これからの討論については、 次のように進めたいと思います。 まず、 三谷さんのスライドを見て僕なりに整理したマトリックスを分析し、 それにみなさんも参加していただければと思います。 では、 三谷さんのお話をディスカッションの課題として整理してみます。
三谷さんは3つのパラドックスと言うべきか、 アプローチと言うべきか、 そこから空間論を展開されたのではないかと思います。 それを整理すると、 このようになるのではないでしょうか(図1)。
2つめのテーマは「発見へ」ということだったかと思います。 これをどう展開するかというと、 誰でもが見慣れている、 あるいは習慣となっている日常的な空間を、 非日常的な空間としてつくっていくというやり方です。
3つめのテーマは、 限定しない存在感として公共空間を作っていってはどうかということです。 従来の空間そのものが「地」であったものを、 「図」として大きな骨格にしてつくっていこうというものです。
この3つのアプローチに対してどういう手法が考えられるかですが、 (1)ではより身体感覚による空間の断片化が示されたと思います。 公共空間だからといって、 大きなものを扱って全体として緑があればいいという考え方ではなく、 もっと空間を断片化する手法が必要ではないか。
(2)の「発見」の手法では、 イサム・ノグチのようなアートの活用化という手法もありますし、 今まで嫌われ者だった土木構造物のような都市のインフラを見なおすこともひとつのデザイン手法としてあるのではないか。
(3)の「限定されない存在」の手法は概念的で難しいのですが、 例えば鎮守の森のように存在感があることによってのみ存在するということです。 そういうものは今まで機能空間として意識されてなかった。 それを意識させよう、 非機能空間として見られていたものを風景化してみようということです。
このマトリックスの中で、 三谷さんはそれぞれの悩みをお話しされたのではないかと思ったのですが、 いかがでしょうか。
三谷:
非常によくまとめていただいて僕自身もびっくりしているのですが、 赤を入れさせていただけませんか(笑)。 僕も言葉の使い方にはこだわりたいと思っているのです(図2)。
また、 (2)の手法である都市構造物の見直しについては、 (3)の「地」を「図」にする方がふさわしい。 今まで気づかなかった自分を取り巻いている世界のあり方を見せたいという意図で話しましたので、 都市構造物を庭園の要素として持っていきたいと思います。
また、 (3)のテーマである「限定しない存在へ」という言葉はどうもしっくりこないので「庭園化」という言葉を入れさせてください。
それとこの3点を佐々木さんは「アプローチかパラドックスか」とおっしゃいましたが、 私にとってはパラドックス、 矛盾なんです。 このパラドックスを認識することが重要なんです。 若干細かいことですが。
佐々木:
それは『SD』1998年6月号の「ランドスケープデザイン特集」で三谷さんや私の作品を見に行って議論するという企画があったとき、 話したことですね。 私が「コンテキストとテキスト」の話をしたのは、 ものをつくるデザイナーが「私のコンテキストとコンセプトはこうだ」と言ってしまうとその時点で全てが止まってしまうのではないかと常々考えていたからです。
コンテキストとは文脈という意味ですが、 デザイナーは都市の歴史や関係性を読みとって、 そこから文脈をあぶり出すという作業をします。 しかし、 そこでデザインは完全に行き止まりになってしまうのです。
その作業の前に、 もっと直感で風景が持っている強さや個性をあぶり出そうとする場合、 コンテキストよりはテキスト、 つまり自分がもっている主題をもとにした切り込み方をしない限り、 コンテキストをもとにした作業をいくらしてもデザインは展開できない。 つまり、 風景が潜在的に持っている魅力はこれだと切り取れるデザイナーの能力が重要なのです。
その風景の構造の読み込み方について議論が出来る、 そういうテキストを出すことがデザイナーとしての責任ではないかと思うのです。
例えば、 今日示された「風の丘」は完成度の高い優れた作品で、 学会賞も当然の結果でしょう。 この作品で三谷さんが提示した問題点は、 非日常空間である墓地と日常空間である都市公園の合体をどのように処理したかということです。 これは、 設計する場合とても難しい条件ですよね。 このとき、 三谷さんがとった手法は、 何もない「ボイドな空間」を持ってきたことです。 バースのクレッセントサーカスのようなものをどんと放り込むことで、 日常と非日常のつなぎをしてみようと三谷さんは考えたのじゃないでしょうか。 そのためのテキストが、 ロンドンのサーカスやクレッセントだったと思うのです。
この「風の丘」をつくる前に三谷さんは風車がたくさん掲載された本を出しておられるので、 当初市長の頭の中にはこの風車のイメージをテキストとしてつくりたいという思いがあったらしいのですが、 三谷さんの「風の丘」のテキストとしては日常と非日常をつなぐ場としてイギリスの風景があったわけです。 そういう議論のあり方が面白いと思います。 そういうディスカッションがないままに理屈と理論だけでつくられると、 絶対面白いデザインは生まれてこないというのが私の持論です。
それはそれとして、 三谷さんが提示された問題をパラドックスとしてみると、 我々は公共空間を作るときにそうした努力をしてこなかったことがよく分かるのではないでしょうか。 三谷さんが「限定されない存在ではなく庭園化ではないか」とおっしゃったのは、 私も全く賛成です。 ボイドとしての空間の存在感は一方で庭園が持っている空間性にも通じるからです。
それでは、 パラドックスを提示されたあと、 我々はどういう公共空間を目指すべきなのか。 三谷さんが言う「民有公共」は、 今まで所有概念であった空間を利用概念として捉えることによって、 公共空間を見ていこうとしているように感じられます。 公共とは、 従来からお上が所有し、 だからお上が管理する空間と見られがちなことがそもそも間違っているんですね。 それを乗り越える概念で公共空間を見ることはどのようにしてできるでしょうか?
