お手元の資料にありますように、 谷崎潤一郎の昭和三年から六年に住んだ岡本の家の一つが全壊してしまいまして、 その復元運動をやって、 まる三年目になります。
実はいま、 大学の入試センター委員をやらされています。 各地方に行って、 うちの大学へぜひ来てくださいといって高校生を引き込む、 早い話が「人買い」をやっているわけです。 各県庁所在地の駅に近いホテルの披露宴会場を借り切って、 全国の各大学が机を一つずつ借りて、 資料を置いて、 そこに高校生が千五百人ぐらい来るんです。 少子化現象で、 大学の受験者数が減ってきているから、 大学当局としては人員確保に必死なんですね。 入ってくれなくても受験さえしてくれたら受験料が相当な額になるものですから、 かなり発破をかけられまして、 えいえいオーと、 地方へ行って「人買い」をするわけです。
うちは女子大ですから、 相手は女の子なんですけど、 地方の女の子が「神戸って、 もうちゃんとなってるんですか」と尋ねるんですね。 震災前の阪神間の女子大に来る地方の女の子というのは、 神戸に遊びに行けるということが、 非常に大きな魅力だったみたいなんですね。 うちの大学は西宮ですから、 神戸にも大阪にも三十分で行けます、 神戸の異人館で彼氏と週末にデートしたら?とか、 南京町に食べに行ったら?とか、 六甲からの夜景は素敵よとか、 そういう女の子の喜びそうな歌い文句を、 大学のアピールの手段にしてきたわけです。
私たちが現実に阪神間に住んでいたり、 勤めていたりしますと、 その現状はともあれ、 生活できる空間に戻りつつあるという認識を持っているわけですが、 地方へ行くと、 そういう認識がないようなんです。 いまだに倒れている家がいっぱいあるとか、 水はちゃんとあるんだろうかとか、 要するにマスコミが、 復興がちゃんとできていない、 まちが元へ戻っていないというマイナスのイメージで書き立てるものだから、 地方の女の子たちが、 やっぱり神戸より京都の方がいいかなと、 隣の京都から来ている大学のブースにいくんですね。 学生確保の争いは、 もう熾烈なんですよ。
まあ、 そういう問題じゃなくって、 要は、 神戸がおしゃれで生き生きしていて、 少しレトロな洋風の景観の楽しめるまち、 というコンセプトが日本全国の若い人たちの間に浸透しつつあった。 ところが、 震災という大きな災害で、 全壊してしまったというイメージなんです。 壊れてしまって、 しかも残念なことに元の形までには戻っていなくて、 とりあえず生活できるように突貫工事で二年半ぐらいたった、 というイメージなんです。
それに対して、 震災前の美しかった神戸、 美しかった阪神間、 美しかった歴史への思いがこういう形で残りますよ、 という長期ビジョンを神戸から発信したかというと、 やってないのではないかと思うんですね。 建築家の方々が公共の事業にサジェスチョンや提案をなさって、 行政と膝詰め談判して、 練り上げて、 たとえば新聞の第一面で、 将来十年後にはこんな美しいまちになりますという図版入りのアピールをしたかというと、 してないんじゃないか。 一番不満なのはそこなんです。
ところが、 自分の思ったようには復興していない。 東京ではとりあえず住まなきゃいけないからバラックが建ち、 美学なんてそっちのけで、 生活優先で建っていく。 結局、 彼はがっかりして、 関東に帰るのを諦めるわけですね。 それと全く同じことが今回の阪神大震災でも言えるんじゃないかと思うんです。
確かに神戸は、 特に都心部は、 生活ができるような空間に戻りつつあります。 が、 無秩序に近代化しつつあった神戸を、 一番美しかった時代に戻すための一つの契機になるのではという期待を完全に裏切る形で、 復興していっているというのが、 私のここ二年間の復興に対する不満です。
