新在家南地区は、 六甲の東部副都心の一番南側に当たる部分で、 臨海沿いにある国道43号線は、 この地域を分断する障害道路になっています。 その南側で現在巨大な公的住宅開発がされており、 受け皿住宅を含め650戸が完成しています。
新在家南地区まちづくり協議会の会館 |
まちづくり協定の看板 |
立ち上がりに当たっては、 まずルールを作って復興の仕組みを整えておこうと考え、 まちづくり協定をつくりました。 というのも、 この地域は準工業地域ですので、 放置しておくと必ず国道沿いにラブホテルとパチンコ屋が林立するのではないか。 またこのような僻地にマンションを建てるとすれば恐らくワンルームマンションの建設が予想されますが、 ワンルームばかりが増えますと、 ゴミの出し方など「まちの住み方」という点で問題がありますので、 管理人やそれに代わるようなファミリーを少しは入れて欲しい、 というルールを作っています。
ただしこれは地区計画ではないので確実に守られるわけではなく、 自分たちで守っていくしかありません。 地区計画の場合ですと、 一度決まればあとは行政に任せっきりになりがちですが、 ここでは協定委員会が毎月一度集まって、 開発申請の案件を建築確認が出る前に検討していき、 柔軟な形でまちづくりを考えています。
またこの地域は酒蔵の町、 灘五郷の一つ西郷(にしごう)の地域ですので、 やはりそれらしく復興していきたいということもありました。 住宅再建にあたっては、 組立て住宅のように安く早く、 カタログを開いて指差せば相談せずにできるものが好まれる傾向がありますが、 やはり酒蔵の町にあった復興をしていきたいということです。
その点をまちづくり協定に盛込んだのが、 景観形成に配慮したまちづくりを目指す「建築意匠配慮道路」の項目です。
この試みは、 酒蔵資料館周りのブロック塀にモルタルを塗り丸瓦をのせた単純なものから始まり、 それに見習って某建て売り会社の住宅も丸瓦をのせてくださいましたし、 某酒造会社や住宅にも塀をつくって貰えました。 酒造会社もお金がありませんので本格的なものではありませんし、 せっかく倉庫のデザインを町並みに合わせてくれたのに、 倉庫の足元にはタンクが積上げられ緑の金網が張り巡らされている例もありますが、 一歩一歩進んでいくだろうと思います。
澤の鶴酒造の資料館に面する、 水道施設
丸瓦をのせた住宅の塀
某酒造会社の塀
住宅の塀
奥に650戸の市営住宅(新在家地区)が建つ「酒蔵の道」 |
「やってもらいすぎ」の和風デザイン |
「酒蔵の道」沿いの市営住宅では神戸市のアーバンデザイン室に指導を願い、 自転車置場や変電所をそれらしく和風にデザインしてもらいました。 こんな和風だらけになるといやらしさが出るところですが、 道の真ん中にある煉瓦塀が新在家のまち並みに多様性を加えています。
なおこの取り組みに対しては、 神戸市から街なみ環境整備事業として年間200万円という「膨大」な事業費を付けていただいております。
実際にはここで共同再建が5件、 特優賃、 民借賃が4件ほどできております。
デザインにも工夫しましたが、 結果的に細い道に9階建の建物を建ててしまった例もあります。 ほとんどが年金生活者である権利者が優先的に入居できるよう、 ディベロッパーと交渉しました。 あくまでも住民に軸足を置いた開発を貫いた結果、 都市景観にはマイナスになってしまった例です。
また2mの道を4.3mに拡幅するだけでも大変でしたし、 共同化のために道路を変更した例でも周囲の同意を得るのに1年半かかりました。
そんななかで路地の石畳のデザインを楽しみ、 権利者の中で残っていた赤提灯の居酒屋に集合住宅に入ってもらうなどこだわって仕事を進めています。 私はこういうお店が町にどうして欲しいと思っています。
黒の縦格子
酒造メーカー富久娘の倉庫
月桂冠の倉庫と特優賃のマンション
「酒蔵の道」沿いの運送会社
積み重ねのまちづくり
また、 同じ東部の魚崎地区では野崎さんが共同再建を進めていました。 共同再建をどれくらいできるかを競争していたわけではありませんが、 本当のところ、 競争していたわけです。 そういう意味でも、 震災後の2月1日には既に集会所で共同再建あるいは特優賃の説明を行っていました。 当時はアジサイシステムなどと呼んでいましたが、 このように早い時期から、 民借賃、 特優賃などの情報を住民の方に知っておいてもらったことは、 復興事業を進めていくうえで良かったと思います。
共同化住宅の図面
こだわりの共同住宅
9階建の圧迫感
共同建替計画に伴う道の移動を示す図
道路の変更
4mの路地の石畳デザイン
赤提灯
街角広場(まちづくりスポット創生事業) |
街角広場で開かれた青空市場 |
たとえば、 地主さんから土地を借り、 市の助成金で鎮魂の為に瓦礫のまま残された街角広場をつくりました。 青空市場を開き、 国道で分断された地域の活性化も計ろうと考え、 駐車場にならないよう、 樽のプランターを置いたり、 木製のトレリスを設置しています。 春に向けて緑化フェアを計画中です。
青空市場は99年9月にオープンしました。 地域の八百屋さんの協力を得て3ヶ月間続けましたが、 経営困難から中断し、 現在見直し中です。
広場の活用案は失敗を繰り返しながら進めていくしかありません。
このように自分達でできる小さな事の積み重ねでまちを作るのが、 白地地域の復興の本筋だと思っています。 私の思いとしては、 六甲で有光さんがされている大きな再開発事業とは違うということをはっきりさせておきたいし、 また東部新都心のでかいだけの開発も「あの街、 そのうちゴーストタウンになるんちゃうやろか」と気にしているわけです。
その二つに挟まれながら、 新在家南地区では住民、 企業、 行政が協力して混沌としたまちを少しでも整序していく方向で取り組んでいます。