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フランスの外国人住宅事情

歴史的変遷と現在

東京大学大学院フランス地域研究専攻

稲葉奈々子

移民の変遷と居住状況の変化

─国籍と居住パターン─

 現在のフランスの人口は約5700万人。

その4人に1人、 つまり約1400万人は、 みずからが移民であるか、 または父母あるいは祖父母の代が移民であるという。

出生地主義をとるフランスでは、 第2世代以降はフランス国籍を取得するのが容易である。

それでも19世紀半ばには総人口の約1%であった外国人数は、 今日では6%を超えている。

これらの移民は、 文字どおりの意味でフランスをつくる重要な役割を担ってきた。

彼らの多くはフランスで労働者として、 その時代時代の重要な産業と関わってきたからである。

   

 19世紀にパリの地下鉄建設を担ったのはベルギーからの移民であり、 20世紀に入り炭坑労働を担ったのは、 ポーランドやイタリアからの移民であった。

1950年代後半から70年代前半にかけての高度成長期の労働力を提供したのは、 アルジェリア系移民とポルトガル系移民である。

   

 もちろん、 すべての移民がフランスで労働することだけが目的で移民してきたわけではない。

イタリアやスペインからの移民は、 ファシスト政権を逃れてきた政治難民的性格が強く、 70年代にピークをむかえるポルトガルからの移民の多くは、 当時のポルトガルの植民地であったアンゴラでの戦争への徴兵を逃れてきた。

   

 このように移民の理由はさまざまであるが、 いずれの場合も移民は労働力としてフランスにおいて重要な役割を担ってきた。

そして定住化の進行にともない、 生活者として着実に地域社会の一員となっていった。

移民の居住パターンには、 多かれ少なかれ出身国ごとに特色が見られる。

それだけではなく、 移民の居住状況のなかに、 フランスの産業化や都市化の歴史が刻印されているのを見ることができる。

つまり、 出身国や、 移民の時期、 その時期のフランスの労働力需要などさまざまな要因が、 移民の居住地や居住パターンに如実に反映されているのである。

移民は、 フランスでどのような居住環境を生き、 どのようにフランス社会のなかに居場所を見いだしてきたのだろうか。

   

画像z01 画像z02  さて、 移民を考えるさいにフローとストック、 つまり毎年の流入者数と居住者の総数の両方の側面から見る必要がある。

近年の傾向を概観しておこう(図1・図2)。

ストックの面では、 南欧のポルトガル、 イタリア、 スペインはいずれも外国人人口の上位6位に入るが、 出身国自体の経済発展や、 EU統合による人の移動の自由化により、 フロー、 つまり近年の流入はほとんどなく、 総数はむしろ減少傾向にある。

それに対してアルジェリア、 モロッコ、 チュニジアのマグレブ諸国はストック、 フロー両方において依然として重要である。

また、 ストックはそれほど多くはないが、 近年のフローでつねに上位にあるのがブラック・アフリカ出身者とアジア出身者である。

とくにブラック・アフリカ出身者は、 根強い黒人差別や、 一夫多妻制に対する偏見などから、 実際の人数に対し、 問題として取り上げられる頻度は不釣り合いに大きい。

   

 以下では、 まず外国人の居住パターンの一般的な傾向を概観し、 その後に、 南欧系移民、 マグレブ系移民、 ブラック・アフリカ出身者の住宅事情についてそれぞれみていこう。

   

外国人住宅事情の一般的傾向

 出身国ごとに移民の時期が異なり、 それによって居住状況も異なるが、 一般的な傾向としては、 (1)出身国に近い地域に多く居住し、 また、 (2)移民当時のフランスの労働需要を反映して、 当時の基幹産業が立地していた地域に居住している。

(3)フランス人の10人に4人に対し、 10人に7人の外国人が人口10万以上の都市に居住している。

(4)ブルターニュ、 バス・ノルマンディなど西部の外国人人口比率は小さい。

   

画像z03  具体的には、 外国人全体の36%が、 パリ市とそれに隣接する8県からなるイル・ド・フランスに、 やはり8県からなりイタリア、 スイスと国境を接する地域圏ローヌ・アルプに13%、 地中海に面しイタリアとも国境を接し6県からなるプロヴァンス・アルプ・コート・ダジュールに9%居住している。

