そこで昨年7月に私たちが訪問したパリとベルリンを中心に、 現在多くの移民や難民を抱えながら、 統合の道を歩もうとしているヨーロッパの事情を紹介しようと試みました。
外国人住民も含む共生社会という意味では、 他にもアメリカ・カナダ・オーストラリアのような移民から成り立つ国(もともとの先住民はいたが…)や、 マレーシアやシンガポールのように多民族国家を形成しているアジアの国々もあります。
その中で西ヨーロッパ各国は、 もともとは新大陸への移民送り出し国であり、 本格的な移民・外国人労働者の受け入れ国となったのは1960年代のことです。
しかし1970年代初頭には各国とも受け入れを停止し、 それ以降は定住化した移民の統合が大きな課題となっています。
いずれの国でも受け入れから数10年が経過し、 移民二世・三世の時代に入って来ました。
私たちが訪問したフランスとドイツは、 マグレブ諸国やトルコなど非ヨーロッパ出身の移民の占める割合が高い国です。
とりあえずヨーロッパの移民コミュニティを見てみようと出かけた旅なので、 特に準備や事前勉強というものもなく、 とても報告といえるようなレベルではありませんが、 訪問記としてお読みいただければと思います。
また私たちの力不足、 取材不足を補ってもらおうと、 今回は特別にパリに留学し移民の住宅政策等に関して研究をしている稲葉奈々子さんに、 フランスの外国人住宅事情について報告していただきました。
各国からの移民の送り出しは、 フランスを除いて今世紀の半ばまで続いた。
(フランスでは、 すでに19世紀後半から出生率の低下がおこり、 特に第一次世界大戦以降人口減少が著しく、 大量の移民を受け入れていた。
)
西ヨーロッパで、 移民・外国人労働者の受け入れが本格化するのは、 第二次世界大戦以降の1960年代に入ってからのことである。
経済の好況にわく西ドイツ・フランス・スイス・ベルギー・オランダ・オーストリア・スウェーデンなど北西ヨーロッパ各国は、 イタリア・スペイン・ポルトガル・ユーゴスラビア・ギリシャ・トルコ・モロッコ・チュニジア・フィンランドなどと募集協定を次々と締結し、 ゲスト労働者として滞在期間を限定するローテーション方式で、 不足する労働力を補うため、 多くの移民・外国人労働者を受け入れていった。
一方イギリスは、 他の西ヨーロッパ諸国が好調な経済成長を続けるのに対して、 経済が勢いを失い、 逆にイギリスからオーストラリア、 ニュージーランド、 アメリカへの移住者が続いたため、 自国から流出する労働力を補填するために労働力の輸入が必要とされたといわれている。
いずれにしてもこのような受け入れ政策の結果、 主に西ドイツにはトルコから、 フランスにはモロッコやアルジェリアなどマグレブ諸国から、 イギリスには旧イギリス領のジャマイカやカリブ海諸国、 あるいはインド・パキスタンから多くの移民・外国人労働者が流入した。
まず1970年にスイスが、 72年にはスウェーデンが、 73年には西ドイツが、 そして74年にはフランスとベネルクス諸国が停止する。
外国人労働者の受け入れ停止は、 第1次石油危機の影響もあるが、 事情はさらに複雑だといわれている。
短期間に外国人労働者を受け入れたため、 劣悪な環境の住宅や居住地域が生まれたり、 低賃金で過酷な労働条件でも働く労働者の出現が、 ヨーロッパの労働運動が築いてきた労働者の権利や保障を脅かす結果になったり、 いわゆる3Kと呼ばれる職種が外国人労働者の固定的な職場となり、 労働市場の二重構造が生まれるなど、 社会的・経済的・政治的問題が発生してきたといわれている。
また、 外国人労働者自身が次第に自分たちの権利に目覚め、 ストライキなど労働争議が発生しはじめ、 受け入れ政策の再考が求められるようになっていった。
さらにローテーション方式という方法自体も雇用者・労働者の双方にとって望ましい方法ではなかった。
雇用者にとっては、 毎年新規の労働者に仕事を教えるよりは、 少しでも熟練した労働者に継続的に働いてもらう方が経済的だし、 労働者側も安定して収入が得られることを望んでいた。
これ以降新規の外国人労働者の受け入れは停止されたが、 一方彼らの家族の合流は認められ、 妻子が呼び寄せられ、 また新たに二世が誕生していった。
その結果、 外国人労働者の数は減少したが、 外国人全体の数は、 むしろ増加していくことになったのである。
移民・外国人労働者受け入れの時代