山手ということでいうと、 私は、 岡本七丁目あたりで、 地区の人たちと一緒に谷崎の家を復興すべく運動しています。 潤一郎の家は今は個人の持ち物ですから、 そこに住んでいらっしゃる方がすぐ住まないといけない。 プレハブが建ちました。 その横の土地を買うにはお金が倍かかる。 じゃあというので、 神戸市が、 梅林公園の拡張予定地を使ってもいいよと言ってくれました。 なかなか神戸市も粋なことをしてくれるとうれしくて、 私たちは狂喜乱舞したわけです。 ですが、 そのまん前に大きなマンションが建ってしまった。 そこのマンションの方がここにいらっしゃったら申しわけないですけれども。「美しい阪神間」復興へのビジョンを
入試説明会で感じる被災地のイメージ
たつみ:「谷崎の美意識」と二つの震災復興
谷崎潤一郎は、 大正十二年の関東大震災に遭って、 妻子と共に箱根から関西に逃れてきて、 阪神間に来ました。 苦楽園に居たんですが、 彼は、 東京が変な具合に近代化していくことが不満で、 実は内心、 震災によって全壊してしまって「万歳!」と、 手を上げていたわけです。 関東大震災の場合は、 火災で、 戦争でやられたように、 ほとんど何もない空っ穴の状態になった。 潤一郎は、 美学に対して非常にエゴイスティックな人ですから、 旧江戸情緒のまちがもう一度よみがえるという期待を持っていた。 二年三年掛かるかどうかわからないけど、 ともかくそうなったら帰ろうと思って、 関西に居たわけです。
鎖瀾閣(昭和3年竣工、 基本構想:谷崎潤一郎) |
岡本は摂津名所図絵の中に描かれたように、 梅の名所でした。 その梅の名所のランドスケープの中に自分の身を置きたいから、 梅林を見るための窓を設置した。 しかもこの時、 美意識が三つに分裂してました。 洋風なものに惹かれて洋風の部屋を作り、 大正の末期には中国にかぶれていたので中国式の外観を作り、 その頃から四十代にさしかかって、 和風なものへと変換していきましたので和室を作り、 という風に、 三つの美意識が凝縮された場所だったのです。
たとえば我々の運動が結実して、 その家が建ったにしても、 ロケーションの三条件の一つが、 半減することになってしまったわけです。 つまり窓から見ても、 前の大きなマンションで海が半分見えなくなったわけです。 もちろん地元のかたは、 そのマンション建設に反対なさったようですが、 空しいというか、 不可抗力というか…。 ともかく住む場所が必要なわけですから、 震災後、 そんな悠長なことを言っている暇はない、 と言われてしまうと、 反論のしようがないわけです。
もう一つ、 同じことが言えるんです。 よくシンポジウムなどで、 その元の材木はどうなったんですかと尋ねられるんです。 あの時は本当に異常で、 キャタピラーがやってきて、 廃材をあっと言う間に処分していった。 私はその日の朝、 急に連絡を受けて飛んで行ったんですが、 待ったなしなんですね。 私たち研究者がキャタピラーの運転手に怒鳴られながら中に入って、 扉だとか瓦だとか何枚かかっぱらってきて、 それを芦屋の記念館にちょっと保存しましたけれども、 後はどうしようもない。 建築技術から言うと、 いろんな写真やビデオが残っているから復元は可能なんですが、 もう完全に元には戻らないのです。
倚松庵(昭和初期竣工、 設計者不詳) |
武田:
大事な問題が出てきたと思います。 谷崎潤一郎の話を通じて、 美しいまちをどう復元するか。 生活優先という大きな復興の名目のもとに、 いろんなものが無残にも潰されている。 阪神間、 神戸がどういう形で美しく復活するのかという発信ができていない…要するに、 こういう美しいまちにするから、 ある意味では我慢しようというようなことがない。 必ずしも美学と生活優先が対峙しているのではなくて、 ビジョンがあればもう少し我慢しようという風になってくる。 ビジョンが欠けているから、 エゴとか、 とにかく早くという生活優先的なことが出てくる。 たとえば、 廃材を手で外せば、 お金は掛かっても、 ゴミにならなくて再使用できるわけですが、 そこまで意識がいっていないということが問題だったんじゃないだろうか。 そういうことが述べられたのではないかと思いました。
次に視点を変えまして、 山手とは違って、 神戸の下町の現風景ということで、 森栗先生にお話願いたいと思います。