結果としてこの3地域圏だけで外国人全体の約58%が居住していることになる。

これらの地域圏はいずれも、 パリ、 リヨン、 マルセイユといったフランスの3大都市を擁し、 重要な産業の拠点である。

また、 南欧出身者にとってもマグレブ出身者にとっても、 出身国の国境に近い地域でもある。

   

 これらの地域圏の中で、 イル・ド・フランスでは他の地域と比較して、 外国人人口の増加が70年代以降も継続してみられる。

しかしその他の地域圏で外国人人口が集中しているのは、 鉄工業や繊維産業など衰退産業を抱える自治体であり、 いずれも現在の人口の流動性は小さい。

   

分散する南欧系移民

 イタリア人が移民してきた時期は、 炭坑労働の需要が大きかった。

そのため、 ロレーヌ地方とノール県に現在でもイタリア系移民とその子孫が多く居住している。

また、 イタリアと近接するアルプ・マリティム地方やコルシカ島にも多く住んでいる。

スペイン系の移民も、 全国的に分布しているが、 スペインとの国境に近い地域により多く居住している。

また、 スペイン系はパリとその郊外の高級住宅地に目立って多く居住している。

スペイン人女性の多くが、 裕福な家庭でしばしば住み込みで家事労働者として働いているからである。

ポルトガル系移民も同様である。

フランスでは、 住み込みの家事労働者を雇うことはかなり裕福な家に限られるが、 通いの家事労働者を週に何日かの契約で雇うことは、 一般家庭で普通に行われており、 多くのポルトガル人女性がそこに就労している。

ちなみに表1の家賃無料という項目は、 住み込みの家事労働者やアパルトマンの管理人として働いている者を指すことが多い。

また、 ポルトガル人は他の出身国の集団と比較するとより分散して居住している。

これは、 就労しているポルトガル人男性の約半数は建設労働者であるため、 就労の機会が全国的に分散しているからであると思われる。

ポルトガル人は現在フランスで最多数の外国人であるにもかかわらず、 しばしば「姿が見えない外国人」と言われるのは、 こうした理由によるものであろう。

   

表1 1990年国籍別にみる居住形態

国籍世帯(100万人)持ち家所有賃貸住宅家賃無料合計
家具なし賃貸家具なしHLM家具付き賃貸
EU出身者58039.931.618.42.18.0100
  うちスペイン人10638.131.120.51.78.6100
  イタリア人14455.922.014.21.26.8100
  ポルトガル人23828.736.124.81.88.6100
アルジェリア人21614.930.943.47.43.5100
モロッコ人1438.735.844.34.66.6100
フランス語圏ブラック
アフリカ出身者
499.641.436.68.34.2100
カンボジア人・ラオス人
ベトナム人
2819.731.443.42.53.0100
トルコ人458.441.745.13.21.7100
その他16625.643.015.36.39.7100
外国人全体128826.434.828.04.26.7100
フランス人2025456.223.013.71.25.9100
全人口2154254.423.714.51.46.0100

   

都市郊外に集中するマグレブ系移民

 マグレブ系移民の場合はどうであろうか。

一口にマグレブ諸国と言っても、 アルジェリア、 モロッコ、 チュニジアそれぞれが異なる移民の歴史を持っており、 フランスでの居住パターンも一様ではない。

また、 フランスの移民問題というと「荒廃した郊外の集合団地に住むマグレブ系移民の問題」とステレオタイプ化されているように、 実際、 郊外の集合団地への入居が多い。

しかし、 その事実もやはり移民の時期やフランスの労働事情という要因抜きで説明することはできない。

   

 アルジェリア人は、 フランスの外国人人口でポルトガルについで2番目に多くなっている。

アルジェリア人は、 フランスの西半分よりも東半分に片寄って居住しており、 とくにパリ市に隣接する3県に多く、 なかでもセーヌ・サン・ドニ県では総人口の約6%をしめる。

全体的には機械工業が発達している地域に多く居住している。

   

 モロッコ人は第3番目に多い外国人であるが、 コルシカで総人口の5%を占めていることをのぞけば、 目立って集中している地域はない。

パリ市遠郊のオー・ド・セーヌ県では例外的に人口の約2%を占めているが、 これはこの地域の自動車産業に多くのモロッコ人が就労していることによる。

   

