コーディネーター:小森星児(神戸復興塾塾長)パネリスト:森栗茂一(長田を見守る都市民俗学者)
安福重照(酒心館)
大河原徳三(前神戸市中央区区長)
森田博一(シティコード研究所)
土井幸平(大阪市立大学教授)
小森:ではこれからディスカッションに移ります。 今日のシンポジウムの第一部は、 建築・都市計画に関わっておられる方の発言でした。 これからの第二部では、 専門家だけでなくいろんな分野の方々を交えて進めていきたいと思います。
森栗:森栗です。 先ほどのリレートークを聞いておりまして思いましたことは、 専門家としていろいろな被災地で活躍されている方々に、 どんな未来像を描いているのかをお聞きしたいということです。 しかしその前に、 まちの未来像は何なのかを私なりに整理してお話ししたいと考えています。 というのは、 こういう会で異分野の人間同士が集まって話すということ自体が、 震災前はあり得ないことだったからです。 本来は、 そういう様々な人がまちについて語ることがあってしかるべきだったのです。
しかし、 どれほど効率的なまちづくりをしたとしても、 私達は(産業的には)もう中国には勝てないわけです。 それにどんなに経済的に豊かになっても、 それだけでは幸せにはなれないことも私達は分かっているわけです。 そうすると、 私達はどんな街を目指すべきなのか、 どんな生活を目指すべきなのかということが次に問われてくるのです。
山口さんが言われたように、 いったい「まちって何なのか」という問いはそういう背景から出てくるのかもしれませんし、 後藤さんが言われた「近隣住区と言われるもののむなしさ、 むしろまち住区的なものを求める動き」もそこに根拠があるのかもしれません。
実はこのまち住区の話は、 単なる過去への郷愁でもなければ現状否定でもなくて、 未来像をどのように描くのかという問題と関わることだと思います。 それは個としての家を超えるつながりをどのようにつくるのかということになるわけです。
森崎さんが「個を大切にしながら全体をつくることは何なのか」という問題提起をされましたが、 例えば小学生殺傷事件が起きた北須磨団地は、 ある時期ひとつの理想の形でした。 私達はああいう住まいを目指し、 労働の果てのゴールとして手に入れました。 しかし、 時代の変化の中で自分たちの住む街をつながりのあるものとして組めなかった。 それが子どもたちにどういう抑圧を与えてきたかを考えると、 やはりまちづくりはこれでよかったのかと再考してみなければならないことでしょう。
また一方、 前期近代都市のままでずっと存在してきて、 今衰退していこうとしているまち、 それを豊かな記憶を遮断しないように未来へつなげていく作業も重要なことだと思います。 ですから、 まちづくりとは単に地区を造り替えることではなくて、 私達がどんな未来像をつくっていくのかということと深く関わっているのではないかと考えています。
職住接近の話がありました。 話としてはいい話だと思います。 しかし、 現実の話としては私が住んでいる西神ニュータウンの場合、 そこには工業団地、 住宅団地がありますが、 そこで働く人の多くは旧市街地から来ているのです。 住人の多くはなぜか大阪に通勤している。 そうやって人がどんどん動くことによって、 地下鉄の減価償却がうまくいっているのがニュータウンの現状なのです。
そういう住まい方ではなくて、 お互いが顔を付き合わせる人間関係がある豊かな住区がどうやったら作れるのかは、 私自身にもつきつけられた課題です。 そう考えると、 勤務先の大学はつき合い程度にしてなるべく行かない、 普段は家にいて回りの仮設住宅をウロウロしている方が人間として本来あるべき姿ではないかと思う昨今です。
つまり言いたいことは、 専門家の皆さんの活動は、 単に個々の活動をしているのではなくて、 私達の都市の未来像を一緒に考えているんだということです。 私はそれを実感し感謝している今日この頃です。
安福:今ご紹介いただいた当社は、 震災前は福寿酒造株式会社と申しまして、 酒心館は物販や利き酒を行う会社の一施設でした。 今年(1997)二月に社名を変更して、 株式会社神戸酒心館となりました。 今回の震災での当社の被害額は約20億円ですが、 社名変更はその再建のためでもあります。
それにあたっては、 兵庫県商工課の高度化融資を受けました。 この制度は五年間据え置きの20年返済(1億まで無利子)という大変有利な融資ですが、 今までは1社では貸してくれなくて4〜5社以上でしか利用できず、 様々な制約もありました。 ところが、 震災を機に制約がはずれましたので、 当社も意を決して豊田酒造と一緒に借りて再建をしているところです。 役所もかなりバックアップしてくれます。 震災前と違い、 スムーズに借りられるようになりましたので、 企業再建を考えておられるところには、 かなりお薦めの制度です。
