先ほどは「美しい風景」の話でしたが、 これからは「美しくない風景」の話をしたいと思います。 美しくない風景には記憶がないと思っていたのですが、 美しくない風景の中にも人が住んでいて、 そこに記憶があることを私たちは震災で発見することができました。 その下町の風景というものはどのようにして作られたのか。 僕は「美しい風景」に対しては、 違和感を感じていました。 「何を言うとんや!」と思っていました。 しかし、 そういう美しい風景も…先ほどのような谷崎的なモダニズムみたいなものも、 それはそれでいい。 しかし、 下町の風景もいい。 モダニズムも下町も、 それらを共に語り合うような、 お互いのあり方を語り合う、 その中で、 まち全体のビジョンを議論する。 その場が、 いまだなかったということが、 実は大きな問題ではなかったか。
下町にも五分の記憶
近代都市・神戸の形成
それでは、 神戸はどのように成り立ってきたのかということをこれからお話させていただきます。 その中で、 下町の位置づけをお話したいと思います。 お手許の資料を見てください。 実は今朝突然神様が降りまして、 何と学者らしく、 うっかりこんなものを書いてしまいました(笑)。 ちょっとだけ、 その話をさせてください。 (笑)。
図:当日配布の森栗氏の説明資料 |
昔は都市とは言いません、 都会と言ったんですね。 都会というのは、 たまたま出会う花の都であったわけで、 居留地なんて花の都かもしれません。 そこに住む気は全くない。 じゃあ、 現実の住まいはどうかというと、 早く出てきて、 金を儲けて、 自立してゆったり住もうという人は岡本に住むんですね。 これが阪神モダンの生活なんです。 結局、 西神戸の人にとって、 東灘をこんなに身近に感じることは、 震災前はなかったですよ。 東灘って、 ひょっとしたら西宮市かと思ってましたからね。 (笑)
そういう私と感覚の異なる岡本が重要な私たち神戸の財産であるのと同時に共同生活の場…「仮の宿」なんだけれども、 下町で住んでいた人々の命とか記憶というものも大変重要ではないかと、 震災後、 考えています。
実はいままで「近代都市の記憶」と呼ばれてきたのは、 資料の点線部分です。 居留地の華やかさ、 都会の華やかさ、 モダンな生活。 ここだけを切り取って、 観光資源にしようとするから、 ろくでもないことになる。 そうではなくて、 私たちのまち全体は、 こういうモダンな花の都もあれば、 これからお話する下町の風景もある。 それらを共に神戸のまちの共有財産として、 お互いに語り合う…お互いの生活圏を想像するような力がないまま、 全体としてのビジョンを語り合う場がなかったということが、 たいへん悲しかったことではないかと思っています。
その人たちは、 帰る気はあったんですが、 帰れなくなってしまった。 で、 どうしたか。 まあいいか、 でもここで家を作らなあかん、 ということで皆さん、 一国一城の主的な「イチゴハウス」(島田雅彦『失われた帝国』)を目ざしまして、 その小さな「イチゴハウス」には、 レースがあって、 横に小犬がいて、 パンジーがあって、 ついでにあなたがいるという世界ですね(小坂明子「あなた」)(笑)。 こういう住宅を作ろうとしたんです。
この住宅は戦後で言いますと、 長田区では、 山陽電車よりちょっと上の、 大谷町…あのあたりですね。 ゴム工場、 ケミカルで儲けた社長が、 工場は別にあるんだけれども、 自分のうちは山手と。 よくある話ですね。 商売人もそうです。 このまちを復興せなあかん!と言っている市場の商店主に実は財産があって、 北須磨ニュータウンにちゃんと家がある。 人の住まん下町はダメです。
北須磨ニュータウンの街開きが一九七五年ぐらいでしょうか。 そのあたりに家を買えたら幸せかなと思っていたわけですが、 私はその頃はまだ長屋にいて買えなかった。 乗り遅れたらあかんと思って、 一九八五年に西神を買って、 それがために、 ここに出てくるのは大変なんです。 遠いんです。
そういうことで、 新興住宅地に一戸建を買った私たちは、 下町の記憶なんてものはなかったことにして、 なんとか御影ほど立派ではなくても、 それに近い線で、 プレハブでも建ったらエエとごまかして、 ニュータウンの一戸建で、 幸せに生きようと考えたわけです。 こうして、 下町はカラッポになった(森栗『幸福の都市はありますか』)。
