いろんな話題が出ましたが、 最後に私自身の感想を述べたいと思います。 二つ気になったことがあります。
ひとつは、 森栗さんが「我々の仕事は見ることに意味がある」とおっしゃいましたが、 見るという行為は何なのだろうかということです。
ものを作っているとき、 主観的に見る部分と客観的に見る部分があると思います。 私は学生時代に「見るという行為は見えるものしか見えない」と教わったことがあります。 つまり、 知らないものは見えないし、 見たくないものも見えなくなってしまうということです。 それを教わった時に出された事例が、 天空に巨人がいて下に羊がいるというゴヤの絵だったのですが、 羊に見えるものは実際には白い点でしかないのです。 客観的には白い点なのに、 みんな羊だと思う。 つまり「見えるものしか見えない」ということです。
今日、 森栗さんは「見ることが仕事である」とおっしゃって、 「見えない景観」の話をなさいました。 きっと「見えない景観」を見ておられたのだろうと思います。 (私は「見えない」「見ている」ということをきちんと考えなければいけないと思いました。 )景観は、 何をみているのだろうかということにつながります。
だから幸不幸にかかわらず享受できる景観は、 ある種のメディアなんですね。 都市の広場などの空間づくりを考える時にも、 「接触のない共感」がカギになるように思います。
今日一番最初の森栗さんのお話の中で、 人のつながり方の中には何が介在するかという話が出ました。 例えば、 女性の商品化にはお金が介在し、 コンビニの成立には視線が介在するというお話がありました。 しかし、 これからは「介在」ではなく、 「もっと包み込むような感覚」というか共感できる環境での「無関係の関係」が求められるように思います。 それが「何となく気分のいい空間」ということかもしれません。
そういう感覚で考えると、 見えないものも見えてくるんです。 例えば、 長屋の生活の有り様は見えない景観ではなく、 それが一番共感できる景観のひとつの姿ではないかと思いました。
この2点が、 今日のお話の中で私自身が面白いと思い、 かつ考えさせられた点です。
森栗:
最後に哲学者、 何か一言どうですか。
伊東:
関係が創出される「場」という言葉も本当は良くないですね。
森栗:
本当に。 言葉にすると全部嘘になってしまいます。
伊東:
ただ個人があって、 それをハイ、 つなげましょうとでもいうように、 「つながり」という行為も一挙にできると思うからおかしいのであって、 徐々に積み重ねていくものでしょう。 ひとつひとつの言葉も、 徐々に積み重ねていくしか今はできないのです。 倫理学でコミュニタリアニズムと呼ばれる立場があって、 彼らは、 個人主義的な発想の倫理学は「負荷なき自我」を前提している、 と言って批判しています。 たしかにそうした抽象的な、 この文脈では消費的な個人を最初に想定するのは問題があるでしょうが、 だからと言ってコミュニティが何の留保もなく突然持ち出されるのは、 やはりおかしい。
そういう点で、 つながりを形作っていく時間や持続を捨象したのが悪かったとしか言いようがない。 それを更に進めて来たのが最近のメディア機器です。 手続きを経てルールを創出し、 それを共有して、 学習してようやく出来ていたものが、 メディア機器によって、 ルールは習わなくてもとりあえずすぐにつながれるようになった。 けれども、 機器とつながれていない人には、 まったく無関心で、 ときにはその場にいる人の権利を侵害するような、 あやふやで心許ない、 個人の延長上の関係性しか持てなくなった。 そういう状況を以前、 わたしは「汎メディア化」による私的空間の爆発と呼びました。 ちょうどワープロを使うと便利だけど、 それによって漢字を書く能力が低下してしまうように、 メディア機器によってかえってコミュニケーション能力が低下してしまっている、 これが現代なのかもしれません。
小浦:
どうもありがとうございました。 これで今日は終わります。
包み込むような感覚が共感できる景観
もうひとつ気になったことは、 つながりという言葉です。 現代の個別分断消費や自己決定権的な状況の中で、 どういう「つながり」があるのかという話がたくさん出ました。 「つながる」という言葉は接触するというイメージがあります。 しかし、 今日「共有できる価値としての景観」の話がありましたように、 接触のない共感もあり、 みなさんがイメージする「つながり」はそういうもののような気もします。 そういうものが、 森栗さんがおっしゃった場の創出につながっていく可能性があるのだろうと思いました。
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