阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
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5 旧居留地地区
―地区計画、 企業まちづくり

地域問題研究所 山本俊貞

三宮地域について

 旧居留地を含む三宮一帯約70haは、 神戸市が建築制限地区に指定したうち、 ただ一つ都市計画事業が実施されていない地区です。 地区計画で都心の復興を図るという手法がとられました。 そのうち旧居留地は約20haです。

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三宮地域 震災後に撤去された建物を示した地図(色塗り部分が撤去建物) 99年10月の再建状況
 

 三宮に震災前に建っていた559棟の建物のうち166棟が撤去、 旧居留地では106棟のうち22棟が撤去されました。 99年10月の調査によると三宮地区全体では再建済みと工事中を合わせると6割、 旧居留地では約8割が再建されています。 敷地面積が小さい建物は比較的早くに再建されたのですが、 旧居留地では敷地面積が広い建物が多く、 1年や2年では再建できなかったこともあって遅れていましたが、 徐々に建ち上がっています。 小さい建物については建つものは建ったし、 建たなかったものは今でもダメといった二極化が見られます。 大きい敷地は再建されていないものでも何らかの形で利用されているようです。


旧居留地の歴史

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居留地の設計プラン
 ご存知のように旧居留地は、 近代神戸発祥の地です。 1868年に兵庫が開港し、 外国人の居留地としてイギリス人ジョン・ウィリアム・ハートが設計した街です。 周辺の道が激変しているのにもかかわらず、 地区内の道路は歩道の幅員が少し変わった程度で、 今も当時の姿をとどめています。

 居留地は126区画に分けられ、 永代借地権が西欧人に競売されます。 明治32年に日本に返還され、 返還時に今の町名が正式に決められたのですが、 126区画の地番はそのまま残り、 建物は今も地番で呼ばれています。 例えば15番館はただ一つ居留地時代の建物が残されたものですが、 これは「居留地15番」という意味です。

 130年経っても、 当時の都市計画が基盤になっている街で、 道路拡幅という話題が出てこない数少ない地区です。 基盤が整備されているから、 震災復興の事業がなかったとも言えるでしょう。


地元組織「旧居留地連絡協議会」
について

 震災後に三宮地区では70haの区域に地区計画が導入されたのですが、 旧居留地では以前から街並み整備を独自に行っていました。 これは「旧居留地連絡協議会」という地元の組織によるところが大きいのです。

 この組織は第二次大戦中にビルのオーナーたちが集まって自警団を作ったのがもとになったそうで、 戦後も「国際地区共助会」という親睦団体として引き継がれ、 昭和58年にこの地区が神戸市都市景観条例に基づく景観形成地域に指定されたのをきっかけに、 まちづくりにも力を入れるようになりました。

 また、 旧居留地の南の海岸通りにバラックがたくさんあり、 飲食店やいかがわしい商売をしていたところがあったのですが、 そうした地域をなんとかしようという福祉活動にも取り組んでいたそうです。

 昭和50年代の中頃までは月に1回集まって、 カレーライスでも食べながら親睦を図っていたのですが、 景観形成地域に指定された頃から「この街をどうしようか」ということがメンバーたちの話題になりました。 景観形成地域に指定されたものの、 そのころは既に三宮が繁華街の中心で旧居留地はずいぶんさびれていたのです。 薄汚れたビルが建ち並ぶという印象であったとよく聞きます。 「何とかしなければ」という気持ちもあり、 まちづくりに取り組んだ経緯があります。


まちづくりの取り組み
−継承すべき景観要素

 震災の5年前ぐらいからビルオーナーの間で容積率をアップしたいという要求がありましたので、 指定容積率をアップするのにあわせて地区計画で街並みを形づくろうという動きになりました。 震災直前の平成6年11月には地元のまちづくり計画を作っています。 地区計画の条文まで考えようとした矢先に地震が来てしまったのです。 しかし震災後2、 3カ月でかなり内容のある地区計画が決定できたのも、 それ以前の蓄積があったからでしょう。 他の4地区は地区計画で壁面後退を決める程度であまり細かいことまで決められませんでしたが、 旧居留地ではかなり細かく踏み込んだ内容となっています。

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開放型まちなみの事例(デファンス地区)と囲まれ型まちなみの事例(パリ旧市街地)
 まちづくりでは「継承すべき景観要素とは何か」が話され、 次の四つの要素に整理されました。

(1)街区形態

 昔からの道路形態と区画割を残す。

(2)道路空間における囲まれ感

 まちづくりに取り組み始めた昭和50年代、 都心のイメージはパリ・デファンス地区のような広場に超高層ビルがぽつぽつと建つ街並みが全国的に求められていた時期です。 しかし、 旧居留地はそんなイメージの街ではありません。 東部新都心計画の話もありましたので広場型の都心はそちらにまかせることにして、 旧居留地はあえて違うタイプの街並みを選びました。 パリ・旧市街のイメージです。 旧居留地はいわゆる異人館が建ち並ぶ街から大正・昭和にかけて近代建築の街に変わってきており、 旧居留地のまちづくりは近代建築によって形づくられていた当時の雰囲気を引き継ぐことを目指しました。

