ありがとうございました。
都市計画の専門家としての役割と責任、 「市民まちづくり」も必要だけれど、 市民まかせは無責任だというご指摘だったと思います。
続いて神戸での5年間で出来たこと、 出来なかったことを述べてもらいます。
「市民まちづくり」から「市民」をとったら出来なかったことがいっぱいあったと思います。
今回「市民まちづくり」に取り組み、 「市民まちづくり」が「街」でも「町」でもない、 ひらがなの「まちづくり」であること、 またその意味内容がかなり分かったと思っています。 それができたことの一つです。
今までの街(町)づくりは建物や道路などのハード中心でしたが、 「市民まちづくり」は、 自分たちが居心地の良いまちにするために、 まちに手を加えるソフトが中心です。
また震災前のまち協では役員だけ一生懸命でしたが、 今ではいろんな人が気軽に参加できる本来の「まちづくり」になっています。 道端に花を植えたり自分たちで管理したりといったことに、 住んでいる方々が主体的に関われる、 そんな「まちづくり」が見えてきたと思います。
もう一つは、 ネットワークが広がった事です。 いろんな形でネットワークを伸ばす事が、 伸ばす人にとっても快適だし、 効用が沢山あるという事が体得できました。 今までだったら建築は建築、 都市計画は都市計画といった具合だったのが、 生活に必要ないろいろなものがミックスされたネットワークの必要性とその効果がわかったと思います。
それからもう一つ、 ソフト、 つまり仏に魂を入れるときのいろんな知恵が、 いろんな場面で投入されてきた事が大きいと思います。
今までの都市計画では、 ほとんどがハード整備の事業用のソフトだったのですが、 そうでなく、 その後の居住サポートなど事業から離れたソフトの必要性が根付いてきています。
最後に出来なかったことは何かと言いますと、 必要だと思ったことはゲリラ的にやってきましたので基本的にはないと思っています。 ただ、 まだ成果が見えてないことはいっぱいあります。 今後、 芽を出し実るかどうか、 というところです。
この5年間で大きく評価できるのは、 行政と住民の関係が変わった、 変わる可能性が出てきたという事です。
以前は「お上と住民」といった関係で、 役所に対して住民は盲従または反発するという構図が多かったのですが、 行政も住民も変わってきています。
例えば尼崎の築地では20年ほど前に行政が環境改善計画を作ったのですが、 住民側が猛反発して白紙撤回したという経緯がありました。 それが今回の震災で液状化により大きな被害を受けたことで、 区画整理事業と地区改良事業の合併施行が進んでいます。
松本地区の場合も、 区画整理をかけたときには、 減歩について猛烈な反発が起こりましたが、 ここでは強力なリーダーが現れて「行政をうまく利用していこう」と呼びかけた結果、 官民協同のまちづくりが進んできたわけです。
そんな中で、 行政も変わったと思います。 特に震災直後は行政も「なんとかせないかん」という意識が強く、 夜を徹して頑張ってらっしゃいました。
私は元来ひらがなの「まちづくり」を信頼していなかったのですが、 最近は可能性を感じてきたところです。
できたことは、 私みたいな素人の人間がこの場に座っているということでしょう。 これは神戸という街とそこに住む人々の懐の深さと、 僕たちのしぶとさが結実したものだと思います。
私自身は御蔵通5、 6丁目にずっぽり入って、 それ以外の事はほとんどしていませんし、 携わった共同化住宅もたった一つです。 しかしそこで、 たった12戸でも住民の心をつなぐような仕事ができたと思っています。
管理組合といってもただの集まりではないモノが生まれたし、 まちとしても「わがまちの会」という女性グループが共同化住宅の一角を拠点に活動を始めようとしています。 そういう求心力をつなげて行く作業を一緒にできました。
それから「関心を広げること」です。
私自身はまちづくりに関しては独学です。 今までも社会的な関心を持っている人は沢山いましたが、 まちづくりという具体的なフィールドでの活動は専門家が独占していたわけです。 それで良いのか、 自分のような人間を沢山作りたい、 と思いました。
そこで自分たちで「御蔵学校」という企画をつくったり、 通信を発行したり、 インターネットでの発信などにも取り組んできました。 つまりネットワークができつつあると思います。
できなかったことを敢えて挑戦的に言えば、 区画整理という現実の中で生まれた状況に抗し切れなかったことです。 要するに住民が3割以下しか戻らなかったという現実です。
