まちづくり実践ゼミ
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換地を含む大規模共同化
―下山手通8丁目地区―
竹内繁忠((株)タカハ都市科学研究所)
1.対象地区の概況
下山手8丁目地区は、 元町の北西部に位置し、 三宮を中心とする神戸市都心の外周部分に当たる。 JR神戸駅、 神戸高速花隈駅、 同西元町駅、 地下鉄大倉山駅の各鉄道駅から徒歩2〜8分で、 交通の便は極めてよい。 徒歩圏内に商店街や各種公共施設等が充実しており、 生活の便も良好である。
対象地区は、 戦前から幅員2メートル程度の小路に、 長屋が密集していた。 この小路にはレンガが敷き詰められており、 人力車の轍の部分には御影石が敷いてあって、 「レンガ小路」と呼ばれていた。 神戸有数の花街であった花隈の隣接地で、 昼間から三味線の稽古の音が聞こえる、 当時としてはハイカラで静かな住宅街であったと言う。 戦火からも免れ、 震災で壊滅するまで昔の面影を残した街区であった。
戦災復興区画整理区域外であり、 外周部分は幅員10メートル以上の道路に囲まれているが、 その内部は、 全て幅員2メートル前後の「みなし道路(建築基準法42条2項道路)」であり、 対象地区内は全て私道であった。 また、 ほとんどの敷地が私道部分を除き18坪程度で、 その敷地をいっぱいに使って、 延べ床面積30坪程度の住宅が建ち並んでおり、 隣家とは柱・壁が共有の長屋形態のものであった。
建築基準法に照らして既存不適格建物であり、 建て替えるとすると、 私道の中心線から2メートル後退し、 建ぺい率60%で建てなければならず、 従前の床面積の半分か1/3以下でしか建て替えられない状態であった。
地権者(土地に関する権利者)は46名で、 土地所有者29名、 借地権者17名である。 アパート等の借家権者が十数名いたが、 ほとんどの借家権者は、 震災直後大家と契約解除し、 転出した。 その他の地権者(居住者)は、 古い街であるため夫婦あるいは一人暮らしの高齢者が多く、 一部の例外を除き建物は全て持ち家であり、 住居費の心配をすることなく年金等で生活を維持していた人が少なくなかった。
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図1 対象地区位置図と震災前の概況 |
2.被災状況
一部分が半壊で、 対象地区のほとんどが全壊であった。 幸い、 火災は発生しなかった。 地区内で5名の方が震災で亡くなられた。 全て圧死である。
外周道路に面した表側は比較的被害が少なく、 一皮内に入った街区のアンコ部分が全滅した。 即ち、 不幸なことに、 建築基準法上再建が易しい部分は被害が少なく、 再建の困難な2項道路に面した部分が壊滅したのである。
道路に面した部分は、 鉄筋コンクリート造も多く、 木造でも比較的新しい建物が多かったのに対し、 街区の内側の建物の大半は、 戦前からの古い建物に少しずつ手を加えてきたものであったことが、 このような状況となった原因であろう。
この震災被害の状況は、 当地区の復興事業が進行するにつれて、 極めて重要な意昧を持つこととなる。
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図2 被災状況 |
3.事業の進め方とその特徴
(1)白地地域での自主再建
行政は、 被災地域全体を見渡しながら、 精力的に復旧・復興計画を立案し、 必要な施策を実施して行った。 当地区は、 そうした行政主導の復興計画区域から外れた、 いわゆる「白地地域」であり、 住民自らの自助努力で復興を進めなければならなかった。
当地区での復興は、 既存不適格であるため震災前と同じものは建たないことに気付いた権利者有志が、 震災後1ヶ月経たないうちに、 いち早く神戸市に相談に行ったことから始まった。 市は(社)再開発コーディネーター協会にコンサル派遣を依頼し、 復興の活動が開始された。
当初、 20数軒での復興を想定し、 その範囲に呼びかけて最初の説明会を開催したところ、 噂を聞いた周辺住民を含め、 70数名の人々が集まった。 それだけ住民の困窮の度合が深かったことの現れであると同時に、 誤解や過度の期待で説明会は混乱した。 特に「行政は何故来ないのか。 何もしてくれないのか」という、 苛立ちと依存心が強かった。 結局、 共同復興を自ら考えようとする対象地区の住民が残ったのであるが、 その後の活動の中で、 「他に頼るのではなく自ら血と汗を流さなければ、 誰も助けてはくれない」ことを、 住民は次第に理解して行った。 このことが、 その後の権利者の合意形成・集団化を推し進める力の源泉となった。
当地区の権利者達は、 施行者が決まるまでの約1年半の間、 コンサルの支援のみで、 全てのことを推し進めた。 避難先を探して連絡網をつくり、 アンケートをとり、 再建への合意形成を進め、 建設組合を組織して再建計画をまとめた。 その過程では、 測量のために役員で数百万円の資金借入をするなど、 自らリスクを背負うことも敢えて行っている。 さらに、 施行者が決まってからも、 2項道路の廃止・官民境界明示などの同意取り付け、 近隣対策、 従後の権利者住戸の配置調整、 従前資産譲渡契約同意取り付け、 マンション管理計画の検討等々、 正に自主再建のために奮闘して来た。 もし他への依存心が強かったなら、 互いに我慢し合い、 譲り合って合意形成することは出来なかったであろうし、 上記のような権利者活動と短期復興は不可能であった。
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図3 事業推進の経過と権利者活動 |
(2)接道条件の確保
