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復興まちづくりと水谷穎介さん

水谷さんが居たら……


その在野精神で
行政や大企業を批判

(環境開発研究所) 有光友興

 もし水谷さんが居たらということですが、 私は「水谷さんならこれをどうおっしゃるだろう」と常に考えながら仕事をしておりますので、 居られても居られなくてもあまり関係がないくらいに、 マインド・コントロールがいまだに利いているといったところです。

 改めて、 水谷さんが居られたらどうだったかということで、 二つ考えました。

 一つは水谷さん自身がこの阪神大震災が起こった後、 どのような行動をされたかということ。 もう一つは水谷さんの弟子のみなさんが、 水谷さんが居たらどうされたかということです。

 まず、 水谷さん自身がどうだったかということですが、 私と水谷さんは、 水谷さんが30歳過ぎだった約30年前に一緒に過ごしたので、 その後はそれぞれ別に仕事をするようになりましたので、 水谷さんの50代の行動は直接知りませんが、 論文のごあいさつの中に「村野先生の在野精神を大切にしたい」ということを言っておられることなどから考えると、 どうも行政と大企業の批判を猛烈にやられたのではないかと思います。

 あの震災直後の神戸市の都市計画決定は、 国と市が密室で話し合われて、 出てきたわけです。 それに対して、 おそらく住民不在であるということや、 「まち住区論」とも関連して、 再開発や区画整理という手法そのものに問題があるということを、 批判されたのではないかと思います。  また、 三ノ宮でたくさんの立派なビルが無惨に壊れたのを見て、 おそらく大手ゼネコンに対しマスコミやジャーナリズムを通して批判をされたのではないかと思います。 それでまた、 たくさんの敵をおつくりになったんじゃないかなと思います(笑)。

 もう一つ、 水谷さんの弟子のみなさんがどうだったかと考えますと、 後藤さんや宮西さんやURのみなさんはあまり変わらないのではないかと思いますが、 ひょっとしたら、 コー・プランがかなり違っていたかもしれません。

 コー・プランは、 震災後すぐに「復興市民まちづくり支援ネットワーク」をつくられ、 私たちコンサルタントにとって非常に有難かったし、 その後の『きんもくせい』を発行、 「ガレキに花を咲かせましょう」「コレクティブ・ハウジング事業推進応援団」などを進められ、 震災後のまちづくりに大きな貢献をされました。

 もし水谷さんが居られたら、 水谷さんが好きだった阪神間の壊れたまちや建築の修復や復興について、 コー・プランのみなさんに手伝ってもらって進められたでしょう。 そうするとコー・プランのみなさんが今のようにできたかどうか、 わかりません。

 震災後コー・プランのみなさんは、 小林さんを中心としてみなさんが思う通りに復興に取り組まれたと思います。 そういうことでは、 むしろ水谷さんが居られなかったほうが、 コー・プランのみなさんにとっても良かったかもしれないし、 社会全体にとっても良かったかもしれないと、 ちょっと失礼かもわかりませんが、 そんなこともふと思っています。


まちづくり協議会の取組みに見る
「まち住区」論の発展

(石東都市環境研究室) 石東直子

 去年の暮れに発行された『水谷ゼミナール発表記録誌No. 3』のはしがきに、 私が書かせていただいたものが、 今日の話とよく似ておりますので、 発表のかわりに読ませていただきます。

 『水谷ゼミナールの発表記録誌の3冊目は、 阪神・淡路大震災の復興まちづくり特集となりました。 第15回〜第22回のゼミナールの記録をみると、 水谷ゼミナールのメンバーは復興まちづくりのためにいろんな取り組みをしています。 また、 活動の形態も多様です。 まもなく震災2周年を迎えます。 水谷先生が亡くなって、 まもなく丸3年になります(これは去年暮れの話です)。 この頃、 時々思います。 「水谷先生がいてはったら、 この復興まちづくりにどんな係わりをしてはるやろか…」「水谷ゼミ生が各方面でやってる取り組みも少し違ったものになっている面もあるかもしれない…」と。 復興まちづくりの視点として水谷先生の博士論文の「町住区」論が重要な意味をもち、 実効性のある視点になってきていると感じます』。

 このあと、 小林さんが『地域開発』に書かれた論文を引用させていただいていますが、 まさに私は、 水谷先生がもし居られたらということを考えていましたし、 今でも、 特に疲れてクタクタになって帰る道すがらには、 そんなことを思います。

 私は大阪に住んでいますので、 大阪の飲み屋で先生とお話しする機会が多かったのですが、 このような復興の渦中にあったとしても、 渦中から離れて話をする中で、 少しリラックスしながら、 新しい展開・アイディアのようなものが得られるような雑談ができたのではないかという気がします。 まず一つ、 そういうリラックスの機会がなくなったということを残念に思います。 でも、 それに代わる良い仲間もできていますので、 そんなにしょっちゅうは思っていませんが(笑)。

 もう一つ、 今日のテーマの「まち住区」について、 特に我々フィジカルなプランをやっている者は「まち住区」を「広がり」という範囲の話でとらえがちですが、 そうではないということは、 小林さんの指摘にもあったとおりです。

 震災を体験して、 人と人との結びつきがとても大事だということを被災した市民たちは実感したと思います。 もとの地域に帰りたいという願望が被災者の中に多いのですが、 その「もとの地域」が「生活文化圏」であり「まち住区」です。 もといたその場所に帰れなくても、 もとの地域に近いところに帰りたいという、 その「近い」が「まち住区」の広がりにあたるのではないかという気がしています。

 また、 「まちづくり協議会」のいろいろな取り組みも、 最終的な課題としては安全で快適な福祉コミュニティづくりを目指しており、 それ自体が「まち住区」論の発展であると、 私は解釈しています。

 今、 水谷先生がもし居られたらという話をいたしますと、 博士論文で書かれました「まち住区」論を、 違う時代に沿った、 また、 この震災後の状況に沿った、 新しい展開の「まち住区」論としてとうとうと述べられ、 現場で支援したり、 まちづくりに関わっている我々も、 それによって新しいアイディアを得られるような展開をされているのではないかと考えています。

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