街なみ環境整備事業をしようという話しは、 震災後2、 3ヶ月で出てきました。 まちを整備するためのお金が、 国または自治体から出ることがあるということを地元でお話しし、 そのためにはどうしたらよいかを検討してきました。 野田北部では色々なことが決まってきましたが、 その背景にはいつも「どういったお金が出るか」「その可能性があるか」がありました。
まず最初に問題になったのは、 たとえば私道の中心線を決めることです。 これは普通はむずかしいことなのですが、 私が話しましたのは、 所有をしているところと使用をしているところをはっきりと分けようということです。 実は、 建築基準法は道と敷地の関係だけを扱っているわけです。 所有(登記)は法務局が管轄していますが、 これとは何の関係もありません。 そういった建築基準法の考え方を地元の方に分かりやすくお話ししてきました。
そういうなかで事業に乗せるために重要だったのが地区計画でした。 その頃(95年4月)は行政とも連絡が密になっており、 街なみ誘導型の地区計画を国が考えているという情報を震災直後の95年4月26日に聞きました。 当時は県も運用基準すら正確には分かっていませんでした。 5月26日になってその内容もだいたい出来てきたのですが、 実はその運用のシミュレーションを野田北部で行い、 こういう形態規制ができるのではないかといったことを、 すでに国と話しておりました。
東京のほうでは人口減少対策として千代田区の方でそういったシミュレーションをしていました。 ですから都市型が東京で、 町型は野田北部でというようなことだったようです。
そういうなかで国から補助を受けてやろうということになったのは、 野田北部がもともとコミュニティとしてしっかりしたところだったからです。 当時はコミュニティという言葉は意識していませんでしたが、 ここはマンションの管理組合など、 財産を保全する団体もしっかりしており、 助け合いの心が生きているエリアだと私は言ってきました。 本来コミュニティは財産を基盤にして成り立つものです。 「相互扶助」はそこから生まれるものだと思っているのですが、 清らかな話しとしては「相互扶助」が前に出るほうが良い、 とりわけ事業の中では名実ともにお金の話しは後ろに引いて考えていったほうが良いと思ってやってきました。
一つは人と人の交流がさかんであったことです。
野田北部には12カ丁ありますが、 その内2カ丁に区画整理という行政の事業がかかってきました。 実はこの2カ丁をどうするかを残りの10ヵ丁の役員が考えたのです。 当の2カ丁が自分たちで考えたのではありません。 この2カ丁の当事者は、 まず自分たちの家がどこにいくかという、 いかにも民主主義的な、 個人中心の問題に主眼を置いて考えてくれればよい。 「道、 公園については野田北部の協議会に任せよう」「考えるな」というようなことでした。
最初にモデル換地案を作り、 皆さんと面談をして合意ができたので、 行政に提案しました。 普通まちづくり提案は、 道や公園を先に提案するということを後で知ったのですが、 当時は私も素人でしたので、 まず個人の家をどう再建するかが重要だと思ったのです。 そこで道や公園ではなく、 それぞれの換地を具体的に希望した提案だったのです。
それでは行政としては都合が悪いということで、 松本地区の図面や、 六甲道西地区琵琶町の区画整理などを見て、 道路や公園を私が勝手に作り、 それをあわせて行政に提案しました。 当然、 道や公園についての協議もやりました。
もう一つは地区計画とのセットができたことです。
というのも区画整理については早期に合意が出来たのですが、 同時に残りの自分たちの10ヵ丁をどうするかということが問題になりました。 区画整理される2カ丁に対して自分たちの10カ丁をどう合わすかということです。 そこで、 今日のテーマである建築・街なみ環境整備事業がクローズアップされ、 道などの公共の部分に補助金が投入されるという仕組みをもう一度確認し、 事業に向けて進み始めました。
野田北部の10カ丁で、 なかなか自分たちの家が元の通りに建たない、 従前の居住床面積が確保出来ないという大問題がありました。 これを少しでも解決するために街並み誘導型の地区計画を導入して建ぺい率を緩和するために先にルールを決めたのです。
手続的には地区計画をやった後で街なみ環境整備事業があるという形ですが、 実際にはこの地区計画と、 公共部分を直していくための街並み環境整備事業の二つがセットで考えられたことが大切だったと思います。
それと、 先ほど言いましたが、 コミュニティや人と人との交流をいかに大事にするか、 ということです。 これはほとんど真野地区をテキストとしてやってきました。 「何とかづくり」というのは宮西さんや延藤さんが言っておられます。 ルールづくり、 物づくりという言い方もありますが、 野田北部では「人づくり」をやってまいりました。
また、 地区内の交流にとどまらず、 外部とも交流を図っております。 行政、 住民、 それと専門家の方、 さらに野田北部で仕事されていない方とも交流を図り、 いろいろと教えていただきました。
「目に見える展開」としては、 道の整備が出来てきたこと、 いちばん大事なのは、 住宅再建が大分進んできたことです。 共同化から始まり、 個々の再建までですが、 これも福島県三春町の大工さんを呼ぶなど応援する仕組みを作ることから始めて、 家もだいぶ出来てきました。1 野田北部地区
―建築、 街なみ環境整備事業森崎建築設計事務所 森崎輝行
私は建築家ですので、 個人の方のための仕事をやっておりましたが、 震災によって突然まちの人と接触を持つようになりました。 鮮烈なデビューを飾ってしまい、 今や新開地のストリップ、 新長田の安物の店など7地区ほど徘徊しずらい地区が出来てしまいました。 今までまちづくりのためということで時間を割いて参りましたが、 今後は建築家に戻り、 コンサルタントの方と共同でお仕事をさせていただいて、 設計をやらせていただきたいと思っております。
震災直後を振り返ると
今日は建築、 街なみ環境整備事業について話せとのことでしたが、 むしろその背景をしゃべらせていただこうと思います。
建築、 街なみ環境整備に取り組めた背景
さて、 建築、 街なみ環境整備に取り組めた背景には二つ大切なことがあります。
力を入れたのは人と人との交流
この5年間、 いつも「目に見える展開をしよう」「分かり易いことをしよう」ということを旗印にやってまいりました。
野田北部地区・細街路整備状況(2000年1月8日現在) |
例えば、 区役所の地域版を業務として委託してほしいと長田区役所にお願いしております。 その業務をすると、 住民の動向が分かります。 住民票や介護保険などを通して、 お年寄りがどうなっているかなど、 まちが把握できるんです。 いわゆる財産など権利関係には触れずに、 実態的な業務のほうをしたいと思っております。 実際、 野田北部で10地区ぐらいを掌握しますと、 かなりいいまちづくりが出来るし、 区役所も委託作業によって人が減らせるんじゃないかと思います。
NPOもいろいろありますが、 法人を守るだけに終るんだったらやらない方が良いとつねづね私は言っております。 それに対して区役所の委託を受けますと、 これは安定どころか止められない重要な仕事です。 まちづくり協議会の存在が不可欠ということがまちづくりのなかで明確になっておりますので、 その発展・継続のためにも、 まちづくり協議会で将来こういうことを是非やりたいと思っております。