中心市街地活性化への対応
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3。 神戸・旧居留地の復活
どん底からはいあがった街

旧居留地の衰退

改行マーク神戸の旧居留地は、 大丸のある元町の東端にあり、 神戸でもっとも古い町です。 元町地区は1970年代までは、 神戸の中心的な商店街でした。 元町どおりに並行して栄町というオフィス街がありましたが、 元町と栄町が神戸の中心市街地でした。 この地区が衰退していくのは1980年代からなのですが、 その理由は二つあります。

改行マーク一つは、 三宮に公共交通のターミナル機能が集中していったことです。 1970年代から1980年代にかけて、 それまでの阪急・阪神・JRの3社に加えて、 地下鉄、 ポートライナーが出来ました。 地下鉄が出来ると同時に三宮地下街ができ、 三宮センター街とつながって神戸最大のショッピングゾーンとなったのです。 元町通りにある老舗も地下街に入りました。 飲食や物販だけでなく、 銀行や証券などのオフィスも三宮へ移動しました。 5年から10年の間に、 繁華街は元町から三宮へと大きく移動したわけです。

改行マーク二つ目の理由としては、 ポートアイランドができたことです。 これはオフィス街に決定的な影響を与えました。 ポートアイランドの最初の分譲価格は坪40万円で、 その当時の元町が坪1500万円ぐらいでしたから、 バブル絶頂期としては信じられない安さでした。 ここの土地は地元企業が優先的に分譲を受けたので、 元町あたりの企業が続々と移っていったのです。

改行マーク特に打撃を受けたのが旧居留地です。 旧居留地は歴史の古い町でもあり、 神戸を代表する老舗企業が多く集まっていたところです。 旧居留地の歴史が神戸の歴史といっても過言ではないくらいです。 風格のある歴史的な建物が多かったのですが、 それだけに現代のビジネス向きではなかったのです。 暗いし、 不便、 居心地が悪いと、 あっという間に空きビルが多くなって、 平日でもほとんど人通りがなくなりましたが、 土日ともなれば人っ子ひとり見えないゴーストタウンのような有様でした。

改行マークビルオーナーとしてもビルを建て替えてオフィスビルにしたとしても、 入居者が集まってくれるかどうかと躊躇していました。 私がここの再開発を手がけるようになるのは、 ちょうどその頃です。


オフィス街からファッション街へ

改行マーク旧居留地のビルオーナー達が、 近所でもある大丸(私がその頃の大丸店長でした)にビルを何とかしてもらえないかと相談を持ち込んだのが再開発のきっかけになりました。 その時の話は「ビル1階を坪1万円で借りてもらえないか」というもので「大丸が借りてくれるのなら、 敷金・権利金は要りません」という条件でした。 当時、 三宮のセンター街が最低でも坪5万円、 中心部なら坪10万円という時代ですから破格の安さです。

居留地の街並み クリスチャンディオール 大丸の家具専門店
 

改行マーク旧居留地のビルオーナー達は神戸でも毛並みが良くて誇りが高い人たちですから、 小売業にビルを貸すなんて考えられなかったはずです。 それが大丸に坪1万円で貸すということですから、 よっぽど困っていたのだろうと思います。

改行マークこの値段であれば、 大丸が借りて、 ファッションブティックに売り上げ歩合でまた貸せばやっていけるのではないかという話になり、 ビルを正式に借りることにしました。

改行マーク古いビルをファッションブティックとして使うというやり方は、 その話が来る一年ほど前に、 大丸の南にあるビブラ・ウエストというサザビーが出している店ですでに成功していました。 そのビルは大丸が川崎造船から買い上げて倉庫にしていたものですが、 戦前に日本で活躍したウイリアム・ヴォーリスの作品です。 当時はボロボロでしたが、 サザビーの鈴木社長が「素晴らしい建物だ」とほめて下さり、 じゃあ使ってみて下さいとサザビーに貸したところ大成功だったのです。 古い建物の生まれ代わりで成功した最初の例です。

改行マークビルオーナーの話を聞いたとき、 サザビーの成功が頭にあったものですから、 旧居留地のビルで空き室になっているところを片端から探し回りました。 私としては、 固定家賃で借りてファッションブティックに貸して収益を上げることよりも、 大丸周辺の街のイメージを上げる方が大丸にとって大きいな意味があると思っていたのです。 ですから積極的にまちづくりに関わっていきました。


