水谷ゼミナール2
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はじめに
今なぜ「まち住区」なのか

(まちづくり株式会社コー・プラン) 小林郁雄

水谷頴介さんと水谷ゼミナール

 今日のテーマ「復興まちづくりと水谷頴介さんとまち住区論」を始めるあたって、 そもそも今なぜ「まち住区」なのかということを、 まず皆さんにお話したいと思います。

 この水谷ゼミナールは、 基本的には直接水谷さんの教えを受けた弟子たちが集まってやっているものです。 今まで誰に説明する必要もなかったのですが、 震災後関わりを持つようになった方々や、 新しく入社された方などが最近増えてきましたので、 そもそも水谷頴介さんというのは何者なのかということを、 少しお話したいと思います。

 ここに『都市と建築の提案』という本があります。 これは、 水谷さんが亡くなられた1993年の秋、 私たち弟子が「神戸アーバンリゾートフェア」の行事の一環として開催した展覧会の記録集で、 この中に、 水谷さんが亡くなる直前に書かれたドクター論文が、 どのようにしてできたかも書かれています。

 水谷さんは、 1992年12月に「まち住区」をテーマに論文『町住区と市街地再構成計画』を、 数年間をかけて書かれたもので学位を受け、 1993年2月に亡くなりました。 亡くなられた年の7月に「水谷論文『まち住区』をめぐって」というシンポジウムを開催し、 たくさんの方に集まっていただいて、 論文で水谷さんがいったいどんなことを考え、 どんなことを言い遺したのだろうかということを討議したのです。 なにせご本人が論文を書いて間もなく亡くなってしまわれたので、 内容について本人が話をされたことはあまりなく、 論文を種に私たちがいろいろなことを話しあうというものでした。

 あれから4年経ち、 その間に阪神大震災が起こりました。 ある程度落ち着いてきた今日の段階で、 振り返ってみて、 震災復興まちづくりの中で「まち住区」という概念はいったいどのようなものであったのというのが、 今日のテーマです。


「まち住区」という言葉

 まず「まち住区」という言葉はどのようにできたかということですが、 今から23年前の1974年に「まち住区素描」という、 役所の報告書にしては珍しいタイトルの研究報告を、 神戸市の企画局と当時所属していた都市計画設計研究所でいっしょに出しました。 それがたぶん「まち住区」という言葉を使った最初の公式な記録です。 それをベースに、 1976年10月に神戸市の「新・神戸市総合基本計画」に「まち住区計画」という章がつくられました。 約20年前の話です。 それから7、 8年後『キーワード50』という雑誌の中でも、 水谷さんは「まち住区」という言葉を使って文を書いておられます。 その間、 「まち住区」という言葉は、 総合計画の中では使われていたものの、 実際の行政の中では、 ほとんど役に立っていません。

 「第3次・神戸市総合基本計画」にも、 一応「まち住区」という言葉は残されていましたが、 「まち住区」そのものの位置づけがだんだん変化してきて、 最終的に一昨年(1995) 10月の「第4次・神戸市総合基本計画」の中では、 「生活文化圏」と名前が改められ、 「まち住区」という言葉はなくなっています。

 このように「まち住区」という言葉は、 一時神戸市の総合計画の中でもかなりきっちりとした位置づけがあったものの、 今は消えてしまっています。 このように言葉そのものの位置づけがはっきりしていなかったところを、 92年の先生の論文によって再び位置づけられたと、 私は思っています。


「まち住区」とは何か

 「まち住区」とは何かということで、 水谷さんの論文の中で気づいたことを3つほどあげてみます。

 『「町住区」は近代都市計画にみられる職住分離に対して、 生活−都市構造と経済−産業構造の複合により、 魅力ある市街地や都市を形成していくための概念である』というふうに書いておられます。

 「近隣住区」という都市計画の一つの手立ては、 生活・住居といったものに力点をおいてつくられていたのですが、 もっと複雑な、 生活と経済・住まいと仕事場が共存・交流する活動を、 市街地の中で構造化していくというところに着目しているのが「まち住区」の基本だと書いておられます。

 二つ目に、 再開発(リデベロップメント)を中心としたまちのつくり方から、 まちづくりのための修復(リニューアル型)、 すなわち住民主体のまちづくりを背景にしていることが「まち住区」の大きな特徴だと思います。

 三つ目に、 都市は「町住区」と「遊芸空間」と「交通・情報生態系」といったものの組み合わせということを述べておられます。

 都市全体の構成の中では、 「町住区」は連合体として「遊芸空間」というものによって網目をつながれ、 都市の構造的基盤である「交通・情報生態系」と、 この3つによって現代都市の全体は構成されているというのが、 水谷さんの言っておられる「町住区」のいちばんの基本だと思います。 なにせ「町住区」という言葉そのものでも分かりにくいのに、 「遊芸空間」「交通・情報生態系」という、 さらに分からない言葉を使っておられますので、 これはこの論文を熟読していただく以外にはないということです。


復興まちづくりと「まち住区」

 地震後3か月目の1995年4月に『地域開発』という雑誌にも書いたように、 『近隣住区を越えたまち住区単位の〈小規模分散自律生活圏〉の確立こそが、 今回の震災でも再認識されたように、 住民主体のまちづくりのゴールであり、 災害に強い市街地の基本ではないか』と、 私はつくづくと思いました。 そして、 『そうした自らの生き方を自らで決定できるような、 自律的な生活圏の多重なネットワークをつくっていくことがいちばん重要ではないか』ということを、 今も変わらず思っています。

 その点、 「まち住区」という概念は非常に大事だったんだということを地震直後に思い、 今でも思い続けています。

 そういったものが、 20年前から10年間ぐらいやっていたことと違うところは、 現在は情報システムの発達による国際的・広域的なネットワークの中にあるということです。 そうした小規模の単位が非常に有効に多重ネットワーク化できる技術を私たちは持っています。 極端に言えば国なんかいらないというくらいの、 小規模な生活圏が自律できる要件がある、 そのなかで「まち住区」を考えるという点が20年前との大きな違いではないかと思います。

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