私の詩というのは、 「詩」ではなくて、 やっぱり「語り」なんです。 自分が生活している場所をそのままに…自分の目というのは一つしかありませんから、 やっぱり私の目を通して、 一つの現象、 社会の一角のできごと、 そして私の隣の一人の人のこと、 そういうことが伝えられていけば、 それは一人の想像ではあるけれども、 ずいぶんたくさんの人の中に共通する生活とか、 思いとか、 そういうものがあるんじゃないかなあという気持ちで詩を書いています。「お山手の下町」から
兵庫区北部の風景 |
今日なんであんな詩を読んだかなんですけど、 地震の後にはずいぶんいろんなものが壊れました。 具体的に一番壊れて大変だったのは、 家ですよね。 家というのは、 壊れてみて初めて、 どれほど大切なものだったかというのがよくわかったんです。 それは何かというと、 ただの器じゃなかった。 家というのは、 自分自身の生活、 人生、 そういうものを何十年も育んできた、 自分と共に歩んできた一つの友達…というか、 一緒に暮らしてきたものなんですよね。 それが一瞬のうちに崩れてしまった。 せっかく隣近所仲良くなっていたのに、 それがバラバラにされて、 仮設住宅に…非常に乱暴な言い方をしますと、 空のカンカンだけをポンと与えられたというか、 何か「人が暮らすんやで」とすごく叫びたかったような、 そういう惨めな器の中に皆それぞれ収容されてしまいました。
私が最初に詠んだ「四丁目のまさ」なんですけど、 これは友達の安否を知るのに長田の町を歩いた時に、 たまたま出会った人がモデルなんです。 この「四丁目のまさ」だけじゃなくて、 私たちというのは、 いつも自分の名前の上に町名を付けて「何町の誰です」という風に言います。 私は布団屋をしていますから、 お客さんから電話がかかりますと、 何々町の誰それという言い方をします。 いつも自分の町が自分の固有名詞といっしょにある。 そういうことがすごく自分をその町の人として馴染ませていっていると思うんです。
それが、 この地震で一挙に崩れてしまいました。 それでも、 自分はいつも何町の誰べぇやと言うんですね。 「四丁目のまさ」のおばさんもそうです。 長田の火災をご存じだと思うんですけど、 見渡す限り焼け野原ですよ。 一丁目も二丁目もありません。 あたり一面、 何町かわからないほどの焼け野原。 だけど、 やっぱりまささんは、 自分を「四丁目のまさ」と呼ぶんですね。 そこに自分が培ってきた人生、 自分自身の在りかがあるんです。 だから、 そういうまちを取り戻していきたい。 これから、 もし、 私たちが新しい町へ帰るとしても、 それは自分の思いを伝えていける、 重ねていける町であってほしいという思いで、 今日ここへ来ました。
「都市の記憶」というとすごく大きなテーマです。 「町」から「街」へ発展して、 それから大きな都市というイメージで、 都市というと私にはちょっと無機質なイメージなんですけど、 その都市がいまから先、 人間を容れてくれるそういうゆとりのある都市でないと、 私たちはいまから生きてゆけない。 この地震で崩れたまちをこの都市がどんな風に記憶していくのかな、 そしてその記憶というのは、 その都市の中に暮らす人間一人一人の記憶…。 このテーマに私もすごく興味があって、 皆さんのお話も伺いたいと思います。
押田:
マーシャル・マクルーハンの言葉に「すぐれた芸術家とは、 文明の変化の中に起きる新しい感覚の配置を先取りする人」というのがあります。 庶民が気付かないところをしっかり捉える芸術家の目、 詩人の目でもって、 震災直後の平野町をみつめた…そこで本当に生活をしておられる姿がひしひしと伝わるようなご発言であったと思います。