阪神大震災復興市民まちづくり支援ネットワーク
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1 都市計画は自信を持て

北海道大学 越澤明

野崎

 最初に越澤先生から、 全国的視野からの「市民まちづくり」について少しレクチュアをお願いします。


都市計画とまちづくり

越澤

 まず「都市計画」と「まちづくり」についてお話したいと思います。

 1週間くらい前に兵庫県庁の都市計画課のセミナーに招かれました。 そのときコー・プランの小林さんは「まちづくり」を「地区の環境改善を持続的に行う住民主体の活動である」と、 明快に定義されました。

 一方「都市計画」は何かと言いますと「整備によって都市または地域全体の社会資本、 都市環境を改善する」と同時に「土地や建物の使い方についてのルールづくりを法律によって行う」ことが本質だと思います。

 そうすると、 小林さんの定義による「まちづくり」と重なりあう部分もありますが、 重ならない部分もあるわけです。 そしてその重ならない部分を行政、 専門家、 地域住民の誰がきっちり考えるのかが、 現在、 あいまいになっています。 もちろん共同で考えて行かなければならないのですが、 誰も責任をもって考えようとしなくなっています。

 それで良いのかという観点から、 過去の復興の都市計画を見ていこうと思います。


過去の復興事例

関東大震災と神戸の水害

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写真1 1930年の関東大震災当時の復興が完成したときの図面
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写真2 関東大震災当時の区画整理の状況
 関東大震災では当時の下町、 つまり地盤が弱い所が全て燃えてしまいましたが、 燃えた地域全域を区画整理しています。 この時から既成市街地の都市整備(まちづくり)の手法として、 区画整理が確立されました。

 ただ、 これには布石があったのです。

 早稲田の大火と新宿2丁目にあった遊郭の大火の時に、 建築線のセットバックで復興をやっています。 しかし、 それだけではどうしてもうまくいかない、 土地の交換分合などがいるということで区画整理が導入されました。

 区画整理は耕地整理をベースとした日本独特の手法です。 住民を追い出さず、 公共用地については皆で出し合おう、 位置も交換しようという考え方です。

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写真3 河川沿いの防災公園(隅田公園)
写真4 現在のアサヒビールのところ(隅田川) 写真5 関東大震災時の区画整理地域の外側に拡がった木造密集市街地 写真6 京島地区に大量に残る接道不良の住宅
 

 現在の東京の都心部はこの震災復興の時からあまり変わっていません。

 関東大震災と戦災復興の際に公園を増やそうとしましたが、 全域では実現しませんでした。 長田と同様の地区が東京にも広範に広がっています。 接道不良で建築基準法違反(既存不適格)の家が密集して建っています。

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写真7a 京島地区(整備前)
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写真7b 京島地区(整備された箇所)
 そういった地区では、 阪神大震災の教訓から防災まちづくりが行われています。 京島地区はその代表的な例です。 隅切りなど微々たる努力ですし、 百年河清を待つという遅々たる歩みですが、 ようやく取り組まれるようになりました。

 関東大震災の教訓の他に、 阪神大水害の教訓が今回の震災復興計画に大きな影響を与えています。

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写真8 夙川公園(西宮市)
 写真8の夙川では、 甲子園と同じく河道改修のあと河川敷を民間に売却しようという動きがあったのですが、 松林を保存するための苦肉の策として、 売却をやめ河川堤防を車道のない都市計画道路としました。 道路にすると受益者負担金が取れるというとんでもない発想です。 これを西宮の金持ちが負担し全面的に公園化しました。 その結果、 現在ではブランドと言って良い場所になっています。

 また改修の翌年に阪神大水害がありましたが、 夙川だけが切れませんでした。 つまり夙川公園を作ったことによって大きなリターン、 受益があったのです。

 法律には使い方がある。 とんでもないことをやれば、 とんでもないことができるという例証です。

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写真9 新生田川公園(神戸市)
 戦災復興で阪神地域の河川敷はほとんど緑地帯になりました。 例えば新神戸の新生田川沿いの場合、 都市計画公園ですが現在は道路になっています。 だから駄目というのではなく河川沿い緑地は多目的用地と思えば良いのです。

 阪神大震災の後、 緑地帯をもっと広げようという議論があったようですが、 実現していません。 最近では都市計画決定がタブーになっています。

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写真10 妙法寺川緑道、 東側(JR工場)は緑道が無い 写真11 妙法寺川の帯状緑地(震災後1年) 写真12 妙法寺川の隣接地(帯状緑地の延長部、 震災当時)、 緑地化は実現せず
 

 妙法寺川の河川沿いも戦災復興で緑地となっていますが、 須磨区役所もあり、 防災拠点として非常に役だちました。

 帯状緑道が整備されていますが途中が繋がっておらず、 今回の復興計画にも入っていませんでしたが、 地域の区画整理の関係でJR工場用地を買うことになり、 ようやく緑道が繋がりました。

 一方、 妙法寺川の隣接地(帯状緑地の延長部)は区画整理が行われておらず、 焼失しました。 こういう場所こそ緑地帯を決定すべきだと思うのですが、 今回の震災復興の都市計画には入っておりません。

戦後の都市計画の成果

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写真13 戦災を受けなかった段原地区(広島) 写真14 戦災復興の帯状公園(広島) 写真15 昭和30年初期、 開通前の定禅寺通り(仙台) 写真16 定禅寺通り(現在)
 