埋立てによって地場産業はずいぶんと打撃を受け、 昔から続いていた酒文化とそれを育んだ街並みは消されてしまったわけです。 これは、 果してまちづくりだったのか。 専門家の方たちが大規模な開発をするとき、 地場産業との関係をどう考えておられるのか。 もう少し理解があってもいいのではと、 この機会にあえて申し上げます。
その矢先にあの震災です。 本当に残念なことです。 灘五郷全体では2千億ほどの被害がありました。 特に戦災にも焼け残った木造の建物は全て全壊、 または半壊しました。
当社の場合、 木造の建物が半壊してしまいましたが、 なんとか復興したいと再建しました。 また、 倒れてしまった木造の蔵は、 今ではなかなか木造に出来ないので、 鉄筋で建て替えましたが、 できるだけ木造風にしました。 また、 震災のせいで淡路島の瓦産業が非常な苦境に立っているとのことなので、 これらの建物には全て瓦を葺きました。 本年12月の竣工を目指して進行中です。
まちづくりについては、 今はとにかく各社が点づくりをしているといった状況です。 昨年から今年にかけて、 各社の特徴ある建物が次々とオープンしています。 小森さんが先日「神戸は10年先に来ることが一度に来た」とおっしゃっていましたが、 本当にそのとおりです。 我々の業界は地震がなくても厳しい状況で、 ご存じのとおりビールがあまりにも売れて現在は負けている状況です。 そのうち挽回しようと思っていますが。 ともあれ、 酒造界の中小メーカーは今度の震災から立ち上がるのが難しく、 思案中のところが数多くあります。 はたしていつ復興できるのか、 酒造りメーカーは非常に厳しい選択を迫られています。 ぼちぼちながらも各社が再建していって、 震災以前にもまして素晴らしい街ができることを期待しているところです。
その頃は日本の社会そのものが移り変わっていった時代で、 公害時代を体験、 都市のスプロール問題も発生して、 そういった都市問題が「新しい貧困」という言葉で表現された時代です。 そういう中で、 マスタープランには「近隣住区」という言葉はありましたが、 それ以外の都市計画単位はあまり詳しく書いてありませんでした。
行政にとって、 まちの単位をどんな形で考えていけばいいのかは難しい問題です。 住民と行政の間でコンセンサスが得られているのが「小学校区」「行政区」「神戸市域」でしょう。 今度の震災でも、 人びとはまず小学校へ避難しました。 管理者のいない時間帯で、 門をこじ開けて入ったというケースも大変多くありました。 それだけ小学校区は、 市民に了解された生活単位だという意を強くした次第です。 「行政区」は、 行政の便宜のためにつくった単位ではありますが、 年金、 税金、 福祉等を扱うとき、 市民の生活から見ても便利な単位です。
その行政区と近隣住区と言われる小学校区の間に、 行政があまり了解していない、 しかし市民としてはイキイキとして暮らせていろんな蓄積がある生活単位があるのではないかという話が出てきました。 つまり、 行政はどうしても全体のバランス感覚を重視した考え方で物事を進めがちですが、 そうした視点ではなく、 まちの個性に注目したい。 すると、 板宿、 六甲、 北野界隈等々はどういう単位になるのかという議論を、 第一次マスタープランの改訂の時に行いまして、 その中から「まち住区」という考え方が出てきました。 住民が呼びなれているまちの名前、 その街に対して行政として何が出来るかを考えようと話し合いました。 これは行政としても理論付けがしにくいことで、 水谷先生に理論付けをお願いしました。 水谷先生はいろんな考えの中であの論文を書かれたというわけです。
まち住区というのは不特定な単位ですから、 どこからどこまでがそうかという線が引けないものです。 むしろ、 まちが持っている魅力を引っぱり出してくることに意味がある。 また、 漢字で「街」と書くよりも、 「まち」にした方がいろんなふくらみが出てきそうだということで、 マスタープランでは「まち住区」といたしました。 そのような流れの中で、 我々はまち住区を考えていました。
ひとつは、 都市構造論。 都市というものはCBDやターミナルの中心と、 郊外の住宅ゾーンに単純に分けられるものであってはならない。 「小規模・自立・分散型」という言葉のように、 ある単位がヒューマンスケールでまとまっていて、 それらが結びついて大きな全体を成しているような姿が、 本来の都市のあり方ではないのか。 部分でありながら全体である、 そういう考え方が「まち住区」の都市構造論としてあったと思うのです。
