司会:
ではこれから、 後半のディスカッションタイムに移ります。
前半では若手が具体的な地区の活動報告をし、 年寄りがまちづくりの解説をするという形で進みました。 後半は、 まち住区やコンパクトシティがどんな姿なのかをそれぞれの立場から語ってもらいたいと考えています。
まち住区やコンパクトシティという言葉はいつまで経っても「素描」の域を脱し得ないという気もしますが、 難波さんが言われた「まちづくり都市計画」のように、 今後はまちづくりに都市計画がどう役に立つのかが問われてくると思います。
簡単に定義付けをすると、 まちづくりは運動であり活動であるのですが、 都市計画は法律であり制度です。 難波さんが言われたことは、 運動や活動に法律がどう役に立つのかということだろうと思うのですが、 その運動や活動はどこまでの範囲でやるのかを指し示す基準が、 まち住区でありコンパクトシティだと思います。
ここでパネラーのみなさんにお聞きしたいのですが、 今行われている活動はまち住区やコンパクトシティにどう関連していくとお考えでしょうか。 まずは山本さんから。
まち住区やコンパクトシティなど、 まず概念から入っていくのは私の考え方ではありません。 実際問題として住吉浜手に入ったときは目の前の問題をどうするかしか考えていませんでした。
住吉浜手は先ほど言ったように、 国道43号線が地域内を走っていたり地区の南に産業廃棄物処理場ができたりして、 目に見える課題が住民みんなに平等に降りかかっていたのです。 まち住区という言葉に当てはめるなら、 そうした共通の課題をみんなで意識できるエリアがまち住区と呼べるように思います。
また、 地区の名前もまち住区という意識に関係してくると思います。 まちづくり活動が始まった頃は43号線の南側の地区だけでしたが、 「住吉浜手」という名前はそのとき住民の人たちによって決められました。 今では活動範囲が広がって、 呉田地区協議会の範囲と重なっています。 以前は住吉浜手の話をするときは主に南の方の浜手が対象でしたが、 今地区の課題を話すときは呉田地区全体の話になっています。 みなさんが話をされているときも、 名前の付け方で地域のイメージはやはり違うように感じています。
司会:
ある地区のイメージをつかもうとするとき、 従来は近隣住区や小学校区、 あるいは密集市街地や区画整理の事業の枠組みでエリアをつかもうとしていました。 もちろんそれはそれなりに意味があったのですが、 今進んでいるまちづくりの中では従来のエリア分けは何の意味もないのですね。 つまり、 都市計画などの法律で分けても、 実際に何かやろうとする人びとにとっては関係ないということです。
ただ、 山本さんや宮定さんがされている夏祭りやまちのウォッチングが実際のまちづくりに何の役に立っているのかと問われたとき、 「はい、 役に立っています」と言えるかどうか。 そのあたりはどうお考えですか。
山本:
最初にも申し上げたように、 まちづくりというよりはまちづくりに向けた地盤固めをしてきたというのが私の実感です。 他の地区もそうでしょうが、 まちづくりの会と従来からあった地区協議会となかなか連携がとれず、 震災後しばらくはいっしょにまちづくりをやっていくのが難しい雰囲気だったのです。 ですから何をやるにしても、 まずは地域全体で楽しめるようにと、 数々のイベントをしてきました。
今年になって、 ようやく地区協議会とも一緒にやっていけるという雰囲気になりました。 ですから、 今年からまちづくり構想にも取り組んでいこうと思っています。 今までは、 とてもじゃないけど一緒に前に進んでいける状態じゃなかったんです。
ですから住吉浜手地区に関しては、 震災復興のまちづくりと言うよりは、 平常時のまちづくりであって地盤固めに時間がかかったということです。 これからはイベントだけという活動ではなくなるでしょう。
司会:
意思統一レベルから何らかの運動レベルに転換していく途中だということですね。
宮定さんにもお話をうかがいます。 御蔵・菅原地区は震災当時、 既成のまちづくり協議会が何の役にも立たなかった地区ですが、 当時すでにまちづくりが止まっていましたね。 ですから震災後は、 全く違う新しい組織でまちづくりをしていく必要があったようです。
ただ今日のお話をうかがうと、 子供の数も少なく住民もあまり戻っていない。 活動の範囲を5・6丁目から1〜3丁目や菅原地区まで広げたということですが、 区画整理以外のまちづくり活動をみんなで一緒にやろうとする気運が高まってきたということでしょうか。 それとも試しにやってみようということなのでしょうか。
宮定:
地域の中だけで活動していると、 同じ人しか来なくなって活動がマンネリ化していくのです。 ですから活動の場を広げて、 今は西の神楽町から東の方まで広げています。
ただ活動していく上でまずいと思うことは、 御蔵通5・6丁目まちづくり協議会の名前を表に出すと、 3・4丁目の方々が一緒にやりたくてもやりにくくなってしまうことです。 合同慰霊祭の時も困りました。 震災当初にまちづくり協議会が地区内で分かれてできたことが原因なのでしょうが、 僕もよその協議会の情報が入ってきにくいというやりにくさはあります。
司会:
要は、 町内会単位でまちづくり協議会が出来てしまったことが原因なんですよね。 区画整理事業が成立するまではそれでもいいのですが、 仮換地が出来て事業が終わってしまうとまちづくりなんて言葉だけになってしまう。 言葉と実体が合わなくなってしまうんです。
御蔵通5・6丁目の狭い地区だけでいろんなことをやっても、 活動の停滞が出てきてしまうのは必然だと思います。 やはり20〜50haぐらいのまとまった範囲でいろんな人たちの活動が展開されていかないと、 まちづくりという形には向かわないんじゃないかと思います。 まちづくり協議会をたくさん作ってもあまり意味がないことを、 今の御蔵地区が証明しているようだと思いながら話をうかがいました。
神戸の住民活動の特徴を補足しておくと、 既成の住民団体で無視できない存在があります。 例えば、 婦人会、 PTA、 これらは小学校単位で構成されています。 こういった地域の広がりに対応するすでに出来上がった住民組織があるんです。 それを無視して何か活動しようとすれば、 難しいことになります。 ですから、 その視点で住吉浜手を見ると、 なんとなく不自然に見えるんです。 昔の呉田地区という範囲はちゃんと残っていると思うのですが。
真野の話をすると、 昔あそこは東尻池村だったのですが、 国道2号線が通ったことで地区が分断されてしまったのです。 分断された東尻池村の10分の1が真野地区に入って、 東尻池3丁目という町名になったのですが、 村の財産区注も同時にそこへくっついてきたのです。 真野地区には自治会連合会が二つあるのですが、 東尻池3丁目は昔の村落の財産区がくっついているから真野の連合会には入らなかったという経緯があります。 同じ真野地区の住民でも「わが町」のイメージが広かったり狭かったりするわけです。 まして、 若いお母さんには我が子が通う小学校区だけが「わが町」だったりします。
ただ、 真野地区が「わが町」のイメージを持ちやすかったのは、 地区の境目が新湊川や運河で切れていたり、 2号線や海で切れていたりして、 地区が都市の中の島のような形で「わが町」のエリアがはっきりしていたからです。 それに対して岡本のような私鉄沿線のまちは、 意識して区切っていかないとわが町がどこまでなのか分からなくなるようなきらいがあります。
まち住区や近隣住区について議論するときに頭の中でそのエリアが分からなくなってしまうのは、 どこまでを対象とするのかの区切りが難しいからです。 だから、 まちづくりの範囲をなかなか決められないのは事実なのですが、 でもなんとなくそのイメージはある。 きっちり線を引くのは難しいのですが、 地域のイメージはあるので、 人々の持つイメージでくくっていった方が後々の活動はやりやすいのではないでしょうか。
人々のまちづくり活動は自然発生的に出てきてこそ長続きすると思うのですが、 その活動を小学校区単位で区切ろうとすると上からのイメージを住民に押しつけてしまうことになりかねないと思います。 今の御蔵地区はどちらかというと小学校区単位を重視して活動しようとしていますが、 活動をやっていくうちに自ずと範囲は決まってくるでしょうから、 境界をはっきりさせるという意識をあまり持たずにされた方がいいように思います。
わがまちとしてのまち住区とは
住吉浜手におけるまち住区とは
山本:
御蔵地区では?
司会:
住民が「わが町」意識を持つとき
宮西:
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注:財産区とは、 特異な存在で、 地方自治法に定められた特別地方公共団体のこと。 これは、 神戸市には割合と多く見られる。 それぞれの村には、 山林、 池、 土地など、 江戸時代以来のその村独自の共有財産がある。 その財産を管理する団体が財産区という存在である。 (道谷卓「東灘・灘の歴史を訪ねて」『東部地域まちづくり文化のツール』より)
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