 広島では密集市街地の整備に20年くらいかけて取り組んでいます。 区画整理と、 付近に土地を取得し公営住宅に移転してもらってやりきった例です。

 また仙台の定禅寺通は日本の代表的な並木道です。

 写真15、 16をみると将来の姿を予測しながら議論するという専門的な役割の必要性が読み取れます。 こういう道が要るか要らないかは別として、 全て住民に考えさせるというのは無責任です。 餅は餅屋ということがあるだろうと思うのです。

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写真17 一部区間のみ完成した都市計画道路(文京区環状3号線)の桜
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写真18 姫路城の堀(安土桃山時代に作られた運河)、 運河公園は近年完成
 東京の場合は戦災復興もきちんとやっていません。 文京区の環状3号線も切れていますが、 文京区は繋げようとは言いません。 分権になるとこのようなインフラは一切出来なくなると思います。

 姫路城の堀(江戸初期に作られた運河)も戦災復興決定の緑地でしたが、 長期未整備だったものが最近になってできたものです。 区画整理もしています。 地区計画も出来ており将来良い街並みになりそうです。 江戸初期の遺産に戦災復興で計画が加わり、 都市計画決定を維持し続けて今やっと再整備されたのです。 それをどう使うかは姫路市民の知恵です。

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写真19 長崎の中島川(めがね橋) 写真20 鳥取城の外堀である旧袋川(江戸時代)と復興の桜並木 写真21 近年の無意味なお化粧直し(鳥取市)
 

 長崎の眼鏡橋でも戦災復興は出来ていませんでしたが、 長崎大水害の後また取り組んでいます。 河川事業で資金が出来、 結構きれいに変わり、 観光名所になっています。 また鳥取大火と二度の震災に遭った鳥取城の外堀も復興計画で桜並木の緑地をつくりました。 近年、 妙なお化粧直しをしています。 こんなことをやるより周辺のまちづくりをやったほうが余程良いと思いますが、 河川は金が余っているのか、 こういうことをやっています。

今回の震災復興の隠れた成果

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写真22 津門中央公園の耐震貯水槽 写真23 津門中央公園の全景 写真24 西宮森具地区と共同再建住宅
 

 今回できた市街地の防災公園は津門だけですが、 西宮は戦災復興で決定された市街地の公園(4ヵ所)が全て未整備だったこともあり、 今回早い時期に出来ています。 新しいことをやっているのではなく、 戦災復興でできなかったことを今回やっているわけです。

 同じく西宮の森具地区も早い時期に区画整理が終わっています。 この地域は戦災にあわなかったため、 接道不良で多くの建物が建てられないという単純な理由で区画整理が進められたので、 住民の理解を得やすかったところです。

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写真25 伊丹市の西野地区地区計画図 写真26 伊丹市の旧農村集落の復興 写真27 密集事業による道路整備・セットバックの状況(兵庫県伊丹市) 写真28 生まれ変わった姿(兵庫県伊丹市)
 

 伊丹市の農村である西野地区は明快な方法で早期に復興した事例です。

 近郊農村にある旧集落で道路幅が2、 3mだったのですが、 区画整理ではなく単に家をセットバックして道を広げただけです。 家の敷地が広いから簡単に出来たうえ、 用地買収には住宅局の補助金(密集事業)が下りています。 こういった事例はうまく行きすぎて注目されていないとすら感じられます。

公園

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写真29 大高緑地(1940年に決定された大規模公園、 名古屋) 写真30 大阪府の大緑地のひとつ、 広域防災拠点である久宝寺緑地(大阪府八尾市) 写真31 久宝寺緑地公園の入口
 

 これは名古屋の大規模公園です。 昔の都市計画決定が、 こういった公園を現在に残したということです。

 またこれは最近の大阪府の事例です。 防災を考えるとこういう場所では公園自体が避難路を兼ねなければなりません。 従来の造園の考え方だと防火のために密林にしようとしますが、 写真31のような場所が燃える訳がありません。 むしろ入口を広くとることが必要なのです。

 そこで入口に看板をつけ道を広くとったら好評でした。 さらに高いフェンスも取り除いています。 簡単な事ですが国庫補助の対象にならないため自費でやったところ、 現在注目されています。


復興まちづくりの課題

 区画整理の本質の一つとして、 土地の交換分合があります。 例えば森具地区の共同再建住宅(マンション)では、 この特質を上手に生かしています。

 さて神戸の場合、 市街地の9割は五十年前の戦災復興区画整理の際に減歩を行っています。 ただ当時から狭小宅地については減歩率の緩和措置がとられていました。 ですから、 この震災の教訓を新たに考えるとすれば、 減価補償金の5千万円控除を7千500万円にするといったことが効果的だったと思いますが、 そういった議論が我々専門家の中でさえ起こらなかったことが残念です。 また、 そういった経験や問題点が、 あまり知られてないという事も問題です。

 社会科の教科書でも都市計画や建築は教えていません。 ですから突然「都市計画」とか言われても「とんでもない」となるのが当然の人間心理だと思います。 だからこそ都会での住み方とかルール、 このまちをどう維持していったら良いかという事について、 普段から意識をどう向上させるかが問われていると思います。

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