 チュニジア人の居住傾向は、 モロッコ人よりはアルジェリア人に近く、 パリ市とセーヌ・サン・ドニ県、 地中海沿岸地域に多く居住している。

しかし、 アルジェリア人とは対照的に、 フランス北東の国境地帯にはほとんど居住していない。

これは、 チュニジア人のフランスへの移民がアルジェリア人よりも新しく、 したがって古い産業地帯である北東の国境地帯の産業が衰退して以降の移民であり、 この地域への居住がほとんどなかったことによる。

   

大都市集中型のブラックアフリカ系移民

 ブラック・アフリカ出身者は、 ストックでは全体の5%をしめるに過ぎないが、 フローでは年間10万人を超える新規流入の約2割をしめ、 また、 圧倒的に大都市居住傾向を示している。

この居住傾向もやはり労働需要と関連がある。

ブラック・アフリカ出身者は、 フランス人も含めた他のどの国の出身者よりもサービス業部門に集中しており、 女性の10人中9人、 男性の3人に2人はサービス業に就労している。

その多くは道路清掃など底辺労働である。

したがって居住地も都市周辺が多く、 ブラック・アフリカ出身者の3分の2はイル・ド・フランスに居住している。

しかも、 そのうち約半数がパリ市と、 パリ市のすぐ北に位置するセーヌ・サン・ドニ県に集中している。

そのため実際の数字以上に目立った存在となり、 それだけに「問題」として取り上げられることも多い。

   

 以上出身地ごとの居住傾向を見てきた。

以下では今日もっとも厳しい居住状況を経験しているマグレブ系移民とブラック・アフリカ系移民についてそれぞれ居住の現状を詳しく見ていこう。

   

「移民問題」=「郊外の問題」?

 フランスは1974年に新規移民受け入れを停止した。

しかし、 移民がまったくなくなったわけではない。

人道的措置による家族合流の資格での移民は増加し、 また、 庇護権申請者としての入国も毎年平均して数万人を数える。

高度成長期以降の移民は、 このように労働者としての性格をもたなくなってきている。

したがって「移民問題」を考える際に、 74年の新規移民受け入れ停止はひとつの分岐点となっている。

また、 この時期の移民家族の多くが郊外の集合団地に入居したことから、 「移民問題」が都市郊外の問題と同一視されるようになっていった。

   

 他の西欧諸国やアメリカ合衆国では、 インナーシティの貧困化が問題になっているが、 こうした理由から、 フランスでは、 インナーシティよりも「郊外」(バンリュー)のほうが社会的に荒廃した地域として認識されている。

この点が、 郊外が相対的に快適な居住地の同義語であるアングロサクソン諸国とは対照的であろう。

   

 都市郊外が「荒廃した」地域のイメージをあたえられ、 また、 移民人口が多いのはなぜであろうか。

表2からわかるように、 戦前からの移民であるスペイン、

   

 イタリア出身者の居住形態は、 フランス人により近いものになっている。

それに対して、 高度成長期以降の移民は、 中・低所得者向けの公的集合住宅であるHLM(適性家賃住宅)への入居が多くなっている。

したがって「郊外の問題」と同義で論じられる「移民問題」は、 50年代から70年代半ばにかけての高度成長期の移民、 つまりアルジェリア人を中心とするマグレブ系の移民の問題となっている。

   

ビドンヴィルからHLMへ

高度成長期の工場労働者として受け入れられた移民の多くはアルジェリア人であった。

彼らは、 都市郊外の工業地帯周辺に、 ビドンヴィルとよばれるスラムを形成しそこに生活していた。

ビドンヴィルで生活する人は、 例えばパリ郊外の工業地帯ナンテールでは、 1950年代には数千人であったが、 60年代にはその数は急増し、 約2万人に達する。

その後適切な住宅への再入居が徐々に進められていくが、 ビドンヴィルが最終的に撤去されるのは80年代に入ってからであり、 多くの子供もそこに生活していた。

 ビドンヴィルが撤去されたのちに移民が再入居した先でもっとも多いのが、 フォワイエと呼ばれる単身寮への入居である。

フォワイエは、 一時滞在が前提とされているために住宅設備の水準が低く、 また、 過密状態での生活が恒常化しており、 居住環境は劣悪であった。

1975年当時で約7000の寝台がパリ近郊にあったが、 その居住者の8割以上が外国人であった。

   

