僕は映画監督なんですが、 実は自宅である芦屋のマンションの復興委員会の委員長をやっております。 被災したマンションだったので、 修復か建て替えかということも含め、 二周目にはその話をしようと思ったんですが…。 武田先生がさっきおっしゃったように、 補修には補助がなくて、 建て替えには補助、 特典があると。 もうそれに尽きるんですね。 この話はもう言ってもらったんで、 別の話をします。
まことしやかな話というのが世の中にはあります。 聞いてるとなるほどなと思うわけです。 たとえばオリンピックのトレーニングの様子を聞いていると、 高地の空気の薄いところでやっているから、 肺がどうだ、 筋肉がどうだと。 それを聞くと、 なるほど、 そういう風にするのか、 高地トレーニングで金メダルが取れるんや。 でも、 蓋を開けると誰も取れない。 まことしやかな話を聞かされて、 でも現実はその通りにはいかない。 そういう話は僕の小さい頃にもありました。 日本には高層ビルは建たないと。 アメリカのマンハッタンみたいな都市はできない。 なぜなら日本には地震が多いからだと。 でも、 いまや五十階六十階の建物がどんどん建っています。 これも昔聞いたまことしやかな話ですね。 それから、 地下鉄の冷房は永遠に入らないだろうと言われていたんですね。 冷房をしても空気を抜くところがないから、 地下鉄にはできないと。 これも聞いた時は、 なるほどなあ、 空気を抜くところがないなと。 しかし、 いまや地下鉄も全部冷房が入っているんです。
そういう話は、 説得力があり、 合理的な話で、 聞いたときは確かにそうだなと思うんですけど、 でも、 意外に脆いものであって…。
何の話をしているかというと、 この御影公会堂も、 地震が来たら倒れる倒れると言われていたんですよ。 でもちゃんと残っているんですね。 僕の近所の芦屋市立図書館でも、 もう壊れるから解体しようと言っていたんですけど、 隣のマンションが大破しても、 図書館はちゃんと残っているんですね(笑)。
だからどうだということではなく、 だから古い建物がいいというわけではなくて…。 僕は建築の専門家ではないのでよくわからないんですけど、 僕らが災害で学んだことというのは、 災害では通り一遍のことが起こるんじゃなくて、 意外なことが起こるんだなあということです。 家でもそうでしょ。 なんでこっちが倒れて、 この家が残ってるのかなあといういような、 失礼ですけど、 ぼろぼろの家が残ってるんですね(笑)。
こういうことを考えると、 何というか、 非常に曖昧なんじゃないかなと思うんですよね。 だから、 防災のために道を広げるというのも、 ひょっとしたら、 まことしやかな話じゃないかなと思うんですよ。 今回でもそうです。 道路を広くしないといけない。 何でかと言うと、 消防車が入れないからだと。 でも、 今回は消防車が前まで行けても、 水が来なかったからだめだったんですね(笑)。
そういうことが分かっているくせに、 防災のためには道を広げると。 もう信仰のごとく、 そういう風にやるんですけど、 それより水の通りをよくすればいいし、 いまはテクノロジーが進んでいるんだから、 細い道でも入れる消防車を作ればいいわけです。 いまだに道を広げることしか考えない。 つまり、 意外に安全性というものは、 古い言葉ですけど、 ファジーなもんじゃないか。 曖昧模糊としたものじゃないかと思うんです。
例えば、 マンションの復興でも必ず出てくるのは、 資産価値ということでね。 資産価値というのは、 要するにお金です。 お金とか安全性というのは、 大勢の人が話す時に、 非常に話しやすいと思われるんです。
なぜかというと、 はっきりとした価値観があるものと思っているからです。 たとえば安全性というものは大切なことで、 これは、 行政がみても市民がみても同じものだという信仰みたいなのがあるのです。 お金についても、 誰にとってもお金は大事なものですから、 お金とか安全性の問題を中心に話していくことが、 みんなで話していく時の、 最低限の共通項であるという常識があるんですね。 ところが、 これは、 ちょっとおかしいんじゃないかと。 資産価値なんていうのは、 ええかげんなもんですよ。 非常にファジーなものであって、 人によって変わるし、 時代によって変わるし、 相対的に変わってくるんですよ。
安全性もいま言ったように、 たとえば災害が起こったときの安全性というのは、 皆の共通の討論の対象となるようなものではないと思うんです。
逆に、 まちの景観とか建物の美しさというものが、 ファジーなものと思われているんですね。 曖昧で、 人によって価値判断がばらばらだ。 だから、 討論の対象にならないと。 みんなで共通の話題として一生懸命話すんだったら、 各個人の個人差が出るようなものはみんなが混乱するから話してはいけないという、 非常に日本人的考えなんですね。
資産価値、 安全性というのは、 確たる何かがあるから、 話しても討論になるであろう。 でも、 美観とか景観については、 各人考えがまちまちで多様だから、 それは討論にならないという、 すごい常識がある。 でも実は逆なんじゃないかなと思うんですよ。 美しさとか景観についてのほうが討論しやすいんじゃないかと思うのです。 同じ美しさを汚ないという人は、 よっぽど変わった人なんですよね、 意外に。 あるところまでは、 皆で話せる話題なんです。
景観、 建物の美しさについては、 大体皆考えていることは一緒なんですよね。 それを、 そういうことを討論したら、 皆が美しいと思っているものが、 実は美しくないと言う人がいるんじゃないか。 その人を攻撃すると、 個人の思想信条を攻撃するようなことになって、 よくないんじゃないかとか、 そういう勝手なことを思う。 だから、 本当に建物の美しさとかまちの景観についてちゃんと話さないんですよね。 それよりは、 安全性とか資産価値とか経済性を話しているほうが、 討論らしいと思っているんです。
とにかく一度、 美しさとか景観ということのほうが討論しやすい材料であるということを考えてやれば、 意外にまちというのは、 美しい建物が残ったり、 美しい景観が残っていくんじゃないかなと思うのです。 逆にいうと、 そういうものが残るような教育、 子供たちに美しいものは美しいと分からせるような、 そういうことを教えるとファシズムだと言われるんですけど、 それも余計な心配で、 美しいものを美しいと教えることは全然ファシズムでも何でもないと思うんです。 まちの景観についても、 要するに情緒教育ですね。 公園を見たらゆったりするなと思うような気持ちがあれば、 誰でもいいものは残そうとするし、 美しいものについては反応するんじゃないかなと思います。 ですから、 いい加減に安全性とか経済性の話をするのはやめて、 芸術性とか景観性の問題を話すほうが、 討論の対象になりやすいんじゃないかということを言わせていただきます。
竹山:
ありがとうございました。 まことしやかな理論にごまかされずに市民としてもっと賢くなれというお話だったと思います。 次に武田さん、 お願いします。
「まことしやかな話」の曖昧さ
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