ひょっとしたら、 こういう豊かな長屋に居たから発想できたのか、 西神のレースの掛かっている白い家であなたと言える人がいたから発想できたのか(笑)。 なかなか厳しいことが指摘されていました。 では、 単なる建築物の保存運動や、 単なる自己満足的開発反対闘争をやっていました私が最後に(笑)。 反論は受け付けませんとさっきおっしゃっていましたから、 反論はしませんが。
もう一つは、 アメリカとソ連が、 水爆を持ったということ。 大陸間弾道弾という、 ボタンを押したら、 地球がいくつも潰れるぐらいの破壊力を持つ爆弾を持ってしまった。 万博の時代、 一九七〇年頃には、 もし二十一世紀が来るとしたら、 というような言い方をよくしていました。 というのは来ないかもしれないという気持ちが皆どこかにあったわけです。 誰かが間違ってボタンを押したら地球が壊れてしまうという危機感、 不安感はいっぱいあったわけです。 ですから、 一方で華やかに未来主義みたいなものができてきた。 東京オリンピックや大阪万博で騒いでいたのは、 むしろ、 その怖さを忘れることの裏返しではなかったか。 ということは、 多くの人たちが、 私もその中の一人だったと思うんですが、 刹那主義的になってしまう。 要するに過去も未来もどうでもいい。 いまの自分が快適で、 自分さえよければいいという利己主義、 刹那主義にもつながる感覚。 だから、 いくら古いものを残したって二十一世紀までには潰れるというやけっぱちな部分があったと思うんです。記憶、 未来へつなぐもの
何故、 人々は刹那主義に走ったか?
このシンポジウムのテーマも「都市の記憶」ということで、 次代に何を引き継ぐかということが大きな課題になっていますけれども、 先ほどのサイレントマジョリティーの気持ちも私にはよくわかります。 まず、 第二次世界大戦に日本は負けた。 その時に、 昭和戦前のいろんなものを全否定したんです。 制度から建物までも…近代洋風でも最後のほうは、 帝冠様式という洋風の上に瓦屋根が乗ったような建物が建っていくわけですが、 そういう様式自身がイメージとして軍国主義につながっていたので、 全否定していった。 まずそれが一つあります。
神戸商工会議所(昭和4年竣工、 設計:古宇田実+原科準平) |
一九八七年から数年後にソビエトが崩壊し、 ベルリンの壁がなくなったとき、 あ、 大きなボタン戦争はなくなったなとホッとした部分がどこかにあったと思うんです。 二十一世紀は間違いなく来るということも実感したと思います。 ところがいま、 一九九七年まできたんですけど、 その間に我々はあまりにも刹那的に物を作り、 消費してきた。 だから、 ハッと気がつくといまの物しかない。 過去を全部壊して、 いま、 快適なもの、 より便利なものを求めてきた。 いましかないということは、 過去もないし未来もない。 要するに時間というものがなくなってしまったんですね。
私は居留地のことをしゃべらんとあかんのですが、 非常に辛い立場で。 有井さんからも大阪の川口のほうが、 ずっと匂いがあって、 神戸は匂いがないと。 確かに海の匂いはないし、 いろんな意味で下町との関係も違ってきていますが、 なぜ震災直後、 居留地に皆さんが行ったのか。 壊れてしまって、 いま修復中の十五番館という、 明治時代に建った居留地の中の唯一の重要文化財、 あるいは大正時代のもので残った商船三井ビル。 海岸ビルは修復しているから、 あれが残っていると言えるかどうか歴史的な判断があるでしょうが。 それから、 多いのは昭和戦前の建物ですね。 LIVE・LAB・WESTや同和火災海上、 博物館、 神港ビル、 チャータードバンク等々が残っています。 それから私はもう歴史的になってきたと思うんですが、 戦後に建てられた銀行協会。 終戦直後の物のない頃に、 よくあれだけの新しい建物が建ったな、 という気がしているのですが、 その建物が残っている。 好き嫌いは別にして、 現代のそういう建物まで残ってきている。
ものは、 金をかければ、 完全ではないが復元はできるはずです。 ところがいま、 いくら金をかけても、 時間は作れない。 過去という時間。 時間によって蓄積されたものは、 いくらお金を投入してもできない。 やはり時間がそれを作っていくものなんですね。 そういうものがまちに残っていたから、 なおかつ壊されそうだったから、 反対運動をやったんです。 それが、 サイレントマジョリティーから、 だんだんと大きな声になって「都市の記憶」というこのシンポジウムになってきたんじゃないかと思います。
工業系住宅による再建の進む東灘区御影界隈((◎C)M-NET) |
私は兵庫高校や夢野台高校を見にいきましたが、 新しくなった。 私個人としては、 何の魅力も感じませんでした。 ラブホテルよりはいいけども、 こんな空間に本当に教育の環境があるんだろうかと。 何の緊張感もないし、 新しいだけなんです。 時間が経っても絶対よくならないと思いましたね。 それに対して、 古い校舎の一つが神戸高校です。 県立の高校では、 もう神戸高校ぐらいしか残っていないんじゃないかな。 もちろん神戸高校だって、 古くは生田川のそばから移転しているわけですが、 それでも昭和十年代です。 それなりの六十年を越える歴史を持っている建物は、 いろんな先輩後輩がそこをくぐっているわけで、 何ともいえない風格と風景になっていると思うんですね。
ちょっと視点を変えますが、 二十世紀の建築家というのは非常に残念なんですね。 二十世紀の現代建築をつくっている材料は、 鉄とコンクリートとガラスだと言われています。 要するに、 耐久性がないわけです。 何が言いたいかというと、 煉瓦とか石とか木造でも、 修復していけば何百年と残っていくものが、 コンクリートだと百年経てば影も形もなくなる。 あと百年か二百年後の人が二十世紀を振り返ると、 二十世紀の人は何も残していないと思うでしょうね。
現在我々は何だかんだと言って木造をつくっても、 基礎はコンクリートでつくる。 ビルをつくろうとしても、 木造だと三階ぐらいまでは建てられるけど、 それ以上高いものは建たない。 ひょっとしたら我々の二十世紀というのは、 何も遺産として残していけないんじゃないか。 記憶じゃなくて、 記録…文章とか写真でしか残せないのではないかと思うんです。
先ほど言ったように、 地球自身が滅んでしまう可能性があったときに、 いまさえよければいいという気持ちと、 鉄筋コンクリートが合っていたのかもしれません。 消費財として、 どうせ残らないんだから、 いまさえ頑丈で燃えなくて水に強ければいい。 しかし、 もう二十世紀といってもあと数年しか残っていませんが、 どうしたらいいかということを考えていかないと、 世界の歴史上、 二十世紀の遺産が一つも残らないことになりはしないかと心配しています。 ちょっと雑談気味で、 居留地の説明になったかどうかわかりませんが、 そう言われてみたら、 山の手文化も下町文化も説明になったかどうかわかりませんので、 同罪ということにして(笑)、 パート1を終わらせていただきます。