二つめが価値論と言いますか、 そのまち固有の価値を認めなくてはならないということです。 水谷さんは、 歴史や文化という言葉を使っていますが、 単に経済的に効率が高いとか近代的で美しいという視点で見るのではなく、 まち固有のものに価値を見出さなければならないということがあったと思います。
三つめは、 地域産業論です。 水谷さんは建築家としても都市計画家としても住宅を重視していましたが、 住宅重視をベースとしながらも住まいと産業・経済が共存するものでなくてなならないと主張していました。
このように、 まち住区論は三つの側面を持っていると考えます。 先ほどの紹介でもあったように、 私自身は水谷先生の教えを受けた中では唯一の文系でして、 三つめの住まいと経済の共存に興味がありますし、 今も商店街の勉強会等でそのことを考えています。
そう言う状況でまちと産業の関係を考えると、 これからはまちの文化が経済面に生かせる時代になってきていると思うのです。 今、 全国の何千という町や村でまちづくりが行なわれていますが、 そのほとんどが地域に伝わってきた有形無形の文化をテコにして行なわれています。 水谷先生がまち住区を提唱されたとき、 地域固有の歴史や文化がこれほどまで尊重され、 継承されるまちづくりが出てくるとは想像もつきませんでしたが、 今ではそれが新しいタイプの観光としてまちの自立性を高めるのに役立っているという気がします。
それと「住宅と経済の共存」という言葉についてですが、 「共存」という言葉は本来対立すべきものが並立しているというイメージがあります。 しかし、 私なりの見方では、 異質のものを調和させるのではなく、 産業が暮らしをつくり暮らしが産業をつくるような循環的発展という関係で、 まちの中の住まいと経済が共存していけるのではないかと思います。
そのいい例が滋賀県の長浜です。 「黒壁」を核としたまちづくりは、 今言ったことに近い形で進みつつあると観察しています。 また、 長浜の例で優れているのは、 暮らしの中で産業を生み出すことに加えて、 まちの中でお金を回す仕組みをつくろうとしていることです。 年間百数十万人の観光客が落としていったお金を、 システムとして回そうとしている。 具体的には、 衰退している商店街の店を黒壁が買い上げたり自分の所の施設を入れたりして、 新たな投資システムをまちの中でつくっているのです。 そういった視点がこれからのまちづくりには必要ではないかと思っています。
今までの自治体主導のまちづくりは、 自治体全体としての商業政策とか生涯教育とかがバラバラに行われた観がありますが、 今後はソフトとハードが表裏一体となって、 ソフトを見ながらまち全体を良くしていく仕組みが必要ではないかと考えています。
土井:私の経歴を付け加えますと、 小さい頃大阪に生まれ、 その後神戸に来まして、 小・中・高校生時代は神戸市民として育ちました。 中学校の通学路には魚崎の酒蔵があり、 二月頃にはお酒のいい匂いがしていたのを覚えています。 震災でそこが被害を受けたと聞いて、 人ごとではない思いがしています。
その後東京の大学に進学して、 それ以来30年東京で都市計画の勉強をしてきました。 先ほどのお話にも出た大谷先生が手がけた「麹町計画」は私もよく知っています。 そこに水谷先生が来ておられたという記憶もかすかにあります。
少し話がそれますが、 今日いただいた水谷先生の資料の図をみていますと、 水谷門下の皆さんの○△□で表現される計画図の描き方が何か似ていると感じます。 今日来ている若い皆さんは、 この方法を盗んで洗練させるか、 あるいは全く別の表現方法を見つけるかを勉強してはいかがでしょうか。 論文を読んでいて、 ふとそういう感想を持ちました。
話をもどしますと、 私は、 最近大阪に戻ってきて、 東京と大阪の都市計画の違いを面白がっていたのですが、 すぐ震災になってしまいいろいろと忙しい毎日になりました。 この間本当に勉強させてもらったと思っています。
その時の建築学会で私が発言したことの結論だけ述べますと、 基本的に神戸の復興計画はうまくいっている、 あるいは10年後には必ず復興するという感触が出来つつあるととらえています。 もちろん、 いろいろと解決していかなければならない問題があり、 復興課題をどう考えればいいかということになるのですが、 私としては「第一次復興」「第二次復興」として考えています。
第一次復興とは、 精力的にいろんな融資・事業が行われ、 施策や法律が整えられていったこの三年間です。 荒削りですが、 人口や産業の配置、 インフラ整備などある程度目安が見えるようにすることを第一次復興と考えています。 問題はそこに様々な課題が残されていることですが、 それにどう取り組むべきかについては、 行政が最初につくった復興計画の進行管理をチェックするべきだと思います。
