1995年3月、 私達の事務所のある灘区楠丘町2丁目の周辺はすっかり空地が目立つようになりました。 あの大揺れに揺れた阪神大震災の朝からほぼ2ヶ月。 早くも楠丘周辺の人々は、 無念にも壊れてしまったわが家を涙を呑んで片付け、 瓦・柱を撤去し、 それぞれの復興の道を歩き始めました。
残された家の跡には、 庭木や花の鉢がビニールの紐で一塊にされて、 まるで留守番をするかのように置かれていました。 でもその花や木々は凛として、 花を咲かせる準備をし、 やがていつか主人達が帰って来るのを待っていますよ、 と言っているように私には見えました。
倒壊した家々の解体のすすむ毎日、 埃か春霞かわからない光景を見ながら、 これから始まる長い長い復興の日々を思い、 私は「まず、 何から」と考えていました。
阪神市街地緑花再生プロジェクト
第1段階
「ガレキに花を」 瓦礫の花畑化
第2段階
「家に苗木を」 敷地周辺の苗木(記念樹)植栽
第3段階
「まちに生垣を」 建物の生垣・庭づくり
第4段階
「都市に広場を」 まちの緑いっぱい花いっぱい
ガレキに花を咲かせましょう。
そしてその次は家を建て、 会社を再建し、 というキャッチフレーズを考えました。
その花の種はどうやって手に入れるの?このカチカチの土の上にどうやって種を蒔くの?どうやって花を咲かせるの?と、 そのひとつひとつを具体的に考えていきました。
いろいろなことがありました。
この『阪神市街地緑花再生プロジェクト』をここまで続けてきた理由のひとつは「希望と勇気」です。