都市の記憶
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震災雑感

改行マークでは、 次に小泉さんは神戸の古いまち、 あるいは震災後のいろいろな写真を見ながらお話いただきます。 会場の後ろにも、 よき神戸のパネルが掛かっております。

小泉

改行マーク後ろのパネルの写真を撮影をされた米田定蔵さんは、 うちの創刊号からずっと撮影をしてくださっています。 『神戸っ子』は今年三十七年、 四百五十号を出したところです。 その米田さんが、 震災直後三十分から神戸を走り回って撮った写真の中から、 昔の写真、 震災に遭った写真、 再生した写真、 いろいろ二十五枚ほどありますので、 ご覧いただきたいと思います。

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写真1 震災前の北野町(撮影:米田フォト)
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写真2 震災直後の神戸栄光教会(大正12年竣工、 設計:難波停吉、 撮影:米田フォト)
改行マーク写真1は美しかった時の神戸ですが、 震災後の同じ場所ですね。 うろこの館です。

改行マーク写真2の懐かしいレンガ造りの栄光教会も見事に崩れてしまいました。 私も旧居留地の八階建ての江戸町ビルの六階におりました。 その二階、 三階が潰れて六階が四階になってしまって、 十二時間後に助け出されました。 自分の家が倒れた時は、 あまり何ともなかったし、 解体される時もそんなに涙も出ない状況だったんですが、 いざ、 こういう風景…見慣れた、 記憶にある文化的ないい建物がなくなった時の心の中の虚しさというのはすごいなと思います。

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写真3 震災で倒壊した旧居留地十五番館(明治14年竣工、 設計者不詳、 撮影:米田フォト)
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写真4 復元された旧居留地十五番館(撮影:米田フォト)
改行マーク栄光教会とか写真3の旧居留地の十五番館とか、 古い建物がなくなったというのは、 残念なことです。 私たちは「神戸港を考える会」というのをやっていまして、 「港まち神戸を愛する会」の方たちとも保存運動をやっていたんですけど、 地図にいっぱい入っていた建物がなくなってしまいました。 それでもいまも活動していて、 だいぶ再生してきましたので、 またポートウォッチングを始めています。

改行マーク写真4が新しくなった建物です。 いままでの風情はありませんけど、 やはり保存をしていればここまで立ち直るということで、 これがとても大事なことじゃないかと思います。 やはりこういう心の部分を支えているものがいかに大きいかということですね。

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写真5 激震で崩れた岸壁(撮影:米田フォト)
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写真6 復旧された岸壁(いずれも新港突堤、 (撮影:米田フォト)
改行マーク写真5、 6のように震災では絶対に潰れないといわれていたものが潰れました。 これが都市の恐いところだなあと思います。 港も壊滅状態だったんですけど、 いまはこんなにきれいになりました。 でも船がおりません。 これが一番致命的ですね。 船はまだまだ帰っていませんので、 神戸市さんは、 もっと岸壁料を安くしてあげなきゃいけないんじゃないかと思っています。

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写真7 激震で崩れたプロムナード(撮影:米田フォト)
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写真8 復旧されたプロムナード(いずれも六甲アイランド、 撮影:米田フォト)
改行マーク写真7、 8が六甲アイランドの震災前と震災の時ですね。 震災前は、 大変良くなってきていた時で、 ここで彫刻展や現代アート展をなさっていたんです。 震災後もまたやっていらっしゃいますけど、 新しいまちも、 一度災害に遭うと、 なかなか再生しにくいということですね。 まだこの先に第二六甲アイランドができるそうです。

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写真9 解体中のそごう神戸店(撮影:米田フォト)
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写真10 再建された大丸神戸店(撮影:米田フォト)
改行マーク写真9がそごうです。 この解体作業を辛抱して、 アスベストを吸ってがまんしないと神戸っ子じゃない、 このつらいところを通り抜けないと神戸に住んでいる人間じゃないんだという気がしました。 大丸の解体の時や、 阪急会館のドームが解体される時も涙が出ました。

改行マーク写真10が大丸です。 こうして再生されたことが、 いかに喜びであったかということですね。 居留地に関しては、 大丸さんが大きな力になっていると思います。 大丸が昔のイメージで再生されたことによって、 ほかのビルにも影響を与えた。 だから、 まち並みがとてもよくなってきています。 やはり誰かがお手本を示さないと、 なかなかだめなんじゃないかと思います。 誰かが残さなんとあかんよと言い出す、 きっかけを作っていくということが大事なんじゃないでしょうか。 昔の風情を残しながら新しく再生していくということが、 やはり神戸の個性を大事にしていくことのように思います。

改行マーク私は居留地にいたんですが、 いまは北野町におります。 北野町へ引っ越して、 住んでみて初めて、 北野町の良さといういのがわかったんですね。 自然があって、 山から海へ坂道を下っていく。 その中で、 風とか光とか海を臨みながら、 編集室のあるトアロードに向かいます。 その行きがけに北野のお不動さんへ寄りまして、 それから一宮神社へ寄りまして、 生田さんへ寄りまして、 毎朝、 復興祈願をして、 編集室へ行っているんです。

改行マーク四百年前の慶畿大地震の時、 福音法印さんが、 北野のお不動さんから大峰山まで三十一回、 復興祈願をなさっているんですね。 当時、 大峰山まで行って帰ってくるというのは大変だったそうです。 それを三十一回されて、 向こうで入定されたということは、 ミイラになられたと思うんですが、 それぐらいの思いを込めてなさったという碑がそこにあります。 それに私も触発されて、 何とかお参りをしようと思って、 もう三年十ヵ月になります。

改行マークそれで一番よかったのは、 そこのワンコちゃんと、 小鳥のチーちゃんと、 一宮のいっちゃんという犬と仲良くなったことです。 近所回りの犬と仲良くなって、 これが北野町のいいところやなあと大発見したわけです。 一宮さんでは、 そこの界隈の人が集まってきて、 春祭りがあり、 夏祭りがあり、 秋祭りがあって、 そういう中に寄せていただけたんですね。 それから、 またお不動さんは、 お不動さんのお参りの方と仲良くなれる。 そういうお参り仲間、 お祭り仲間の中に地域が生きているということを初めて実感いたしました。

改行マーク居留地にいる時は、 八階建のマンションの六階で、 隣が編集室。 本当に都会的な生活をしていたんですけど、 隣に誰が住んでいるのかということもわからなかったんですね。 震災の時には、 新聞配達のお兄ちゃんが全部の戸を叩いて起こしてくれました。 私はそれを聞きそびれたもんですから、 逃げ遅れたんですけど、 他の人は、 入口を金属バットで叩いてもらって、 小さな窓から逃げ出すことができたんです。 それでお年寄りもみんな神戸市役所のロビーへ逃れることができました。

改行マークうちのマンションは三階までがビジネス事務所、 四階から八階までが住まいだったんですけど、 いろんな世代の方が住んでいました。 市役所のロビーから仮設に移る時には、 お年寄りから行くとか、 体の悪い人から行くとかいうことだったんですけど、 やはりそうじゃなくて、 その地域の人たちで固まって移らないと、 また一からのコミュニティーになってしまう。 今度、 新しい住まいがHAT神戸とかいろんなところにできていますけど、 重要なのはその入居状況ですね…いろんな世代の人が一緒に住むということが、 とても大事じゃないかなと思いました。

押田

改行マーク素晴らしい写真を見せていただきました。 生活密着型のいいお話だったと思います。 引き続き、 慈さんからお話を伺います。

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