区画整理に関しては、 初めは「なんじゃこら」というのが正直な感想でした。 後で冷静に考えると、 住環境整備という側面も理解できましたし、 住民の不満を聞きながらも、 前向きに話を進めていくべきだという思いでやってきました。 被災した地域を住民やいろんな人たちにとって一番良い形で再生していければいいな、 という気持ちだったのですが、 結論から言えば、 現在の状況は満足いくものではないのです。
今回の震災を契機に、 今までの「都市計画」は方向転換すべきだと思います。 できたこと、 できなかったことを、 本当に見る必要があります。
都市計画では「人がまちに関係していない」という事実には衝撃を受けました。 つまり土地の権利者は関係があっても、 上に住んでいる人は関係が無いという事です。 人と環境整備をどうしたら一緒に考えられるのか、 それに誰がどのように関われるのかが、 今回の震災復興が残した課題だと思います。
少し議論の芽が出てきたようです。 それでは兵庫県の田中部長に、 震災復興を応援してこられた立場から、 少しお話していただきたいと思います。
田中:
今回の座談会のタイトル「市民まちづくり」の「市民」に大きな意味があると思います。 普通こういう座談会は行政と学識経験者、 それにコンサルが出てくるのですが、 今回は小野さんのような方がいらっしゃる。 こんな時代が来たんだと感じます。
私も20年近くまちづくりに関わってきましたが、 昔は「まちづくり」は行政のやるものでしかなく、 住民は自分の財産にしか関心がありませんでした。 そういった中で行政がある意味ひとりよがりで「まちはこうしなければならない」とひたすら住民にしゃべって反発を受ける、 という状態でした。
10年ほど前に、 災害時に危険と思われる練馬区の密集市街地で、 地区計画的な手法を使ってなんとか道を拡幅しようと努力している行政の方がいました。 つまり老朽化が進んでいますから建替えが進みますので、 建替えるときに「土地は提供して下さらなくて結構です。 でも少しセットバックして下さい」とお願いしてまわられたのです。
これが良いか悪いかは別として、 ひたすら行政主導でした。 その後、 再開発事業とか区画整理事業を進めるにあたって、 住民合意が大事だということが分かってきました。 国や公共団体も、 住民合意を得るためにお金を出していこうという方向に転換していったのです。
その結果、 まちづくりの専門家は公共団体から報酬をもらって仕事ができるようになりました。 住都公団の報告書によると、 まちおこし的なものでも、 地元の方々から報酬をもらって仕事をしていません。 依頼はほとんど公共団体からのようです。
さて、 震災後まちづくり協議会が注目を浴びましたが、 現在神戸・阪神間にある133団体のうち震災後発足したのが99団体です。 つまり、 ここに多くの「まちづくりの芽」が出てきているのです。 私はまちづくり協議会のようなソフトの部分こそ、 これから残すべき遺産として位置づけてもらいたいと思っています。
しかし、 ひょうごまちづくりセンターのニュースレターでGU計画研究所の後藤さんが指摘されているように、 まちづくり協議会は「目的型」と「組織型」に分類できるのですが、 実際にはほとんど「目的型」です。 つまり区画整理であれ、 石東さんのやっておられるコレクティブハウジングであれ、 要は何らかの目的のために存在している集まりだと思います。
そのせいか私たちが関わっているまち協の多くから、 区画整理などの目的が達成されたたら解散しようという動きが出てきています。 私はそれは違うんじゃないかと思っています。
昔は自治会、 農村では講といった本来「まちをどうしようか」という組織がまちにはあったはずです。 これが何らかの理由で機能していません。 ですから「まちづくりをどうしようか」と皆が考える仕組みが必要です。
もちろん、 まちづくり協議会がそのままの形で残る必要はなく、 その組織の形自体は変容していっていいと思いますが、 これからどういうふうに「組織型」のまち協を維持していくのかが我々の課題です。
それともう一つ、 「市民まちづくり」という言葉が震災復興を契機として出てきている事に悪い面もあるのではないかと思っています。 多少「復興」という観点でバイアスがかかっているという面があるのではないでしょうか。
その辺りも整理しつつ将来にどのようなソフトの遺産を残して行くか、 それについて行政がどのようなお手伝いができるかが課題だと思っています。
2 復興で出来たこと
出来なかったこと
ひらがなのまちづくり
石東:
行政と住民の関係の変化
山口:
多様な人の参加
小野:
住民が戻れなかった
小野:
まち協こそ残すべき成果
野崎:
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