ヨーロッパの移民 や外国人の受け入れの歴史は、 19世紀からはじまるが、 しかし過去数世紀にわたって、 ヨーロッパはむしろ移民の送り出し国であり、 アメリカ大陸をはじめ世界各地に約6000万人が移民として渡って行ったといわれている。受け入れ停止と家族合流
しかし急速な外国人労働者の受け入れ期間は約10年間にすぎず、 1970年から1974年にかけて受け入れは次々と停止されていった。
総人口 | 外国人人口(%) | 非EC国出身の 外国人人口の割合 | |
ベルギー | 9,947,782 | 880,812( 8.85) | 3.39 |
デンマーク | 5,135,409 | 150,644( 2.93) | 2,32 |
ドイツ | 62,514,155 | 4,845,882( 7.75) | 5,65 |
ギリシャ | 10,019,000 | 173,486( 1.73) | 1.21 |
スペイン | 38,924,464 | 407,647( 1.04) | 0.42 |
フランス | 56,634,299 | 3,607,590( 6.37) | 4.05 |
アイルランド | 3,505,900 | 80,600( 2.30) | 0.5 |
イタリア | 57,576,429 | 781,138( 1.35) | *1.00 |
ルクセンブルク | 379,300 | 117,305(30.90) | 3.5 |
オランダ | 14,892,574 | 641,918( 4.31) | 3.21 |
ポルトガル | 9,878,201 | 107,797( 1.09) | 0.84 |
イギリス | 56,997,700 | 1,894,000( 3.32) | 1.78 |
*密入国者を含めれば2.5%に達する。
出典:GISTI(PLEIN DROIT) No. 20 Fev, 1993, p.5
伝統的な移民の受け入れ国だったフランスは、 移民に対する選挙権は与えていないものの、 国籍取得が出生地主義になっており、 かつ二重国籍を認めている。
従って特に二世においてはフランス人になることは容易であり、 選挙権を得たければフランス人になればよいという姿勢で臨んでいる。
既にフランス国籍を取得した移民も相当数存在する。
またフランスの移民政策はオランダとは異なり、 移民をマイノリティとして認知し特別の優遇策を講じることはむしろ差別的であるとして、 国籍・民族の別なく平等な対応をはかりながら移民のフランス社会への統合をはかろうというのが基本的な考え方である。
ドイツ、 オーストラリア、 ベルギー、 スイスといった国々は、 外国人が帰化すること自体が困難な国である。
外国人の選挙権はもちろんない。
ドイツは「わが国は移民国ではない」と主張している。
ドイツ国内に定住しドイツ語を話すトルコ人や、 ドイツに生まれドイツの教育を受けて育ったトルコ人二世などが依然として外国人として扱われている。
一方、 既に言語的にも文化的にも変容してしまっている人々が、 ソ連・東欧の体制解体後ドイツ民族という血統故にドイツ人として迎えられた。
これはドイツの連邦共和国基本法(憲法)に、 東欧諸国に住むドイツ系の人々はドイツ国民として受け入れられるという規定があるからで、 ドイツが血統主義の強い国と言われるゆえんである。
なお1990年には、 ドイツでも外国人法の改正があり、 外国人の帰化の条件は以前よりは緩やかになった。
最後に移民受け入れの対応が遅れた国としてあげられるのはイタリアである。
イタリアは、 長年貧しい南欧を代表する移民送り出し国として、 スイス・フランス・ベルギーなど北西ヨーロッパ各国に移民を送り出していたが、 1970年代にはいると北部工業地帯を中心に経済が復興し、 イタリアの移民労働者の数は減少していった。
一方、 地中海を挟んでチュニジアやエルトリアからは、 新たにイタリアをめざす出稼ぎ労働者の流れが生まれていた。
しかし1989年までイタリアは、 自国を移民送出国とみなしており、 受け入れ国としての認識もなく、 外国人在留者数の正確な把握すら行われていなかったといわれている。
〈参考文献〉目次へ 次へ「外国人労働者と社会保障」社会保障研究会編、 東京大学出版会
「ひとつのヨーロッパ いくつものヨーロッパ」宮島喬著、 東京大学出版会
「外国人労働者と日本社会」宮島喬著、 明石書店
「新しい移民大陸ヨーロッパ」D.トレンハルト編著、 明石書店「ヨーロッパ統合と文化・民族問題」西川長夫・宮島喬編、 人文書院