高級ブランド街へ生まれ変わる
ファッションブティックとしては、 海外ブランドに声をかけてみました。 もともと海外ブランドは、 デパートにテナントとして入るよりも路面店を出したいという傾向が強いのです。 しかし、 日本ではデパートが強く路面店の家賃も高いものですから、 テナントという形をとっていました。 どちらかというと、 しぶしぶという姿勢です。
そういう時に大丸がブランドにとって有利な条件を提示したものですから、 旧居留地のビルに出店するブランドが続々と出てきました。 今度は出店希望者の方が多くなって、 空き室の方が足りないという事態になってきました。 仕掛け人にとってはたまらなく楽しい状況でございました。 建物さえあれば、 どこのブランドに行っても二つ返事でOKしてもらえます。
ある時はこんなこともありました。 出店希望があまりに多いものですから、 まだ1階を使っている企業の所に出向いて「1階をブティックにしたいので、 お宅様は2階に移ってもらませんか」と厚かましいお願いをしました。 明治生命ビルです。 最初は「何という失礼なことを言いに来たんだ。 家主が来るならともかく、 大丸に言われる筋合いはない」と叱られたのですが、 半年後には「大丸のやっているまちづくりは、 なかなかいいじゃないか。 よし、 1階を譲ってあげるよ」と言ってくれました。 言ってみるもんだなと思ったものです。 まちづくりは素敵な仕事だと思いました。
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保存された登録文化財
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大丸の向かいのブランドショップ、上階は駐車場
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大丸に隣接するLIVE LAB WEST
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こうして大丸店長時代の5年間に、 50店ほどの路面店を出しました。 坪数では1万〜1万4千坪になると思います。 これほどの規模だと、 あるイメージを持ったひとつの街になります。 50店のチョイスについては大丸が責任を持ったのですが、 ファッション性が高く質の高い店を揃えることができました。 その結果、 旧居留地にはひとつの界隈性ができたと思います。
良いイメージの街ができたのも、 もともと旧居留地がおしゃれでハイカラというイメージを持っていたからです。 元は外国人が生活していた場所ですが、 神戸市民にとって旧居留地は「おしゃれでハイカラな神戸」の原点であり、 精神の故郷のようなところです。 明治時代は異人館のような木造の建物が多かったのですが、 大正から昭和にかけて石造りとなりました。 それが今でも残っており、 それを活かすことで街のデザインの上からも界隈性を持たせられたと思います。
おかげで広域から集客の出来る街となり、 土日になると県外ナンバーの車が道路を占拠しました。 警察が取り締まりをするたびに、 私は頭に来て「わざわざ県外から来てくれたお客様になんてことするんだ」とよく喧嘩にしたものです。
便乗オーナーの強気
こういうふうに街に勢いが出てくると、 今まで弱気だったオーナー達の態度が一変してくるのです。 年を追うごとに賃料が上がってきて、 最初坪1万円だったのが5年後には坪3万円まで上がりました。
例えば最後に手がけたダイコウビルは坪3万円を要求されました。 このビルは、 ニューヨークで見たラルフ・ローレンのショップのイメージに合いそうだと思って交渉を申し入れたのです。 3年ほどかかってそれまでの店子さんに出てもらって、 ラルフ・ローレンのショップを作ることになったのですが、 古い建物だったので補強する必要がありました。 鉄筋じゃなくて木筋だったのです。 その費用も私どもが持ったわけですから、 少し賃料を安くしてほしいとお願いしたのですが、 どうしても家主さんが承知してくださらない。 坪3万円だから「とてつもなく高い」と文句を言っても譲ってもらえませんでした。 この建物は震災で全壊してしまい、 とても残念です。
この辺の感覚がまちづくりの不公平なところだと私には思えるのです。 わずか4年で3倍の家賃がとれる街になったのですが、 なぜそうなったかと言うと、 最初のオーナー達が協力してくれたおかげです。 最初のオーナー達の賃料も多少は値上げはしましたが、 いきなり3倍出せるわけがありません。 取り分が少ないままで頑張っていくださっているのです。 それなのに、 それを見ていた後発組のオーナーの方が得をしてしまうのです。 こういう不公平さがどうしてもまちづくりにはでてきますので、 この辺を制度的に改善していくのもまちづくりの課題ではないかと痛切に感じました。
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