画像p01  74年の新規移民の受け入れを停止以降、 家族合流による移民が増加し、 フォワイエにかわって家族用の住宅への需要が高まっていった。

その十数年の間に、 「ゲットー化」が問題にされるまでに郊外のHLMにマグレブ系移民が集中集中したのはなぜだあろうか。

その理由は、 ひとつには、 高度成長期の工業地帯が都市郊外に立地していたこと、 アルジェリア人の多くがそこで工場労働者として働いていたこと、 もうひとつには、 HLM団地群が高度成長期の住宅難を解消するために都市郊外に大量建設され、 70年代半ば以降多くの移民がそこに入居したことにある。

さらに、 70年代半ばは家族合流が増加し、 移民は家族用の住宅を求めたが、 この時期は超低金利の時期でフランス人の持家取得が急増し、 HLMからの転出が増えたた時期であった。

こうして外国人住民の多いパリ近郊3県では、 HLMへの外国人の入居比率は75年の11,9%から、 82年には48%へと急増した。

90年にはフランスの外国人世帯の28%がHLMに入居している。

これはHLMの全住戸の約12%を外国人世帯が占めていることになり、 全世帯における外国人世帯の割合が6%であることを考えると、 外国人のHLMへの入居比率は高いといえる。

なかでもマグレブ諸国出身者のHLMへの入居比率は40%と高くなっている。

   

高度成長期以降の移民の居住状況

画像z04 画像z05  高度成長期以降は、 マグレブ諸国からの移民が依然として高い割合を占める一方で、 ブラック・アフリカ諸国からの移民が増加してくる(図4・図5)。

ブラック・アフリカからの移民は遅れて開始されたため、 家族合流がピークを迎えるのも80年代に入ってからであった。

93年には、 EU出身者をのぞいて、 もっとも多いのが、 家族合流と難民の資格による移民である。

5万8000人の家族合流の資格による移民のうち、 マグレブ諸国出身者は約2万7000人、 ブラック・アフリカ出身者は約1万人となっている。

また、 庇護権申請者約2万8000人のうち、 東欧が約6200人、 マグレブが2500人、 アジア約1万人、 ブラック・アフリカは約1万人を数える。

   

 80年代以降に家族合流を開始したブラック・アフリカ出身者の場合、 住宅事情はどのようであったろうか。

80年代以降になると、 「郊外の問題」と「移民問題」が結び付けられ、 それまでHLMに移民を受け入れてきた自治体が、 「イメージをよくし」、 「治安をよくするため」、 移民の入居を拒否するようになる。

郊外での警察と移民第2世代の若者の衝突がたびたび新聞で大きくとりあげられるのもこの時期である。

   

 このような状況を背景に、 新規移民受け入れ停止以降、 すでにフランス国内にいる移民は統合の対象とされる一方で、 新規の移民は厳しい規制の対象となった。

しかし家族合流は「人道的立場」から容認せざるを得ず、 また「庇護の国フランス」が難民受け入れの門戸を閉ざすことは立場上不可能であった。

そのため家族合流と難民資格審査に厳しい条件が設けることによって事実上新規流入が規制された。

その結果庇護権申請者への難民資格の付与は、 近年では毎年ほぼ8割以上の高率で却下されている。

また、 家族合流のさい要求される条件のうち、 家族のために準備できる住宅の水準に課される条件を満たすことができないために家族合流が却下される場合が非常に多くなっている。

住宅が事実上移民を規制の手段になっているわけである。

   

 そもそも1978年の政令により、 家族合流のさいに家族の人数に応じた床面積のある住宅に入居していないと、 合流は認められなかった。

2人家族なら25m2、 それ以上の場合は一人増えるごとに9m2が加算される仕組みになっているが、 移民家族がイル・ド・フランスでこれに合致する住宅を見つけることは困難を究める。

93年の法改定では、 この条件はさらに厳密になり、 水道やトイレ、 風呂、 暖房など住宅設備にかんする基準も定められた。

移民の多くは、 床面積どころか、 住宅設備の基準も満たすことができないのが実情である。

さらにつけ加えれば、 家具付きの安宿での宿泊や、 友人、 知人の家での仮住まいにある移民は多いが、 こうした場合は家族合流の審査の対象にも入らない。

   

