阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
前に
目次へ
次へ
4 御蔵地区
―共同化、 市民まちづくり
まち・コミュニケーション 小野幸一郎
まち・コミュニケーションの小野と申します。 私は建築や都市計画の専門家ではありません。
今日は御蔵の5年間を報告しつつ、 私自身の5年も振り返ってみたいと思います。
御蔵地区について
|
御蔵地区位置図
|
御蔵通5・6丁目は真野地区から少し北にある地域で、 神戸高速鉄道の駅から真野地区に行く途中になりますので多くの専門家もここを通って行かれたと思います。 四つのブロックが四角に並んだような地域で、 区域面積は4.5haです。
震災前のデータを見ると735人、 314世帯が住んでいました。 69%の人が借家人で、 約2割が地主、 借地人は約1割でした。 震災によって、 この地域はほとんどが全焼し、 残ったのは地区西南のわずかなブロックだけでした。 その後、 5・6丁目が区画整理事業地域に指定されることになりました。
|
御蔵地区の事業年表
|
私は震災直後に「デイリーニーズ」という地域に密着した生活復興ニュースを作りに来たことがきっかけで御蔵地区に関わりました。 それから地域のまちづくりにも関わっていくことになったわけです。
共同化住宅の紹介に入る前に、 まず震災後の経過を説明します。
3月17日に都市計画決定があり、 まちづくり協議会は6月に結成されました。 コンサルタントとして地域に入った専門家はアーバンプランニング研究所の方々です。 私もいったん東京に戻るなど空白の時期がありましたが、 この頃からまちづくり協議会に参加しております。
借家人が7割にのぼる地域ですから、 都市計画決定後は非常に混乱しました。 7割の家が焼失していますので協議会でも住まいに関する質問が多いにも拘わらず、 都市づくりのプランニングが並行して行われるわけですから矛盾もかなりありました。 その頃の協議会はいつも悪い雰囲気でした。
そこで打開策を探るために、 協議会では95年12月に近畿大学の小島先生に「区画整理の絵ではなく、 住宅再建の案を作って欲しい」と依頼しています。 それが共同化住宅につながる最初のきっかけになりました。
私たち「まち・コミュニケーション」はまちづくり新聞を手伝っていくことになりました。 その後、 小島先生による共同化案が出来上がり、 96年4月にその発表がありました。 この時、 私たちも共同化のPRに協力し、 その頃から共同化に対する関わりも深くなっていきました。
その後、 他の事業対象地域に比べると遅くなりましたが、 96年7月に区画整理事業住民案を可決し、 9月に神戸市に提出しています。
御蔵地区のまちづくりの特徴として、 私たちボランティアグループが関わっていることのほか、 まちづくり協議会と一緒にお祭りなどのイベントが盛んに行われたことがあげられます。 このイベントがまちづくりを進めていくためのエネルギーになったと思います。 地域で行った主なイベントを紹介すると、 1月に慰霊祭、 8月に夏祭り(これは毎年の恒例行事になりました)、 12月の餅つきなどです。 住民がいなくなって協議会の人と私たちが「出来る範囲でやっていこう」と行ってきたのですが、 その繰り返しでまちづくりが進んできたような気がします。
共同化住宅の実現
共同化についてはいったんは小休止状態だったのですが、 97年1~3月にかけてヒアリングを行いました。 このヒアリングが共同化の核になりました。 資料としては『きんもくせい』に連載したものがありますので、 細かいプロセスはそちらを見てください。
共同化住宅が決まって準備会が発足し、 翌年98年1月に再建組合ができました。 さらに99年1月に着工するのですが、 各プロセスごとに危機がありました。
まず準備会が出来てから土地を探すとき、 地主さんを巻き込んで保留床を作る計画を考えていたのですが、 借地人対地主の騒動に巻き込まれてしまいました。 その時は、 まちづくり支援機構の協力で解決することが出来ました。 その後、 建設予定地を現在の場所に変えました。
また、 再建組合ができ事業化の話になったとき、 保留床の販売が厳しい状況でした。 最後の頼みの綱の住・都公団に相談したのですが、 98年2月には公団でも買い取れないことがはっきりしました。 そこで「保留床はなしでいこう」ということになりました。
なぜそれが可能だったかというと、 建設予定地を変更したときに、 お世話になっている地元企業の兵庫商会さんの土地を巻き込んでやることになったのですが、 800m²のうち3分の2を分筆して切り離すことを了承してもらい規模を縮小できたこと、 2軒だけですが知人・友人のつてで自由設計の魅力から共同化住宅を購入するという形で参加してくださる方を確保できたこと、 そして田中さんの尽力で一度離脱していた参加者を一人引き戻すことが出来たからです。
|
共同化住宅「みくら5」
|
