生活でした。
個人の悲しみも共有した長屋での暮らし
都市の下町では出身地の違う人たちが隣り合って、 毎日の暮らしを展開していました。 緑はほとんどないけれども、 盆栽やプランターを使って自分たちで緑をつくったりする、 そんな住み方でした。
暴力性を誘発する個別居住の生活
下町からニュータウンの個別居住に移った人は多かったのですが、 一方、 阪神モダニズムの世界でお屋敷に住んでいた人も減少して、 お屋敷は分割されたりマンションになっていきました。
年寄りも男も居場所がない街
一方で、 大衆消費社会では商品サービスに依存して、 非自立、 孤立化する生活が展開します。 家族一緒にご飯を食べるという行為がほぼ存在しなくなってきました。 ひとつの家の中で食べていても、 それぞれの嗜好に合わせてコンビニで買ってくるということはよくあるパターンです。
お金を介在させないと
性の問題を考えると、 これも商品化されています。 昔の村社会では夜這いというものがあって、 心が通えば性も通うという世界が展開していました。 これを成立させるためにはやはり努力が必要であって、 男は女にいろいろと気を遣わなくてはならなかったのです。
人付き合いが出来ない子供たち
親が生き方を示せなくなった
例の「酒鬼薔薇事件」を少し調べたことがあります。 事件が起きたニュータウンには高校が12もあり、 成績ごとに切り分けられて学校を選ばされることになります。 これはものすごい抑圧状況です。
競争社会
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