(3)ゆるやかに統一されたスカイライン

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ゆるやかに統一されたスカイライン
 今は総合設計制度のインセンティブもあり、 多くの都心がデファンス型の広場を中心としたものになりがちです。 しかし、 居留地のまちづくりでは、 ビルの壁面線やスカイラインをゆるやかに総合設計制度ではビルのセットバックは大きければ大きいほどよいということになるのですが、 セットバックは1mと決まりました。 従って、 容積率のアップと道路斜線制限の緩和は別に手当てをするとして、 旧居留地では総合設計制度の適用は以後認められません。

(4)風格のある建築・意匠デザイン

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風格のある建築・意匠デザイン
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まちかどを特徴づける広場を確保
 昭和50年代に街がさびれてしまったことへの反省から、 あくまで業務地がメインであっても商業施設を入れないと街が活性化しないだろうと話し合いました。 そして、 壁面線を揃えた上で広場も欲しいという話も出て、 ポルティコ、 中庭、 アトリウムなどを建物の中に取り入れるという合意がなされました。

 また、 ビルの壁面線を揃えることを基本にすると言いましたが、 あまりにびしっとそろえてしまうと息詰まる街並みになってしまうので、 街の東西南北と真ん中に広場を取ることにしました。

 さらに南京町から東遊園地につながる仲町通りは壁面線を揃えるのではなく、 ビルの前に様々な形態の開放型広場を設け、 それをつなげていくことで賑わいを演出する活性化軸に位置づけています。


地区計画

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地区計画(都心づくりの基準)
 以上の要素を盛り込んで地区計画が決められたのですが、 あわせて指定容積率は以前よりアップされています。 ただし、 地区計画を守ったらアップしてもよいということで、 守らなかったら従前のままです。

 道路斜線の緩和については、 地区計画の検討をしているときにちょうど街並み誘導型の制度ができましたので早速導入しました。

 建物高さは、 道路の広さによって31mと20mに揃えようということになりました。 しかし、 700%、 800%の容積率が使えますから、 とてもその高さでは納まりません。 そこで超高層は少しセットバックして建ててもらい、 道路側からの見掛けのスカイラインを揃えたわけです。 これは、 かなりうまくいったと思います。

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旧居留地建替ビルにおける「有効空地」確保の前後比較
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スカイライン。 震災前と後の建物を比較
 なお震災後にビルを再建した建物は壁面線を揃えた上で広場を取るために、 その解決策としてすべてポルティコの手法がとられています。

 スカイラインについて具体例を紹介しますと、 明石町は震災前もほぼ揃っていたのですが、 震災後に高層化したビルも高層部をセットバックさせることによって中層部のスカイラインは担保されています。 仲町通りでは近代建築の横のビルの建て替えの時、 高層部分をセットバックさせることで表側の通りは近代建築の高さに揃いました。 京町筋は広い道路に面していますから31mの高さに決められています。 震災前には空地だったところにビルが建ち、 31mに揃いつつあります。

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第一生命ビル
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常盤ビル
 震災から5年がたち、 三宮も含めて被災したビルの再建はほぼ終息したように思います。 しかし旧居留地の産業復興については深刻です。 商業施設はかなり入っているのですが、 事務所需要が増えません。 街並みとしては甦ったのですが、 今後どうなるのかという不安があります。 震災前から景観のために看板は出さない、 自販機は出さないと取り決めてあったにもかかわらず、 テナントから出したいという希望が出ています。 以前ならそんなテナントは追い出せという話になっていたのですが、 今はそんなテナントでもいいから残って欲しいという状況です。


質問

小林

 容積率の話で、 「地区計画を守らなかったらマイナス」という話がありましたが、 地区計画は守るべきものじゃないんですか。

山本

 守っていないビルは、 最低敷地規模の規定に抵触しているビルがほとんどです。 旧居留地のビルは標準1千m²なのですが、 それ以下の画地もあるので最低敷地は900m²になりました。 中には分筆して900m²以下になったビルもあるのです。 最低規模に満たない敷地でも、 新たに分割しない限り建物は建てられるのですが、 地区計画の要件にあわないとたとえ広場を確保してもボーナスはでません。 だから、 ポルティコがない新しいビルは大体が900m²未満です。 しかし、 どのビルも建築基準法は守っています。

会場から

 旧居留地は他の地区と違って、 住民の協議会ではなくて企業が主体の協議会ですが、 他の地区と違う特色はございますか。

山本

 私はコミュニティが万能だとは考えてはいませんが、 旧居留地に関しては戦争中から続いている企業のお付き合いがあったことが、 まちづくりの大きな力になったと思います。 しかも、 協議会のメンバーはそれぞれが企業のリーダーであり、 かつ地元の人間です。 こういう企業コミュニティは旧居留地にしかないと言われています。 多分、 東京の企業コミュニティではこうはいかないと思います。

 ちょうど手頃な田舎町の中心市街地だったというか、 本社がまちの中にあって、 トップがそこにおり、 まちづくりのためにトップが出てくる。 そういうことが、 まちづくりを進めていく大きな要因になったと思います。

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