私は大学院時代の二年間を神戸で過ごし、 その後十年間東京におりまして、 十八年前に神戸に戻ってきて建築事務所をやっています。 若い時は無知ですから、 神戸の近代洋風建物とか異人館の良さとか、 そういうものはなかなか分からなかったんですね。 ただ、 東京で建築の仕事をしてきて、 神戸に戻ってきた時に、 正直言って、 本当の意味の文化的ショックを感じたんです。 すごくヒューマンなものと、 歴史の積み重ねが残っているということがすごくショックで、 それ以来、 神戸の近代建物の調査をしたり、 保存活動を続けてきました。 震災後、 異人館の修復を誰かやらないかということで、 やらせていただきました。 その報告をさせていただこうと思います。
その後、 第二次世界大戦によって随分被害を受けたんですが、 昭和三十年代までは、 まだ二百棟近い異人館が点在していたと聞きます。 その後、 昭和三十年代から四十年代の高度経済成長政策によって、 どんどんマンション、 商業ビル、 ホテルに建て替えられていき、 異人館街の破壊を招いてしまいました。
昭和四十年代の後半になって、 歴史的なまちなみを守る運動が全国的に盛り上がり、 そういう盛り上がりの波の中で、 一九八一年に、 「北野・山本地区を守り育てる会」が結成されました。異人館復興から学んだこと
北野町山本通地区の歴史
少しおさらいをしますと、 一八五八年に締結された五ヶ国との修好通商条約によって、 開港地と居留地の開設地区として神戸が設定されたわけです。 海沿いにある旧外国人居留地地区の山の手の雑居地として出発したのが、 現在に引き継がれている北野・山本地区の異人館街です。 大正初期に至るまで、 ビクトリアンスタイル、 もしくは、 コロニアルスタイルと呼ばれている洋風の建築が建てられました。 特に関東大震災の後、 東京とか横浜から神戸に移り住む欧米人がたくさんいたということもあって、 大正の後期には三百棟以上の異人館が建てられたそうです。 明治の中期から兵庫県の指導で、 あのあたりには、 日本人が住むにしても、 中国の方が住むにしても、 異人館風の建物を建てるようにというお勧めみたいなものもあったようです。
現在の北野町山本通(シュエケ邸付近) |
その大混乱の中で、 文化庁の紹介で、 日本建築セミナーという、 これは有志からなる任意団体なんですけれども、 文化財の修復とか改修をかなりやっていらっしゃる方たちが神戸にやってきて、 異人館の修復のお手伝いをしてくださるということになったんです。 その時、 神戸市の文化財課のかたが、 神戸市の設計事務所が一つも入っていないのはおかしいんじやないか。 神戸市民の誇りを神戸市民の手でもう一回再現しよう、 そして、 修復の技術そのものを神戸市に根づかせなければならないということを言われました。 私は修復の技術を全く知らない人間だったんですけれども、 以前に三、 四ヵ所、 古い建物のリノベーションをやったことがあったものですから、 その延長線上でやってみないかといわれました。 そしてこれが、 地震で大きな被害を受け意気消沈していた私自身に生きる勇気を与えてくれたのです。
そういうかたちで異人館の仕事に取り組んだんですが、 異人館を調査してみて初めて、 その内容、 ディテイルがわかってきました。 たとえば、 中の軸組ですが、 小屋組みは洋風の小屋組みなのですが、 そこから下は和風の軸組でつくっているとか、 壁は竹小舞いを土壁とつくっているとか、 部分的に板を張っているとか、 洋風のアイディアと日本風のアイディアが渾然一体となっていることがわかりました。 まるで蔵のような作り方をしており、 技術的にも非常におもしろい発見があって、 これは、 データとして残していかなければならないと思っています。 震災のおかげでそういうおもしろい発見がありました。
先ほど小松さんが神戸は日本人だけじゃなく、 外国人も一緒に作ったというお話をされましたが、 シュエケ邸というのもその一つだと思います。 シュエケ邸は、 たくさんの神戸の居留地や異人館の設計をしているハンセルというイギリスの建築家が自邸として建てたものですが、 戦後、 シュエケさんが得られたのだそうです。 そのシュエケ邸に行って、 シュエケ婦人とお話したときのことなんです。 私が絶望感に打ちひしがれていると、 七十二才のすごく美人のおばあちゃんが、 「あんた、 がんばらんとあかんよ。 神戸は三回破壊されている。 一回は大水害や、 二回目は戦争や、 三回目がこれや。 私は二回経験したけど、 二回とも神戸は立ち上がったやないか。 震災でもちゃんときれいにして、 立ち上がらんといかんよ」と叫ばれるんです。
シュエケ邸(旧ハンセル邸)(明治29年竣工、 設計:A. N.ハンセル) |
シュエケ邸内部 |
竹山:
大変貴重な経験によって分からないことが分かってきたというお話でした。 またそういう技術を広げていただいて、 未来につないでいただきたいと思います。 続きまして武田さん、 お願いします。