まちづくり実践ゼミ
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共同建替住宅建設の背景と経緯
―灘区浜田町

向井 志郎 (空間工房101)


1.対象となった戦前長屋

改行マーク本再建計画の対象となったのは、 灘区浜田町二丁目、 敷地面積約650m2の借地に建っていた戦前長屋10戸(昭和6年頃の建設)で震災によりそのうち9戸が全壊状態であった。 震災時点で築60年以上が経過していた。 その間、 幾度かの改造、 修理、 補強は行われていたらしい。 10戸のうち1戸だけは地震でも壊れなかった。 他の棟と切り離し補強改造を行ったのが功を奏したらしいのだが、 敷地のほぼ真ん中あたりに建て残りがあると、 共同再建はとたんにむずかしくなる。 隣接地主から、 こちら側の土地の一部を切り売りしてほしい、 という話も持ちかけられていた。 従前居住者の意向はバラバラで、 住宅を再建して残りたい人と、 転出希望の人の割合がはっきりしていなかった。 要するに何をすべきなのか、 最初は全く分からなかった。 しかし底地は一枚、 地主はひとりであったことは大きかった。 権利関係の図式でいえばABBであるが、 このAは極め付けの大文字のAである。 この大きな一枚プレートのAの上で、 氷のうえを滑らすようにウワモノの権利の移動はスムースにいくのでは、 という希望的観測は持てた。 実際にはそう甘くはなかったのだが。

2.被災状況

改行マーク計画地は阪神電鉄、 石屋川操車場のすぐ西に位置している。 地震発生直後の新聞社の空撮写真記録には、 高架操車場の上の車両が捻れ傾いている様を中心にして、 周辺一帯の被害の状況が克明に写し出されていた。 それを見ると10軒長屋の被害がきわめて悲惨であったことがわかる。 潰された、 という感じでほとんど塵芥と化している。 この周辺一帯は古い木造家屋が密集していたことから壊滅的打撃をうけた。 10軒長屋でも4人の方が亡くなっている。 わたしがこの地区に最初に入ったのは95年の9月2日で、 地震後8ヶ月を経過していた。 ほぼ解体撤去が終了しており、 広大な更地がひろがっていた。 いくつかの土地では自主再建がはじまっているのが散見されたが、 このあたりの区画は奥行きに比して間口が狭小で、 2間半くらいのフロンテージの一階に車庫を突っ込み、 軽量鉄骨3階建の細長い住宅は、 平面計画の苦しさが外からみても容易に察せられた。 殺伐とした雰囲気であった。 10軒長屋の敷地の中に建て残った住居を見ると、 もともとの共有壁であったところを切り離してセメント系のボードで固めていて、 それが揺れに対して抵抗したのであろう。 使用には一応耐えそうであった。 その足で借地権者が集まる会合へ初顔合わせに向かった。

3.計画の進行

改行マーク借地権者たちはすでに何回かの会合を開いており、 その主たる議題は借地権をいくらで譲渡するかということに集中していた。 地主の代理人から、 「規制がかかった為もうこの土地では住宅の再建は不能であり、 借地権を売却してくれれば隣接する土地と合筆してアパートを建てる。 希望者には優先的に入居を斡旋してもよい。 」という提示が出ていた。 しかし提示された借地権価格は常識的に考えてもあまりに低く、 再建不能論の根拠もいい加減なものだった。 さらに隣接する土地というのはその代理人の所有地であり、 しかも未接道の土地である。 これは到底呑める話ではない、 と即座に思った。 まず建築基準法や行政の復興計画に照らして、 地主代理人の根拠とする建築規制など全く存在しないことを説明した。 建物を建てるにあたって、 法的には何ら障害はない。 皆、 唖然としたようだった。 憤懣が噴出するなかで、 議題の中心はこの土地での住宅再建は可能か、 可能だとすればどのような方法が最も相応しいかという点に移っていった。 勿論、 従前の長屋を復活するのは不可能である。 個別再建も無理である。 権利を調整して共同再建しか道はない。 長屋の住人たちは一緒に暮らしてきたコミュニティ意識がつよく仲が良い。 家族のような付き合いをしていた。 だから家が建て残った家族については、 むりやり再建計画に巻き込むのは避けてあげたい、 という気分が趨勢を占めていた。 すでに転出を決めていた家族も何組かあった。 ヒアリングをして概ね図1のように皆の意向を把握した。