高級ブランド街へ生まれ変わる

改行マークファッションブティックとしては、 海外ブランドに声をかけてみました。 もともと海外ブランドは、 デパートにテナントとして入るよりも路面店を出したいという傾向が強いのです。 しかし、 日本ではデパートが強く路面店の家賃も高いものですから、 テナントという形をとっていました。 どちらかというと、 しぶしぶという姿勢です。

改行マークそういう時に大丸がブランドにとって有利な条件を提示したものですから、 旧居留地のビルに出店するブランドが続々と出てきました。 今度は出店希望者の方が多くなって、 空き室の方が足りないという事態になってきました。 仕掛け人にとってはたまらなく楽しい状況でございました。 建物さえあれば、 どこのブランドに行っても二つ返事でOKしてもらえます。

改行マークある時はこんなこともありました。 出店希望があまりに多いものですから、 まだ1階を使っている企業の所に出向いて「1階をブティックにしたいので、 お宅様は2階に移ってもらませんか」と厚かましいお願いをしました。 明治生命ビルです。 最初は「何という失礼なことを言いに来たんだ。 家主が来るならともかく、 大丸に言われる筋合いはない」と叱られたのですが、 半年後には「大丸のやっているまちづくりは、 なかなかいいじゃないか。 よし、 1階を譲ってあげるよ」と言ってくれました。 言ってみるもんだなと思ったものです。 まちづくりは素敵な仕事だと思いました。

保存された登録文化財 大丸の向かいのブランドショップ、上階は駐車場 大丸に隣接するLIVE LAB WEST
 

改行マークこうして大丸店長時代の5年間に、 50店ほどの路面店を出しました。 坪数では1万〜1万4千坪になると思います。 これほどの規模だと、 あるイメージを持ったひとつの街になります。 50店のチョイスについては大丸が責任を持ったのですが、 ファッション性が高く質の高い店を揃えることができました。 その結果、 旧居留地にはひとつの界隈性ができたと思います。

改行マーク良いイメージの街ができたのも、 もともと旧居留地がおしゃれでハイカラというイメージを持っていたからです。 元は外国人が生活していた場所ですが、 神戸市民にとって旧居留地は「おしゃれでハイカラな神戸」の原点であり、 精神の故郷のようなところです。 明治時代は異人館のような木造の建物が多かったのですが、 大正から昭和にかけて石造りとなりました。 それが今でも残っており、 それを活かすことで街のデザインの上からも界隈性を持たせられたと思います。

改行マークおかげで広域から集客の出来る街となり、 土日になると県外ナンバーの車が道路を占拠しました。 警察が取り締まりをするたびに、 私は頭に来て「わざわざ県外から来てくれたお客様になんてことするんだ」とよく喧嘩にしたものです。


便乗オーナーの強気

改行マークこういうふうに街に勢いが出てくると、 今まで弱気だったオーナー達の態度が一変してくるのです。 年を追うごとに賃料が上がってきて、 最初坪1万円だったのが5年後には坪3万円まで上がりました。

改行マーク例えば最後に手がけたダイコウビルは坪3万円を要求されました。 このビルは、 ニューヨークで見たラルフ・ローレンのショップのイメージに合いそうだと思って交渉を申し入れたのです。 3年ほどかかってそれまでの店子さんに出てもらって、 ラルフ・ローレンのショップを作ることになったのですが、 古い建物だったので補強する必要がありました。 鉄筋じゃなくて木筋だったのです。 その費用も私どもが持ったわけですから、 少し賃料を安くしてほしいとお願いしたのですが、 どうしても家主さんが承知してくださらない。 坪3万円だから「とてつもなく高い」と文句を言っても譲ってもらえませんでした。 この建物は震災で全壊してしまい、 とても残念です。

改行マークこの辺の感覚がまちづくりの不公平なところだと私には思えるのです。 わずか4年で3倍の家賃がとれる街になったのですが、 なぜそうなったかと言うと、 最初のオーナー達が協力してくれたおかげです。 最初のオーナー達の賃料も多少は値上げはしましたが、 いきなり3倍出せるわけがありません。 取り分が少ないままで頑張っていくださっているのです。 それなのに、 それを見ていた後発組のオーナーの方が得をしてしまうのです。 こういう不公平さがどうしてもまちづくりにはでてきますので、 この辺を制度的に改善していくのもまちづくりの課題ではないかと痛切に感じました。

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