都市の記憶
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世界が愛し、 作ったまち、 神戸

小松

改行マーク今日はよく呼んでくださいました。 先ほどは、 大森さんのなつかしいというか、 私にとっては胸の痛むようなシーンのある映画を見せていただきました
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夙川カトリック協会(昭和7年竣工、 設計:梅木省三)
 私は昭和六年、 大阪の西区京町堀に生まれまして、 四才の時に西宮の夙川に越してまいりました。 そこにはカトリック教会がありまして、 そこはついこのあいだ亡くなった遠藤周作さんが、 十一才の時に洗礼を受けられたところだそうです。 彼の魂がまた、 あのカトリック教会に帰ってくるのではないかと思います。 それから、 旧制神戸一中に五年間通いました。 昭和十八年から二十三年までですが、 そのうちの半分はあの大空襲の時代でした。 ですから、 私が小学校のときに知っていた神戸のまちは、 もうだめなんだろうかと思いましたが、 わりと山の手のほうは空襲を免れまして、 そのあたりと、 そして、 三宮、 元町の闇市あたりから戦後の復興が始まってくるわけです。

改行マークいまから二十二年ほど前、 一九七四年に神戸のサン・テレビから、 何か番組をやってくれと頼まれましたので、 それならば、 「街角」という番組をやろうと提案しました。 私が知っている神戸の街角で、 そこら辺に住んでおられる方と話をしながら、 毎週一回三十分。 一クール、 十三本作らせてもらいました。

改行マークその一回目にトアロードをやりました。 その頃、 新神戸オリエンタルホテルは、 もちろんまだありません。 旧居留地のオリエンタルホテルです。 そこの総支配人をやっておられた岸ラヨシさんという方にインタビューしたわけです。

改行マークオリエンタルホテルというと、 とっても食事のおいしいところでして…。 岸さんに、 いろいろお話を伺っている時に、 非常に感動したことがあります。 岸さんは、 第一次大戦の時に、 ハンガリー軍でロシア帝国の捕虜になり、 シベリア鉄道で送り返される時、 ナホトカから直江津に上がりました。 さらに東京まで来て、 ハンガリーに帰ろうと思ったのですが、 東京が何かおもしろいので、 そこで当時の帝国ホテルのコックをやったそうです。 ですから、 帝国ホテルのグーラッシュは、 おそらく彼が教えたものだと思います。 そのうち、 三井の益田鈍翁さんに見出され、 今度神戸のトアロードにオリエンタルホテルを作るから、 そこでシェフをやらないかと言われた。 そして、 彼は岸さんという女性と結婚しまして、 日本国籍を取り、 第一次大戦の後もずっと神戸にいたんですね。

改行マークそして、 神戸があの大空襲に遭う少し前、 その時神戸に住んでいた中立国の外国の人たちがみんな集まって、 この神戸を空襲してほしくないと、 時のアメリカ大統領、 フランクリン・ルーズベルトに手紙を書いたんだそうです。 そして、 カナダ経由で送ったというんですが。 おそらく届かなかったんでしょう、 空襲が始まりました。

改行マーク彼は、 その時の文面をよく覚えていまして、 「神戸は、 日本の人たちだけが愛しているまちじゃない。 私たちヨーロッパ系やアジア系の人たち、 みんながこの神戸のまちを愛し、 作ってきた。 どうかこのまちに空襲をしないでください」。 そういう文面だったそうです。 私はこの話に非常に感動しました。 ちょうど戦争中は川崎重工で潜水艦を作っていまして、 私も中学三年から工場動員にかりだされ、 空襲で焼けると焼夷弾に濡れ布巾をかけさせられたりしました。 神戸にいた外国の人たち、 山の手の異人館を作った人たちも、 一緒になって神戸のまちを愛していたんだということです。

改行マークですから、 私は神戸の方に言うんですが、 神戸のまちは日本人だけが作ったまちじゃありませんと。 いろんな国の人たちが神戸の風光を愛し、 布引ウォーターを愛し、 そして六甲の山を愛している。 六甲の山もはげ山だったんですが、 イギリスの人が植樹を始めました。 ゴルフをやるのも初めてでした。 回教寺院とか、 呉錦堂さんが建てられた舞子の建物、 『風見鶏』の舞台となった何とも言えないエキゾチックで温かみのある異人館通り、 そういうものは、 世界の人たちがこのまちを愛したから作ってきたんだということをぜひ考えてほしい。

改行マーク戦争前、 私は西宮から神戸に来て、 聚楽館で『ターザンの逆襲』なんかを見て、 帰りにはギリシア料理を食べました。 それから、 バラライカというロシア料理。 もちろんスペイン料理もありました。 ハイウェイなんて洒落た店もありました。 たとえば、 私がハンバーグステーキというものを食べたのも、 神戸が初めてだったんです。 これは、 神戸製鋼に来た技術者の未亡人がやっておられました。 中華まんじゅうというものを食べたのも、 神戸が初めてなんです。

改行マークそれだけじゃなしに、 何かのお祭りの時にいろんな外国の人たちが出てきた。 戦争中でもまだ外国の人たちがいました。 三宮の三角市場のところで白系ロシア人のおばあさんが、 ハッパが傷んでるとぶつぶつ言いながらキャベツを半分買っていたのを覚えています。 戦争中ですので、 もう空襲が始まっていたんです。

改行マーク戦後、 日本は敗戦国になったのですが、 思い出が尾をひいていて、 たくさんの人たちが世界に向かってもう一度このまちをつくっていったんです。 ですから、 神戸というところは、 関西の中でも非常に珍しい「国際都市」であった。 そういう歴史を頭において復興の時にもデザインしていただきたいと思います。 日本人だけが作ったのではない建物、 そういったものを何らかの形で…これは所有権の問題なんかがうるさいのですけれども、 更地にしちゃって別の大きなビルを建てるというのではなく、 神戸が近代百三十年のあいだ受け継いできた一つの歴史遺産として、 ぜひ大切に再建していただきたいと思います。

竹山

改行マークありがとうございます。 建前だけではなく、 本当の国際都市として、 ちゃんと復興を考えるべきだというご意見でした。 続いて、 大森さんお願いします。

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