画像1k1-01
図1 10軒長屋
 模型を携えての幾度かの打ち合わせを経て、

  1. 借地権の位置を入れ替えて、 残りたいグループは敷地の西半分に、 転出希望のグループは東半分に固まる。
  2. 西半分については底地権を地主から買い取る、 東半分については地上権を地主に売り戻す。
  3. 建て残った家はそのまま借地として東側に残ることになるが、 接道条件は確保してあげなければならない。
  4. 隣接する2筆の未接道宅地(その内ひとつは地主代理人所有地)に声をかけこちらの再建計画に参加するよう逆に要請する。 助かるのは未接道宅地のほうであるはずだ。
  5. 補助事業をフルに活用する。 その為の設計要件を満たしていく。 (住市総事業)

  6. 地主を説得し、 地主に返す東半分の土地のうえに低家賃の賃貸共同住宅建設を促す。 転出希望者のなかには、 本音は残りたいのだが資金的な面などで、 共同再建に加われそうも無い人たちがいた。 その人たちの為の方策であり、 制度的にも使えそうなメニューが用意されている事が分かった。 (特目賃制度)

改行マーク以上のような基本方針を立てたうえで基本設計を進め、 同時に金額もふくめての地主側との交渉に入った。 当然すんなりと進むはずはない事は覚悟していたが、 紆余曲折の末最終的には概ね合意を取り付けることができた。 しかし特目賃住宅建設は、 頑として断わられてしまった。 権利の持ち分割合は最後まで揉めたが底地4割5分、 借地5割5分で妥協した。 このあたりまでで、 およそ5ヶ月が経過していた。 会合の数も30回くらい費やしていた。 この時点では再建組の各々の資金力もほぼ正碓に掴めていた。 計画を実現する為に事業主体をどうするかという点は、 本当に悩んだ。 デベロッパーを入れず完全自主再建を目指していたのだが、 土地の権利変換が複雑になってしまった事、 再建組の担保能力からして融資条件は大変厳しい事、 膨大な事務量、 などの問題を眼前にし、 幾つかのデベに協力依頼を打診することになった。 その内の一社大手ゼネコンの開発部が復興対策室という部門を開設していて、 そこがこちらの条件をほぼ完全に汲んだうえでの協力を申し出てくれた。 民間事業であっても復興関連には協力を借しまないという姿勢を示してくれた。 事業主体はあくまで再建を目指す住民であり、 ゼネコンは事業を代行し裏にまわってサポートするという形がとれた。 これには助かった。 内容をつめ協定書を取り交わし、 こうして態勢は固まったのだが、 ひとつ大問題が発生した。 基本設計図をもとにはじいた工事費の見積もりが予算を大幅に超過してしまったのである。 いわゆるタウンハウス型の、 全部の住戸が接地し、 それぞれが3階建の連棟住宅7戸で計画を進めていたのだが根本的な見直しを迫られた。 予算超過の原因はつぎの3点に集約できる。

  1. 内部専用階段でつながるタウンハウス型住戸は面積効率が悪く、 希望室数を確保しようとすると、 戸当たり面積を大きくとらざるを得なかった。
  2. このタイプは戸建て住宅を7棟作るに等しく、 共同住宅としてのスケールメリットが活かせない。 工事費を押さえるのに不利である。
  3. 7戸では区分所有の1戸あたりの土地持ち分比が重い
 以上のような反省点をふまえ、 あらたなプランの条件としてタウンハウスをひとまず諦め、 1住戸1フラットの重層共同住宅案を検討することとなった。 その際
  1. 戸当たり70〜80m2台の面積とする
  2. 工事費を施工床一坪あたり60万円台で押さえる
  3. 7戸から戸数を増やして、 土地の持ち分負担を下げる。
改行マークという提案を行った。 接地性と、 戸建て感覚を希望する皆の了承を得るのは、 結構しんどかったが納得してもらった。 しかしまた問題が発生した。 敷地測量をしたところ、 最初の図面よりも1m以上土地がせまいことが判明したのである。 共用部分がどうしても納まらなくなってしまった。 敷地面積がもう少し必要となったが、 なんとか手を打たなければならない。 隣接する土地にもうひとつ更地があった。 接道条件はしっかりしているので個別再建は十分可能な土地である。 だから声はかけていなかったのだが、 この土地を取り込む事ができれば何とかうまくいきそうであった。 所有者を調べるとひとり暮らしのおばあさんで、 西区の仮設住宅に住んでいる事が分かった。 年金生活者で資金力は低いが立派な土地所有者である。 等価交換の可能性があった。 ワラをもすがる気持ちでこの計画への参加をお願いにあがった。 顔見知りの人たちとまた同じ場所で暮らせることに、 おおいに好感を持たれたようだ。 何度かの訪問のあと、 我々の会合に来ていただけるようになった。 条件をつめていき、 参加してもらえることになった。 再建組にとっては買わなければならない土地面積が増えたが、 戸数もふえるので、 資金的にはむしろ有利なことが分かった。 それよりもこの土地が取り込めなければ計画自体まちがいなく頓挫の憂き目をみていた。 このような経過をたどり、 補助金申請のメドもつき、 あらたな計画をスタートしたのは最初の会合から7ヶ月経った96年の3月であった。 土地の形は10軒長屋の時から比べ大きく変化していた。 図2に土地の交換分合のフローをしめす。 あくまでこれは後からふりかえった整理であり、 当初はこんな流れになるとは思ってもみなかった。

