都市の中心地が丘の上にあるのです。 馬の背のような場所に高層建築が軸状に集まっていて、 少し離れた所から見ると空に向かって建築群がそそり立っているように見えます。 世界の大抵の都市では、 ダウンタウンは低地にあって建築群は水平線上にあるいは少し離れた高みから見下ろすように見るのがフツーであるのに、 このブラジルの7つの都市では、 見上げるようにダウンタウンがあります。 これは一体何なのか。
旅の初日、 ロンドリーナのホテル・スマトラのフロントに置いてあった絵葉書で早速日本に第1便を送りました。 この絵葉書がまさにダウンタウンをアピールしていました。 次の日セミナーの合間に郊外の住宅開発の見学に出かけた帰り道、 開発中のロッテアメントから遠く10kmほど離れたところの丘の上に、 ロンドリーナのダウンタウンが空に向かってくっきりと見えたのが印象的でした。 謎の始まりです。丘の上のダウンタウン
−ブラジルの印象的な都市景観−大阪市立大学 土井 幸平
1999年7〜8月の10日間、 ブラジルは冬ですが桜に似たイッペイの花が咲いていました。 初めての訪問で、 次の7つの都市を回りました。
この7つの都市の印象を一言で言うと、 「丘の上のダウンタウン」。
ロンドリーナ・ダウンタウンの都市景観 |
サンパウロの本屋で探し求めたブラジルの地図を見ると、 7つの都市はそれぞれ1000〜1500mの標高にあります。 ブラジルは北西部アマゾン源流のペルー国境にあるアンデス山脈の他は3000mを越える高い山はなく、 東の大西洋側は海から十数キロのところに南北に1000m程度の高さの分水嶺が走っています。 例えば、 サンパウロは外港のサントスから急斜面を登った1000mの上にあり、 ちょうど神戸港から六甲山に登った位置にあります。 南アメリカ大陸の内陸側流域の最上流域であるわけです。 六甲山の上のサンパウロは、 水源涵養林地域にスプロールが広がっているという不思議な大都市です。 海がすぐそこにあると言うにのに、 サンパウロ市内を流れるチエテ川は内陸に向かい、 パラナ川となってパラグアイに入り、 さらに南下して2000km以上も流れてアルゼンチンの海に出ます。 その傾斜度はきわめて緩やかであり、 ブラジルの国土はまさに大平原であり、 河川は蛇行に次ぐ蛇行をします。 六甲の北は武庫川に流れて迂回して大阪湾に注ぎますが、 その延長は100kmに満たない。 これと比べるとブラジル大平原の傾斜度がわかります。 このようなチョー緩やかな地形では水路を辿るのは容易なことではなかったでしょう。
かって森林に覆われたこの広大な大平原に16世紀以降大西洋を渡ってきたヨーロッパ人たちが開拓に入リました。 大陸の東部海岸に港町を開きそこから急傾斜地を登り丘の上に都市を築いて、 そこを拠点として尾根伝いに交通路を延ばして内陸に入ったのだと想像がつきます。
ブラジル国地勢図 |
閑話休題。 「丘の上のダウンタウン」の謎に戻りたい。
丸茂先生は「マラリア説」を紹介されています。 これは、 町が低地湿地帯のマラリア蚊を避けて丘に上るという世界各地に見られた現象で、 「まちのぼり」と言うそうです。
私はこれとは別に、 先に述べたブラジル国土の特徴とその開拓の想像から、 「丘の上のダウンタウン」の起源として、 次の説も有力ではないかと想像しました。
さて、 ブラジリアです。 象徴的な意味でいえば、 ブラジリアこそブラジル国のダウンタウンとして造られたものだと思います。 テレビタワーの展望台から360度見渡しました。 小さな山影一つなく見事に地平線が真っ平らに広がっていました。 ここは、 アマゾン川、 パラナ川、 サンフランシスコ川のブラジルの3大河川が上流で背中合わせになる丘の位置をしめています。 大平原のど真中、 ブラジル国の丘の上にブラジリアは造られたのです。
ポルトガル人を先頭にして、 スペイン、 フランス、 イギリス、 オランダ、 ドイツ、 イタリア、 そして後には日本などから、 次々に開拓殖民に入りました。 大西洋を渡りブラジル東海岸の各地にそれぞれ港を築き、 内陸からさらに奥地に向けそれぞれルートを開いて飛び石伝いに都市を配置していったのではないでしょうか。 それぞれのルートにそれぞれの時代の祖国を反映した都市と文化を築いたことが想像できます。 18世紀のバロック様式を遺したオーロプレット、 日本の大正時代住宅地の面影を残すアサイなどです。 内陸に向かって形成されていった、 それぞれの祖国を持つ文化集積の集合と融合がブラジルの姿でしょう。 これらの都市と文化のルートを大陸中央の丘の上で束ねる位置に、 ブラジリアが構想されたに違いないと思います。