順番からいくと、 私も何かしゃべらないかんのかもしれません。 なんで、 京都の大学の教員が出て来とんやと言われるかもしれませんが、 私は神戸生まれ、 神戸育ちです。 神戸の三大災害と言われる水害、 戦災、 地震、 みな同じ場所で体験しました。 水害の時は、 幼稚園から家まで、 あの濁流の中を帰ったことを覚えています。 幼稚園の先生がだっこして渡ってくれればいいのに、 それをやると先生が水に足を取られたら、 先生も子供も死んでしまう、 というので無理やり手を引いて歩かせたらしいです。 先生はひざのところまでしか水がないのですが、 子供の私は首のところまで水でしたので、 波がダーッと来るのを鮮明に覚えています。 本人は全然意識はないのですが、 その後三日程、 めしを食わんと寝とったそうですので、 やはり怖かったんだなあと思います。
戦災の時は、 明日来るか、 今日来るかと思っていたので、 ついに来たかというぐらいでした。 地震の場合は、 皆さんご存じの通り、 神戸だけがなんでやねんということだったです。 神戸のその三大災害を体験し、 そういう経験をどう生かすことができるのか。 よくわかりません…と言いながらも考えてはいるつもりです。
冒頭にちょっといままでの復習みたいなことを申しましたけれど、 こういう勉強を重ねてくる中で、 印象に残るお話がいくつかあります。 まず最初に小松左京さんのお話で、 神戸は日本人だけが作ったまちではなく、 外国人もみな一緒になって作ったまちである。 だから、 このまちは空襲をしないでくださいと、 外国人の方が、 ルーズベルト宛てに書簡を送ったというお話がありました。 これは、 神戸のまちが、 外国人の方々と一緒に作られてきたということの具体的な表れであり、 そういう嘆願書を送ったというのは、 素晴らしいお話だと思いました。
有村桂子さんのお話では、 北野地区の洋館を修理するとき、 神戸市内には職人がいなかったので、 イギリスの職人さんが来て、 修復をしてくれたということでした。 この震災復興でもまた、 外国の人たちの力を借りているんだなあと認識しました。
もう一つ印象に残っているのは、 映画監督の大森一樹さんの、 神戸は映画発祥の地だといわれながら、 神戸に映画の空間的歴史がほとんどないというお話です。 ちょうど淀長(淀川長治)さんが亡くなられまして、 いま、 神戸と映画と淀長さんとが、 皆さんの頭の中でぐるぐる回っているんだろうと思います。 淀長さんが亡くなられて、 これを機会にというのは不謹慎な言い方ですが、 やはり神戸が映画の発祥の地と言うからには、 やっぱり何かがほしいなと思いました。
もう一つ大森さんの話で印象的だったのは、 震災後、 消防自動車が入れるように道幅を広げる都市計画をやっているけれども、 細い道に入れる消防自動車を作るほうが先やないかといわれました。 映画監督さんは芸術家ですから、 全く逆の発想をされます。 お役所の方は、 消防自動車の入れる道を作ると言い、 大森さんは入れないなら入れる自動車を作れと言い、 発想の転換と言うんですか、 おもしろいお話を伺いました。
私の中の「都市の記憶」
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