復興計画を立案する上で、 最初の壁となったのが接道であった。 街区のアンコ部分は、 共同化によらないでは復興が困難であり、 共同化のためには2項道路の廃止が不可欠であった。 しかし、 街区の外側の道路に接した部分は比較的被害が少なく、 また単独復興が可能であった。 このため、 道路に接した敷地の権利者に対し事業への参加を求め、 接道条件を確保しようとしたが、 これには半年近くの時問を費やしてしまった。
当初は北側道路での接道を目指したが関係権利者の合意が得られず、 幸いその後、 東側の権利者の協力を得ることが出来、 ようやく復興計画の方向が定まり、 対象地区の範囲もほぼ固まつた。
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図4 換地と敷地デザイン |
(3)換地と建築敷地
復興計画はあくまで関係権利者の意向に基づいて立案されるべきであるが、 当地区においても他の例にもれず意向は異なっていた。 共同化でなければ再建できない権利者が少なくなく、 個別で再建可能でも共同化に賛成の権利者が多かったが、 どうしても戸建てを希望した権利者もいた。 また、 地区内の2軒は震災直後にいち早く補修し、 そのうち1軒は相当の資金をかけて新築同様以上の補修を行った。 これら戸建て希望者は地区内に点在しており、 換地しない限り、 多くの権利者が希望する共同化敷地の確保はできないことが明らかであった。 また1軒でも残るなら、 2項道路の廃止は出来ず、 共同化は不可能である。
そのため、 地区内に共同建築ゾーンと個別建築ゾーンを設定した。 対象地区が接道している部分は、 東側と南側に限られており、 南側は公道ではあるが2項道路である。 共同化敷地は東側で接道するしかなく、 戸建敷地は南側で接道することとした。
換地計画への同意を取り付けるには、 数ヶ月の時間を要したが、 その間粘り強い権利調整の話し合いを重ね、 ようやく案を固めることが出来た。 また、 換地に伴う税務上の問題については、 幸い居住用資産の権利者がほとんどであったため、 実質的に譲渡所得税の負担はなくて済むこととなった。
任意事業でありながら、 換地と共同建築を組み合わせた事業であることが、 本事業の最大の特徴である。
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図5 共同建築俯瞰図 |
(4)事業の仕組み
本事業は、 優良建築物等整備事業を活用し、 全部譲渡方式の等価交換事業として組み立てた。 共同建築物の用途は全て住宅で、 専有部分面積のうち、 24%は従前土地資産との等価交換床であり、 76%の保留床のうち23%は権利者等が増床し、 残り53%は神戸市住宅供給公社が取得して分譲する。 マンション価格が下落し、 工事費が高騰する中で、 事業成立性はなかなかに厳しいものがあるが、 公社に保留床の大部分を引き受けて貰えたことで、 本事業は成立している。
(5)建築計画
共同建築物は全て住宅(マンション)で、 戸数は114戸であるが、 そのうち34戸が権利者等の自住用で、 31戸は権利者が取得し賃貸経営するワンルームマンションである。 残り49戸が公社分譲住戸であり、 従後の住民層や使用・管理形態等は単純ではない。 今後、 入居後のマンション管理やコミュニティ形成が課題である。
4.まとめとコンサルタントの所見
本事業は、 震災復興という特殊性に端を発し、 数々の特色を持っている。 簡単に要約すると以下の通りである。
(1)時間との戦い
通常の再開発等とは異なり、 権利者の住戸は壊滅しており、 避難所や仮設暮らしの中での震災復興であるため、 何といっても「時間」が終始重要な要素であった。 そのため、 十分な理解を得るための勉強会や、 検討を重ねる時間もなく、 信頼関係だけで承認を得て突き進んだ面が強い。 このことの利点もあったが、 欠点も少なくなかった。
(2)意向調整と接道・換地
前述のように本事業は、 接道条件の確保や、 共同化意向と個別建築意向を調整するため、 換地を行うことにより事業化出来た。 しかし、 このことがその後の具体的な事業進捗の中で、 様々な軋轢を生む原因になったことも事実である。 また、 区画整理と再開発の合併施行にも似た、 このような任意事業が一般化出来る訳でもない。 特に税務上は、 各権利者の個別事情に応じて、 各種の特例を組み合わせることにより、 結果的に譲渡所得税の負担を回避できたのであり、 少し事情が違えば、 そのために事業化出来なかった可能性が高い。
(3)事業成立性と施行者
実は事業成立性が確保され、 施行者(事業代行者)が確定していれば、 権利者の合意形成はもっと早かったと思われる。 最終的に(株)長谷工都市開発が施行者となって事業が進んだのであるが、 そこに至るまでは数十社のディベロッパーに打診をし、 5社が手を挙げ、 そして辞退して行った。 本事業は、 公社に保留床の大部分を引き受けて貰えたので、 最終的に成立出来たが、 その見通しが立つまでは、 権利者の不安は大きく、 揺れ動く権利者心理によって合意形成が困難な状況が長く続いた。
(4)リスク負担
本事業は任意事業であり、 事業担保出来るまでの長く困難な期間を乗り切る推進主体がなく、 施行予定者との間でリスク負担に関する苦悩が続いた。 限界を超えるとも思える借り入れを、 組合役員の連帯責任で行わざるを得なかったのは、 典型的な例である。
(5)行政の対応
行政に対しては、 優良建築物等整備事業の関係は勿論、 開発許可や建築確認等様々の行政上の処理については無理を承知のお願いもしたが、 本事業のために行政は最大限の支援をして頂けた。 このような行政支援がなかったならば、 本事業は今日を迎えられていないであろう。 権利者と共に感謝の意を表したい。
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