その後の危機は、 着工後に起こりました。 この建設は通常より安い金額で工務店に受けてもらい、 設計は武田設計にお願いしました。 住まいの一つ一つの設計をずいぶん丁寧にやっていただいたのですが、 そのせいでコストが合わなくなったのです。 それでも工事は着々と進行したのですが、 工務店・設計事務所・再建組合の間でミスマッチが起きてしまいました。 どこが悪いと言うより、 共同住宅の難しさが出たという感じです。 私は全体の調整役のような立場で関わっていたのですが、 やはり権利者にはっきりと「ここまでしかできない」と言うべきだったと思います。 それぞれの立場の意見調整は課題として残ったと思います。
それでも様々な問題をクリアし、 共同化住宅は2000年1月に「みくら5(ファイブ)」として竣工いたしました。
御蔵地区の今後に向けて
|
「みくら5」1階平面図
|
|
みくら5の1階「プラザ5」
|
「みくら5」には全部で12軒の権利者が入居しています(そのうち2軒は先述の分譲を買うという形での入居です)。 1階は兵庫商会さんの持ち分ですが、 そのスペースを借りてこの地域を活性化する仕掛けを住人のみなさんと一緒にやれないかと考えています。 名称はもう決まっていて「プラザ5(ファイブ)」と言います。 「みくら5」の下だから「プラザ5」です。
また御蔵地区には「我が町の会」が発足しました。 この会は、 これから日常暮らしていく町の中で、 これまでまち協が行っていたお祭りなどの地域イベントを主催していこうということで作られました。 町のソフトな仕掛けを担っていく会で、 女性を中心にした会です。 プラザ5は我々ボランティアだけでなく、 こうした市民の会が中心となる場にしていきたいと思っています。 年輩の人や子供たちが集まってくる場、 あるいは何か困ったときの駆け込み寺的な存在になればと思っています。
|
2000年1月19日現在の御蔵通5・6丁目区画整理状況図
|
借家人が多い地域ですから、 御蔵地区の区画整理では、 67戸と28戸の2棟、 計95戸の受け皿住宅を作っています。 ですからこの地域だけを見ると、 公営住宅の占める割合が高くなっています。 320世帯のうち約100世帯が公営住宅です。 御蔵地区だけでなく菅原地区の人も入居しています。 今は残念ながらこの受け皿住宅には、 それぞれ26戸と9戸しか入居していません。 仮換地の進捗率は60%ほどですから、 まだ130軒しか御蔵に戻ってきていないという状況です。
まちづくり協議会はこれから公園の議論に入ろうというところです。 しかし、 公園予定地の半分はあえてペンディングにしておいて進めようということになっています。 なぜかというと、 「人がまだ住んでいないのになぜ公園の話をするのか」と住民の反発が昨年から大きくなっているからです。 だからといって、 何も手を着けないわけにもいかず、 これからぼちぼちやっていこうというところです。 協議会としても住宅再建の呼びかけをしてはいるのですが、 それに反応しない住民が多く、 地域に人が戻ってこれるよう知恵を絞らねばと思っています。
|
まち・コミュニケーション組織図案
|
私たちのボランティアグループ「まち・コミュニケーション」は、 もっとこういうボランティアに参加してくださる市民が増えて欲しいと願い、 本部をプラザ5に移します。 そこで情報発信やまちづくりの担い手づくりを目指し活動を開始しようと思っています。 まずは本部の4月発足に向けて準備中です。 私自身は3月いっぱいで神戸を離れてしまうのですが、 神戸での経験をいかにこれからの人生に生かしていけるか、 実践できるかを考えています。 御蔵の経験をいろんな人に伝え、 共有していきたいと思っています。
質 問
会場より:
『きんもくせい』に、 共同住宅の所有権と借地権について書かれていますが、 持ち分について現場ではルールがあったのでしょうか。 具体的にうかがうと何対何で分けたのでしょうか。
それと小野さんご自身のことについてうかがいたいのですが、 最初被災地に入った時すぐ信用されましたか。 たしか、 行政職員の応援部隊は兵庫県でも神戸市でもすぐには現場に入れなかったと聞いています。 ですから、 現場でギャップを感じなかったかどうかをうかがいたいと思います。
小野:
まず権利持ち分ですが、 5分5分でいっています。 2軒あったんですが、 私たちと兵庫商会のオーナーである田中さんが、 両方の地権者と借地人のお話をうかがいながらやりました。 いろんな形があるのでしょうが、 全体としては5分5分です。 ただ1軒は借地人の一人が買い取りました。 もう1軒は5分5分で分けられました。
二つ目のご質問の「現場でのギャップ」についてですが、 私は肩書きをしょって現場に行ったわけではございませんから、 町を歩くと「小野ちゃん」と割合気軽に声をかけられました。 そんなことが地元にとけ込む要素になったと思います。 極めてフランクなつきあいは常に心がけていましたし、 実際、 共同作業をやっていくにはそれがプラスになったと思っています。
前に
目次へ
次へ
このページへのご意見は阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワークへ
(C) by 阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
阪神大震災復興市民まちづくりへ
学芸出版社ホームページへ