 このようにして新規流入が規制されることは同時に、 正規の手続きを踏まない移民の増加にもつながる。

とくに年間2万人近い庇護権申請者の約8割が却下されているが、 却下された者の多くがそのままフランスにとどまっている事実は、 年間数千人を超える庇護権申請者に無料で医療サービスを提供している市民団体の調査により明らかになっている。

80年代以降は、 正規に滞在している場合でも住宅事情は大変厳しい状況にある。

まして正規の滞在資格をもたない場合は、 家族全体がホームレスになることもめずらしくない。

   

家を失う移民たち

 ブラック・アフリカ出身者はサービス業への就労が多く、 そのため圧倒的に都市居住型であることはすでに述べたが、 そのことがさらにブラック・アフリカ系移民にとっての居住状況を厳しくしている。

   

 単身者にとってはフォワイエが依然として重要な位置を占めているが、 フォワイエの新たな建設は70年代以降ほとんどないため、 老朽化したものが多い。

現在イル・ド・フランスのフォワイエの約80%は外国人が入居しており、 それらの多くはマリ人とセネガル人である。

これらフォワイエの過密度は、 しばしば200%近くにまで達しているという報告もある。

   

 家族移民にとっては、 HLMが住居選びのもっとも重要な選択肢であった。

しかしHLMの建設は、 近年では少子化と高齢化、 さらに若者の就学期間の長期化によって、 単身者用あるいは小人数家族用のHLM建設が主流になっている。

そのため、 家族の人数の多い移民が入居できるHLMはきわめて限られてきている。

家族用の床面積の大きなHLMの建設が中心であった高度成長期から80年代初頭とは、 HLMをめぐる状況はまったく異なっているのである。

   

画像p02  低家賃のHLMに入居できない移民に住む場所を従来提供してきたのは、 「事実上の社会住宅」とよばれる老朽化したゆえに家賃の安い民間の集合住宅、 あるいは家具付きの安宿であった。

これらの住宅の多くは1948年以前に建築されたもので、 賃貸人の権利を保障する1948年法が適用されていた。

しかし、 80年代以降、 住宅建築にかんする規制緩和により住宅の「商品化」が進み、 不動産投機や土地転がしの結果、 住宅の価格は上昇し、 こうした「事実上の社会住宅」が地上げの対象になった。

不動産投資は、 より付加価値の大きい高額の不動産建築、 つまりオフィス建築に向かい、 法人税の税収増を望む自治体によってもこの傾向は助長され、 銀行も貸付額を大幅に引き上げた。

86年にパリ市は市内東部の再開発に着手する。

この年、 住宅価格自由化の政令がだされ、 住宅売却のために賃貸契約を解除することが許可された。

つまり48年法はもはや無効になったわけである。

これによって、 住居の解体作業と残った住人に退居を求めることが、 公的に認められた。

とくに80年代後半から90年代にかけては、 パリ市内の再開発対象地区の家具付きの安宿が放火で焼失する事件が相次いだ。

最初の放火は86年で、 その後何度も繰り返される放火により焼け出されて行き場を失いホームレスとなった家族の大部分は移民の家族であった。

90年代までに48年法の適用を受けるパリ市内の住宅と家具付きの安宿のほとんどが消滅したと考えられる。

   

 移民家族にとって唯一入居可能であった「事実上の社会住宅」がこのようにして取り壊された80年代後半以降、 定住所をもたない移民家族が急増している。

最近も数百人の非正規滞在のマリ人数百人が、 滞在資格と住宅を求めてパリ近郊の県内の教会を占拠し、 その多くが強制退去処分になるという事件があった。

彼らの処遇は数カ月にわたって定まらず、 その間マスコミによって何度も大きく取り上げられた。

もっとも、 この例のように文字どおりのホームレスの移民家族もいるが、 定住所をもたないといっても、 かならずしも路上で生活することを意味せず、 友人・知人の家での間借り、 家具付きの安宿での数年におよぶ「宿泊」、 慈善団体による宿泊施設の利用などさまざまである。

   

画像p03  移民家族の「ホームレス」の正確な数字やその実情を知ることは難しいが、 彼らを支援するNGOの話からその問題の広がりの把握を試みてみよう。

   

