阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
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1 魚崎地区
―共同化、 白地まちづくり

遊空間工房 野崎隆一

 前回の97年シンポジウムで発表したときは、 まだ工事中や着工予定と報告した共同化住宅が今では完成しております。 あれから3年経ちました。 今日は主に、 魚崎・住吉エリアについて報告いたしますが、 まずは共同化住宅について説明します。


共同化それぞれの事情

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魚崎地区
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現況(2000年)
 98年に作った共同化プロジェクトマップをみると、 11件中、 竣工は3件、 工事進行中が3件、 事業中断が5件です。

 事業中断というのは、 共同化の相談を受けて事業化しようとしたのですが、 残念ながら中断してしまった所です。 中断した理由は様々ですが、 魚崎西町のものは初期の合意形成の段階であせって失敗したところです。 魚崎北町で中断した3箇所の場合は、 借地権の問題が出て、 地主との話し合いがうまくいかずに流れた物件です。

(1)フェニーチェ魚崎

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フェニーチェ魚崎を南東から見た外観
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エントランスホールの入口
 旧阪神魚崎市場だったところの共同化です。 阪神魚崎市場は昭和10年頃に設立された市場で、 2人の地主の土地に借地して市場を作ったという形態です。 震災時には設立から60年以上の年月が経っていた古い建物で、 全壊しました。 共同化で再建することになったのですが、 ここの最大の課題は借地権をどう解消するかということでした。

 2人の地主のうち、 一人は借地権割合を5割にすることで決着しました。 半々にするのは何となく分かりやすいものです。 「土地は半分返しますから、 残りの半分は所有権にして下さい」ということになりました。 もう一人の地主は、 地元の酒造会社「桜正宗」でしたが、 ご存じの通り震災時の酒造会社はどこも経営が苦しく、 「まとめて買ってくれるのだったらそうして欲しい」と言われ、 最終的に底地を買い取りました。 買い取るときはもう一人の地主から5割で土地を交換したときの査定を元にしています。 ですからここは、 震災を機に所有権になり、 共同化したマンションは資産にもなりました。

 共同化を応援してくれた税理士さんは「これは奇跡だ。 みなさん大儲けしたんですよ」と言ってくれたのですが、 肝心の市場のみなさんは借地権から所有権へ移ることの難しさがよく分かっていないみたいでした。 とはいえ自分の住まいが出来、 それが所有権で持てたことを素直に喜んでいただきました。

(2)オーベルジュ甲南

 これは甲南市場の一部を共同化で再建したところです。 残りは、 私たちが最初にかかわったものの結局事業を中断してしまったところです。 もともとは市場全体を一つの建物にしようという計画だったのですが、 市場の役員間に確執があり、 大きな権利を持っていた3人が抜けてしまって、 東西に分かれて計画せざるを得なくなった例です。

 東西に分かれたのは、 97年の正月に劇的なことがあったからです。 それまでずっと合意形成を図り、 その3人の権利者を除いてほとんど全員の合意を得、 本格的な同意書を集めようかというところまで漕ぎ着けていたんです。 しかし、 実はこの頃からマンションの売れ行きが急激に悪くなり、 共同化に参加していたディベロッパーが「この計画のままではやれません。 みなさん、 土地の評価を少なくとも20%は下げて下さい」と正月明けの1月12日の総会で突如言い出しました。 それが、 3人の権利者が出ていく直接の要因となって、 計画は分裂してしまったのです。

 その後、 東側の敷地については権利者を集められるだけ集めて、 そこだけを共同化しました。 容積率が300%ですから保留床がかなり出ることになりますので、 公団へ相談に行ったところ、 公団は「権利者は全員入れてくれ。 グループ分譲ならその計画にのれる」という見解でした。 しかし、 地権者が4人しかいないところに26戸の建物ができるわけで、 そのうち10戸は地権者が賃貸で契約すると言っているものの、 残り十数戸の入居者をこれから探すのは不可能に近い状況でした。 「何とかなりませんか」と公団に頼んだのですが、 ちょうどその頃は、 亀井大臣が「公団の一般分譲はやめる」と発言した頃と重なっていて、 今年度中に着工できるのであれば何とかするということで、 11月ぐらいから駆け込みで条件設定をして着工いたしました。

 結局ここは、 26戸のうち権利者持ち分が3戸、 公団の民賃制度を使った賃貸が10戸、 残り13戸は公団で一般分譲していただきました。 三つの制度を組み合わせてできた共同化住宅です。

(3)カサベラ西岡本

 ここは元が行き止まり私道型で建売業者が分譲した6戸の住宅が建っていたところです。 全戸全壊してしまったため共同化しました。 6戸の住宅のうち4戸は接道道路幅が1.9mしかなく、 再建できずに困っていたところです。 しかし、 表側道路に面している方がとても協力的で、 みんなで建て替えましょうと言ってくださいました。