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図2 土地交換分合のフロー


4.実現できた要因

改行マーク97年6月に建物は完成した。 震災から2年半経っていた。 最終的な敷地面積約500m2、 延床950m2、 3階建、 権利者住戸7戸、 保留床2戸。 ささやかなプロジェクトであるが、 実現までの道程は蛇行の連続だった。 途中で何回も諦めかけた時期があったが、 最終的には地主側も合意してくれたし、 土地を提供してこの再建計画に参加してくれた隣地の人達の理解、 ゼネコンの協力などにより完成に漕ぎ着ける事ができた。 なによりも長屋住民の結束力が強かった事が、 実現できた最大要因だと思う。 転出希望者も再建には協力的で支援してくれた。 借地権売買価格の決着も、 もう少し揉めるのではと思ったが立場の違いを超え、 再建組、 転出組双方歩みよって意外に早く決める事ができた。 打ち合わせの回数は全部で60回をこえた。 明石や須磨、 川西など皆、 遠方の仮住まいから集まって会合を重ねたのだが、 その労力だけでも大変だったと思う。 忘年会などのパーティーや、 集合住宅の見学会、 京都の茅葺き集落への遠足、 もちつき大会など楽しい催しをおりまぜて困難な時期を乗り切ってきた。 相次ぐプランの変更、 企画の変更の際にも、 とにかく徹底的に討議し代替案を探り、 停滞期間を長引かせない様にした。 空白時間がながいと消耗してしまう。 ダッチロールはしたものの、 とにかくアクセルは踏み続けた。 結果的に2年半というのは早期に実現できた方だと思う。

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図3 平面図と立面図


5.まとめ

改行マーク元、 住んでいた場所に戻りたい、 住みつづけたい、 という希望は最大限尊重されなければならないと思う。 今回の場合はここで肉親をなくされた家族が、 ここに留まって見守りつづけたいという気持ちを強く持っていた。 再建の動機として大きい。 ほかにも元の場所に戻りたがっている人たちはたくさんいる。 今回は幸運にも、 借地権者であっても結束して元の場所に一応戻る事ができた。 共同再建は、 ひとつの有効な手段であることはまちがいない。 しかし一般的に共同再建は時間がかかりすぎる。 2年半は早い方だといったが、 これ以上かかっていたら、 どうなっていたか分からない。 動機を維持し続けるのもエネルギーがいる。 もう少しシンプルにできないものかと思ってしまう。 今回のプロジェクトで、 私は設計を専業とする者として参画した。 とにかく設計案を出しまくって、 場を繋いでいく役割に終始したように思う。 権利関係等の調整は後手にまわして、 後からフォローしてもらうという形になった。 破棄された案の紙屑の山と、 模型の残骸の山を築いてしまった。 それしか出来なかったし、 それしか方法として知らなかった。 しかし計画先行、 調整追随のやり方は少なくとも進め方としてヴィジュアルにできるし、 前に進んでいるな、 という気分を演出するには有効であった。 演出も必要である。

改行マーク計画の必要性を痛切に感じる。 現在戻りたくても、 戻れない人たちの閉塞感を打破し救ってあげなければならない。 それと同時に戻れた人、 住み続ける事ができた人たちも、 その権利を守る為に自分のまちに対する計画を持たなければならない。 計画を先行していかなければならない。 事が起きてからの計画の立ち上げは、 大変な労力と時間がかかり、 時間の超過は往々にして致命的となる。 まちづくりに関する計画づくり、 計画づくりに関するアドヴァイスはこれからの方が重要性を増すだろう。

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