記憶などどうでもええやないか派と、 反対運動派が対立していた。 後者は、 ある意味で栄光ある反対敗北主義。 三井商船ビルは大切やから潰したらあかん!…こういう運動というのは、 ここで発言しますと僕は震えてしまうんですけれども(笑)、 一応、 素晴らしいと思うんですが…。 日本のいろんな反対主義というのは、 三里塚闘争もそうですが、 どう考えても負けることを想定した上での闘いじゃなかったかと思うんですね。 本当に闘うという気はあまりなくて、 いや闘う気持ちはあったのかもしれませんけど、 栄光ある敗北…かっこいいじゃないかなんていうのが前提に見えているんですね。
そういう敗北がレクイエムとなり、 その人たちが敗北することによって、 逆にさっさとわけのわからんビルがガンガン建てられるという現象が起きてくるのではないでしょうか。 日本の左翼というのが信用できないのは、 そういうところがあるからです。 レクイエム主義といいますか、 優しい左翼の自己満足。 そういう側面を指摘されても仕方がないところがあるのではないかと思う、 市長選挙が終わった今日この頃です(笑)。 この件に関する反論は受け付けません(笑)。 運動する側にその自覚があるか否かということで、 論争事項ではない。 で、 まちの記憶をきちっと残せという運動が市民全体の運動にならず、 サイレントマジョリティーのまあええやんか派の中で孤立していたのではないか。
昨今の時代の閉塞感とか抑圧感の沈殿のなかで、 実は人々はこの閉塞感をごまかしてきた。 たとえばノストラダムスの話以後、 集団自閉主義という形で、 オウムへ逃げ込んでいった。 また、 生き方の閉塞感。 どんな生き方の将来展望があるのかと考えますと、 その閉塞感、 圧迫感は、 子供たちをものすごく追い込んでいる。 そういう追い込まれた状況の中では、 人間の中に秘められた暴力性というのは…必ず人間の中には暴力性がありますから、 結局どこかで火を吹く。 自分に火を吹くと自殺という形を取りますし、 他人に火を吹くといじめという形、 あるいは虐待という形になる。 いずれにしても、 一定の家を手に入れたことで、 その家の中で幸せに暮らせるはずであったのに、 実はあなたと私がこのレースの白い家に住んでから十年二十年経って気がついてみると、 プレハブの家は黒ずみ、 子供たちは抑圧的な状況の中で、 彼らの攻撃性というものを出さざるを得ない状況に来ている。 大人たちがどんな生き方がいいのかというのを提示することができないまま、 惰性のように暮らしているのではないか。
市場のゲート(長田区・丸五市場) |
物干し場のある横丁(長田区) |
そこには、 四国や九州、 奄美から出てきた人も、 さまざまな事情で朝鮮半島から出てきた人も、 隣同士になって共に生きていく住まい方があったのです。 戸がつながったような生活があったのです。 しかし、 そこで私たちは満足できたかというと、 満足できずに戸建てのほうへどんどん移っていって、 高齢者だけをそこに残していき、 そこがガラガラポンになってしまった。
そんな生活の中に、 大切な記憶があったことを、 震災を経て初めて、 私個人は発見できました。 たとえば町全体の子供たちの成長を願う地蔵盆の姿とか、 まちの中には工場がいっぱいあって、 工場の中のソースや木工の匂いとか、 木造の電信柱がずっと続いていて…そのずっと続いている向こうに夕日が落ちるような風景…これは私の個人的な思いです。 電車に乗っていくとそのハテに水族館があるとか。 市場の中に豆乳や惣菜があるとか。 そんなものをもう一回再現しようとは思わないですよ。 できるとも思わない。 ただ、 そうしたものにも記憶があり、 価値があり、 意味があるということを、 私たちは気がついていなかった。 その意味を感じたのは震災以後ではなかったかと思うわけです。
そして、 それらが接合するこの三宮で、 こんな風にお互いの記憶を想像力を深くして考える、 このことを通してまちのビジョンを考えてみようということは、 いまだかつてなかった。 神戸というまちがもし一つのまちである必然性があるならば、 このことを私たちはきちっと議論する必要があるのではないか。 今までは、 個別の近代建築一つを守る守らないという議論だけで事が終始し、 もしくは、 自分の家さえよければそれでいいという事だけで終始していたように思います。
それにしても、 人間が結びつくにしては、 百五十万の人口というのは多すぎる。 私たちの力が弱すぎ、 一方でまち全体のスケールが大きすぎて、 市役所だけが強かった。 しかし、 「勝った負けたと騒ぐじゃないぜ、 後の態度が大事だぜ」というのは、 二十世紀の偉大な哲学者、 水前寺清子の言葉であります(笑)。 やっぱりこれからどうやって私たちは、 お互いの地域に対する想像力…神戸は広すぎるとか言わずに、 もういっぺんこの雑多性というものを生かしたまちの可能性みたいなことを共に考えていけたらなあと思っています。