 その上、 表側道路に面していた土地と奥の土地の査定が、 常識では考えられないくらい少ない差で合意形成ができました。 スタートしたのは遅かったのですが、 住民の合意形成が最初から出来ていた珍しいケースで、 計画から半年後には着工に至った例です。 「カサベラ」という名称は、 共同化に参加した民間ディベロッパーが付けた名前で、 結局6戸の権利者の土地に9戸の住宅を建てて、 3戸を分譲しました。

(4)ネオウイング

 ここは魚崎小学校に設けた「関西建築家ボランティア」の相談所に来られた方からの話で、 6戸の住宅を共同化したものです。 早くから合意形成が出来ていたのですが、 当初は優良建築物等整備事業のの条件が厳しく進められませんでした。

 初期には、 いろんな条件設定をクリアしないと共同化出来ないと言われていたのです。 例えば、 前面道路は6mに接していないとダメという条件がありました。 ですから、 条件が緩和されるまで着工を延期しました。 逆に言えばネオウイングについて折衝する中で、 具体的な条件緩和措置をとっていただけたので、 これを前例とすることで以降の他の共同化が楽になりました。

(5)グリーンハイツ住吉

 マンション再建の事例です。 マンション再建としては優良建築物等整備事業(優建)の補助対象では完成第1号となりました。 ここは住民の意向で、 ディベロッパーを入れない自力再建方式をとりました。 私もよく分からないまま「自力再建」の語感の良さにひかれて手伝ったものの、 大変な作業となりました。

 補助金を受けるためには法人でないとダメという条件を始めいろいろな条件があったのですが、 当時の住環境整備課が柔軟に対応してくれて「共同再建組合が事業主でいい」ということで、 自力再建が可能になりました。

(6)アビタ本山

 昔、 県公社が「兵庫県住宅協会」という名前だったときに借地権付き分譲マンションとして売られた物件で、 12戸の共同住宅の再建です。

 ここは最初、 マンション評論家がコンサルタントとして入っていたのですが、 交渉の過程で土地所有者との関係が悪化してしまったらしいのです。 それで土地所有者が再建会議に出てこなくなって、 1年間事業が止まってしまいました。

 そこで、 そのコンサルタントに替わって私が入ることになったのです。 土地所有者は神戸でも中堅どころの会社の社長さんで、 挨拶に行ってみると「わしは何も再建に反対しとるんやない。 みんな大変な思いをしてるんやから」と態度がやわらぎ、 その後は比較的スムーズに話が進みました。

 ただやっかいだったのは、 借地権付きマンションなので、 居住者の権利持ち分の登記が全くされていないことです。 30数年前のマンションですから、 建物の持ち分がよく分からないんです。 県公社からもらった図面も不鮮明で寸法が正確に入っていない。 地代の支払い割合はバルコニーまで入っていました。 そんな状態では、 借地権の割合が決められなくなります。 仕方ないので、 この辺の問題は手持ちのデータから想定して私の方で全部決めてしまいました。 これも震災復興だからこそ出来た事だろうと思っています。 そんなわけで、 借地権付きマンションは、 他の共同化と比べて特殊な事例だったと思います。

(7)コンコルディア芦屋

 もう1件芦屋市で共同化を竣工しています。 芦屋市中央区大桝町の区画整理で移動することになったマンションの例です。 震災をくぐり抜けて残った建物でしたが、 移動することになって、 公団と補償交渉をしながら事業化を進めました。 国道2号線に面した南側にある小さな5階建てのマンションです。 関西建築家ボランティア代表幹事の木村博昭が設計しました。 ですから、 設計にはこだわったマンションです。 やっと先日(2000年3月)竣工しました。


地域と交流する共同化住宅

 97年のシンポジウムの時にはまだ形には至ってなかったものが、 それぞれ実現し、 竣工することができました。 こうした共同化の仕事をここ3年間ずっとやってきたのですが、 そうした動きを支えるべき地元魚崎のまちづくり協議会が結成には至りませんでした。

 共同化は大変な労力がかかるのですが、 結局地権者の幸せにしかつながらず、 地域全体に関係するようなものができないことが少しむなしいような気がします。 特に魚崎地区はずっと関わりを持ってきましたので、 地区の財産となるようなものを残せないかと考えていました。 そして出来たのが「魚崎北町コレクティブハウス」です。

 ここは民間のコレクティブハウスです。 完成してから「ココライフ魚崎」という名前をつけました。

 1階は手水公園の地域型仮設住宅におられた方々にグループハウスという形態で入ってもらいました。 2階から上は定期借地権付きの分譲マンションになっています。 4階には元の地権者が入っています。 事業化の話から丸3年かかってやっと出来上がりました。 また、 1階には60m²の交流室を作り、 居住者だけでなく地域の高齢者も集れるようにしています。

 起工式には地域の財産区の議員さんや老人会の会長さんを呼びました。 おかげで先日の雛祭りの集まりには地域の老人会の方々も参加してくださり、 約60人ほどでにぎわいました。 地域との交流を進めながら、 この建物を生かしたいと考えています。 最後にこの建物を作ったおかげで、 私も何とか地域とつながるものが残せたと思っています。