今、 佐々木さんが「どういう公共空間を作るべきか」と言われた時、 私の頭の中に浮かんだのはニューヨークのセントラルパークです。 欧米の公園は、 フレデリック・ロー・オルムステッドが19世紀末に「都市の中には公園が必要だ」と提唱したことに端を発するのですが、 それまで都市の中には貴族の庭園しかなかった。 公共の庭園として公園が出来たわけですが、 なぜ都市の中にああいう空間が必要かと言うと、 都市の機能として必要だったのです。 まず防災機能、 そして都市衛生機能。 これは、 狭い家の中にだけいるのではなく、 広い空間で運動しなさいと言うことですね。 この2点で公園が造られました。 つまり、 近代化する都市の中での徹底したハード面からの必要性で公園が造られたのだろうと思います。
それに反し、 今我々デザイナーはあまりにソフトにこだわりすぎていると思います。 私は「ファミリーレストランのようで気持ちが悪い」と良く言っているのですが、 例えば妙に作り込んだ広場にストリートファニチャーのベンチが並んでいるのは、 「さあ、 この木陰で話しなさい」「これでくつろげるでしょう」と言われているようで、 いかがわしさを感じてしまいます。 都市がある程度発展しすぎた結果、 ソフトにあまりにも偏りすぎているという印象です。
そういう現象を見るにつけ思うのですが、 我々日本人に西洋人の持つ広場のような公共スペースは本当に必要なんでしょうか。 防災や衛生などの根本から考え直さないといけないように思います。 「親切でいいものを作ろう」だけじゃ駄目だろうという気がします。
そここそ公共空間を考える上でクリティカルなポイントだと思います。 公共空間のソフトとしての必要性と、 ハード機能面としての必要性の境界線の話です。 阪神大震災の後ですから、 公園の防災性については「ない方がいい」なんて我々は絶対に言えない立場ですし、 やはり街の基盤整備は大事だと思います。 しかし、 それをやりすぎると重装備の街になってしまうのですね。 ガチガチの街にしないで、 重装備をどうはずしていくかが都市計画の重要な問題だという気がします。
機能性だけで街づくりをしていくと、 際限なくクリーンで重装備になっていくのですが、 そういったインフラに寄りかかるのが本当の都市なのか。 その辺が、 今の三谷さんの問題点につながっていくと思うのです。
壊れにくいものはもちろん作っていかねばならないのですが、 究極的には壊れても人に危害を与えず修復しやすいものを作っていく必要がある。 そうすると解決の仕方としては、 人間が俎上にあがってくるのです。 街の主役はインフラではなく人なのだから、 そのための街をどう作っていくかが問われてくると思います。
それと同じくソフト面にこだわるとき、 私たちはひとつのテーマを設定して人を誘導することがよくあります。 例えば、 建築パースに描かれる人物はたいてい笑いながら手を振っている。 青空があって緑があるという風景ですね。 我々は、 公共空間でソフトを語るときに、 未来ではなくファンタジーを語っているのではないかと思います。 ですから、 ソフト万能主義ではなく、 その裏にあるリアリティを語ることから公共空間のリアリティが生まれてくるのではないかという気がします。 まずは発想を逆転しなくちゃいけない。 ここに今日の三谷さんの真意はあるのではないでしょうか。 三谷さんは「公共というファンタジーをもう一度見直すべきだ」という問いかけをされたのではないでしょうか。
三谷さんが最初に描いた絵をもう一度私なりに解説すると、 デザイナーが三谷さんだとするとその回りにいるのは公共であったり個人であったりする。 真ん中のテーブルがお役所だとすると、 そこでデザインが決まっていくことが多いと思うのですが、 そのテーブルの裏には公共の顔をした個人の担当者がいるかもしれない。 そこでの会話は虚構の都市をあらかじめ描きながら作っているのではないでしょうか。
デザインする人間はそれを鵜呑みにするのではなく、 一度自分の個に戻ることで虚構の都市の背後にある個人のリアリティに戻ることが出来るのではないかと思います。 そういう作業をしなければ、 公共空間の問題点は逆転できないのではないでしょうか。
さて、 ここでいろんな立場の方から話の糸口を作っていただきましょう。
コンテキストではなくテキストを
三谷さんの3つのアプローチ
佐々木:
佐々木さんによるまとめ
まず公共空間だから「公」であるという思考から、 個人のためという「個」の発想で空間を作っていくという提案をされました。 さらに言うと「私有制」としての公共空間が必要だとの言及もあったかと思います。
三谷さんによる訂正
(1)の手法で「身体感覚」と分析されましたが、 これはむしろ言葉にならない感覚です。 ですからこの「身体感覚」は(1)よりむしろ(2)の手法なんです。 なぜなら、 スペース・アートの持つ重要性は言葉にならないからです。 どちらかと言うと体で感じるもので、 その重要性は(2)の方がふさわしいと思います。
コンテクストではなくテクストを
もうひとつ重要なこととして、 佐々木さんにうかがいたいことがあります。 私が強い空間性をインストゥールする重要さについて話したのは、 佐々木さんが以前「コンテキストではなくテキストが重要だ」と述べられたことに非常に感銘を受けたことがあったからです。 ランドスケープアーキテクトは、 敷地のコンテキスト(文脈、 由来、 条件)を読み込んで具現化していくものだとよく言われますが、 私が中津のプロジェクトでア・プリオリに大きなものを放り込んだ手法は、 通常の敷地分析では出てこなかった手法です。 話がずれるかもしれませんが、 私のやり方は「コンテキストではなくテキストの重要さ」だったように思いますので、 佐々木さんから解説していただけるとありがたいのですが。
西洋的公園の必要性を見直す
三谷:
空間のリアリティを取り戻すために
佐々木:
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