 移民家族の支援活動をするNGOは、 80年代に入ってから増え始めた。

SOSラシスムやMURAPなど政治的な活動をする団体以外にも、 幅広く生活すべてにかかわる形で活動する団体がいくつも存在する。

これらの団体は、 もともとフランス人の貧困層のために戦後直後から活動をしてきた慈善団体が核になっているものが多い。

   

 多くの市民団体が指摘するのは、 移民をとりまく社会的状況が90年代以降になってますます厳しくなっていること、 なかでも正規の滞在資格をもたない移民と庇護権申請を却下された者についてそれがいえることである。

もっとも大規模に活動を行っている「カトリック救済」は91年以降、 庇護権を却下された者と正規の滞在資格を持たない者のための部門を開設し、 滞在資格の正規化を求めることをはじめとし、 さまざまな援助を行っている。

92年にパリ支部が受け入れた外国人の総数は約1万7000人。

正規の滞在資格をもたない者のうち百数十人に対しておこなった個人調査によると、 援助を求めてくる外国人の半数以上がブラック・アフリカ出身者である。

住宅に関しては、 自分で借りているのは17%にすぎず、 その他は、 友人の家に間借りしている例がもっとも多く、 文字どおりのホームレスも11%に達する。

正規の滞在資格をもつ外国人も含めた約1000人に対する、 やはり「カトリック救済」の92年の調査では、 4割がマグレブ出身者、 3割強がブラック・アフリカ出身者となっている。

90年以降支援を求めて団体を訪れる移民の年齢層は概して若く、 30歳未満と40歳未満がそれぞれ約3割となっている。

住宅についての状況は、 HLMに入居している者は約5%に過ぎず、 6割以上が民間の賃貸住宅に入居している。

また、 残りの約3割は知人の家に間借り、 あるいは寮や慈善団体の宿泊施設住まい、 または文字どおりのホームレスである。

つまり、 公的な統計にはあらわれてこないが、 80年代後半以降の移民の住宅事情は、 高度成長期の移民の住宅事情よりも厳しくなっている。

その上、 市民団体の職員は、 「ブラック・アフリカ出身者が民間の賃貸住宅に入居することは、 ほとんど不可能である」と指摘している。

その理由にはまず人種差別があげられるが、 フランス人のホームレスが90年代以降増加している事実からも分かるように、 長期化する不況とそれに起因する貧困化もそれに拍車をかけている。

   

「住宅への権利」の確立へ向けて

 こうした状況を背景に、 フランスでは90年代以降になって「住宅への権利」がいわれはじめた。

もっとも、 「居住への権利」が基本的人権であることは、 すでに法的に保障されていた。

しかしこの権利は、 居住様式や居住地を選ぶ「自由」の側面をむしろ強調するものであった。

それに対して90年のベッソン法は、 より具体的に「住宅」というハードを指す言葉を用い、 しかも、 とくに経済的に困難な家族の「住宅への権利」を成文化したものである。

93年には、 「住宅への権利」を求めて数百のホームレスの移民家族を支援する市民団体が起こした裁判で、 はじめて裁判で「住宅への権利は憲法上の価値を持つ」ことが認められた。

   

 パリ市では、 年間約1万件以上の強制退去の判決が下されているが、 94年8月の通達により、 「子供や高齢者がいる世帯の場合」あるいは「住人の社会的状況が懸念される状態であるとき」には、 警察の介入による強制退去が実質上禁止された。

強制退去の実行を警察に求めることができない家主に対して、 国は補償金を支払うか、 再入居先を保障することになった。

補償金は、 パリ市では94年には1250万フラン(約2億5000万円)、 セーヌ・サン・ドニ県では5千万フランにのぼっている。

しかし、 強制退去させた家族の再入居に関しては、 パリ警察は、 日刊紙ル・モンドのなかで、 「強制退去させられた家族は、 多くの場合HLMが受け入れたがらない経済力のない家族である。

さらにそれが、 妻が2人に子供が10人いて、 途方もない額の家賃が未払いであるような家族であったら、 受け入れるのを拒否するHLM機構の側のことも理解せねばなるまい」と述べており、 移民家族にとっての住宅をめぐる状況は依然として厳しい。

   

 *稲葉奈々子(いなばななこ)
 東京大学大学院総合文化研究科博士課程在籍
 1996年10月よりパリに留学
 著書/「外国人労働者から市民へ」(共著)宮島喬・梶田孝道編、 有斐閣
   

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