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「ココライフ魚崎」のサポートシステム
 図は「ココライフ魚崎」の運営イメージです。 コレクティブの住人や近隣の老人会みんなで交流スペースを使っていこうというイメージです。 サポートシステムとしては、 福祉法人(図の左側)を想定していたのですがうまく乗ってくれなかったので、 現在はNPO法人「手水の会」を立ち上げ、 そこが実際の運営をしていくことになりました。

 手水の会は、 99年12月1日にNPO法人認証を受けました。 手水の会は、 地域型仮設でケアをしていた生活相談員やボランティア、 看護婦の方々で構成されていて、 せっかく培った経験を生かそうと作られた組織です。 一つの地域型仮設を支えるのに数十人のボランティアを必要としたのですが、 もう一回集まってもらったわけです。

 コミュニティサポートセンター(CS)神戸の中村順子さんに理事に入ってもらい、 私も理事として名前を連ねています。 その他、 中村順子さんのところのCS神戸からもサポートしていただこうと考えています。 また高齢者が中心となる共同住宅ですから、 近所の宮地病院とも提携しています。


魚崎・住吉のまちづくり

 先ほど魚崎エリアではまちづくり協議会が立ち上がらないと申しましたが、 当初まちづくり協議会を作るのに一番反対していたのは地区の連合自治会です。 しかし、 そこの会長さんが亡くなり、 今では財産区の議員さん達がまちづくりをしたいと言い出しましたので、 そろそろ発足しようかというところです。

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魚崎エリアのまちづくりマップ
 一方、 我々がカバーしていなかった住吉浜手に突然まちづくり協議会ができました。 私が関わってきた地域にはできず、 カバーしていなかった所に出来るのは皮肉な話なのですが、 神戸市からの依頼があり、 今はコンサルタントとしてそこに入っています。

 住吉浜手のまちづくり協議会は、 住吉浜にできた工場の産業廃棄物による公害への反対運動がきっかけで生まれました。 活動メンバーは60代が中心で年配の方が多いのですが、 まちづくりのアイデアをどんどん出してくれます。 普通は専門アドバイザーがアイデアを出すことが多いのですが、 ここでは住民が先にアイデアを出してくれるので、 私はそれにつき合うという状態です。 上から言うより、 地域から声が出て、 やっているうちに住環境問題にあたればいいという気持ちです。

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町のバリアをみんなで調査(住吉浜手、 新聞記事より) 街並みウォッツチングの後、 仮設住宅のふれあいルームで調査をまとめる まちづくりサマーフェスティバルの様子
 

 町のバリアをみんなで調査しようという活動もしていました。 まだ仮設があった頃の話です。 その時は街並みウォッチングの後、 仮設住宅のふれあいルームで調査のまとめをしました。

 また、 まちづくりサマーフェスティバルというイベントも行いました。 助成金をもらっているわけではないので、 活動資金を集めようとして開いたフェスティバルです。 地域の世帯数600戸のうち、 400人が参加してくれました。


行政に望むこと
―幅広いまちづくりに対応できる部局設立を

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マンション建設をめぐる新聞記事
 魚崎・甲南地区でまちづくり協議会の立ち上げが遅れている間に、 どんどんマンションが建っていきました。 元は2階建ての住宅が多かった地域にマンションが建ち並ぶことで街並みが一変し、 トラブルが多発しています。 これも、 早くまちづくり協議会をつくろうというきっかけになりました。

 我々が昨年、 全域の調査をしたところ、 この4年間で震災前にあったマンション数をすでに超える数のマンションが建ちました。 いかに大量の建て替えが行われたか、 お分かりになると思います。

 最後に提言したいことは、 平仮名で書く「まちづくり」の大切さです。 「街づくり」とするとどうしても街路や公園に目が向くのですが、 共同化を通じて思ったのは、 福祉や教育関係のNPOと連携していくことがこれからのまちづくりに求められているし、 大きな課題になるだろうということです。 そうしたものを含むことこそが「まちづくり」だと思うのです。

 今の行政ではまちづくりは「都市計画局」の中に入っていますが、 今後は地域の幅広いまちづくりに対応できる行政部局を作っていただきたいと思います。 特に区役所のまちづくり推進課をもっと強化していただき、 行政の先端で大きな権限を持って地域の問題に対処するようにしてほしいと考えています。 私はまちづくりの最小単位は千戸ぐらいだと考えていますが、 その単位だと区役所が動くのが一番適切です。 こんな感想で私の報告を締めくくらせていただきます。


質問

会場から

 今後の課題と提案について、 もう少し具体的に教えて下さい。

野崎

 今はNPOや地元団体、 グループの結びつきが希薄です。 震災後の5年間で、 このへんの結びつきの弱さがネックになっていると感じました。 これからは、 NPO、 専門家、 地元組織の連携をコーディネートしていくことを一つの目的にしていきたいと思っています。 まちづくりと名前が付く活動や事業はたくさんあります。 しかし、 地域の視点で重層的に見ていく場を作っていく必要があると考えています。

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