ただそれだけでは本格的な復興には不十分だと思われますので、 復興後3年目の状態を初期条件として、 「第二次復興計画」を考えるべきではないかというのが私の意見です。
次のまちづくりということになると、 3年ではなくてもっと時間がかかると思います。 復興初期の熱意も下火になってきますし、 一度地区外へ出た人の多くが戻ってこないという状況下で、 まちをどう再生していくかという取り組みが必要ではないでしょうか。
そうやってつくられた街区は、 「表層街区」「内層街区」という呼ばれ方をしています。 つまり表通りと裏通りが出来ているのです。 表通りと裏通りが共存していることが、 まち住区を支える基本的な構造になっていて、 いろんな人が住めるようになっています。 すなわち表通りの大店、 裏通りの庶民。 この裏通りが細街路になっていて、 震災ではここの木造密集地がやられてしまいました。 だから震災直後には問題視されて「区画整理で道路を広げないと」と言われたのですが、 まち住区の考え方からすると、 そうではないのかもしれません。 様々な立場の人が住めた表・裏構造の価値をどう生かすかという視点が区画整理では抜けています。
表通り・裏通りと言う考え方は、 大阪も同じです。 お城へ向かって伸びる方が表通りで、 筋の裏町に庶民の町ができました。 そういう関西の都市構造がまち住区のベースになっているというのが私の感想です。
特に、 高度経済成長期にまち住区が果たした役割は、 ベンチャー企業を育てたという点にあります。 貧乏で若い経営者が裏通りで努力して、 成功すれば表通りへ、 そしてさらに発展していく構造をまち住区は持っていました。 それがこれからどうなるのか。 まち住区構造を再生できるかどうかが、 これからのまちづくりのポイントだと思っています。
宮西:古い条里制の跡に大正から昭和にかけて長屋が建ち並び、 今の木造密集地ができたという住宅の歴史がありますが、 やはり接地型の住宅と中高層の住宅とでは居住性において歴然とした違いがあるのが日本の現状です。 中高層住宅の質はあまりに悪すぎるというイメージがありますから、 「あんな住宅には住みたくない」と我々の心に刻まれたと思います。 イメージだけでなく、 百戸単位の規模というのは、 住まいとしてもスケールオーバーになっているわけで、 そういうものを作り出してきた状況を我々が容認するかどうかを問われているのです。
今回私は、 真野地区で東尻池コートという共同住宅を手がけました。 共同建て替えで20戸弱の小さな規模ですが、 もともと18戸の長屋があったところを5階建てと3階建てに2棟置き換えたわけです。 その際にはかなり知恵を絞りました。 普通の集合住宅では玄関が1カ所にあってそこから中に入ってエレベーターがあるというスタイルですが、 ここではそれをやめて、 玄関をつくらずどこからでも入れるスタイルにしました。 なるべく路地の雰囲気を出すために、 廊下もそのイメージでつくりました。 例えば、 普通のマンションでは南側にベランダがあって北側に廊下があるのが基本パターンですが、 ここでは一部に南側に廊下をとる変則的な配置を取り入れています。 なるべく元の地域が持っていた雰囲気を、 新しい建物に生かしました。
それが実現した背景には、 「制度」が緩和されたということもあります。 今まではそういうことをやろうとすると、 行政はいやがりました。 ところが震災を機に、 早く建物をつくって早く被災者を戻さなければいけないという事情があったので、 制度が緩和されたのです。 そういう中で新しいスタイルの住宅ができるようになったんだと思います。
この建物ができたおかげで、 今までの悪しき中高層住宅の例に対して「それとは違うんだ」という見本を見せられたことは良かったと思っています。 長屋がいいのか、 中高層がいいのかとの問題に関しては、 都市では中高層にせざるを得ない面がありますから、 建て方の工夫や建築家の力量、 それを支える経済的側面や制度でカバーできる点がたくさんあると考えています。
東尻池コートの竣工後、 周辺自治会からも大勢が見に来られたのですが、 「これだったら今の長屋を建て替えてもいいな」との評価をいただきました。 その言葉を後ろ盾として、 中高層での新しいまちづくりは「できる」と言明いたします。
小森:中高層にしろ低層にしろ、 工夫次第だというのはそのとおりだと思いますが、 高層でスペースをとるだけではカバーしきれない問題があるのも事実です。 先ほどのリレートークの話も含め、 引き続き、 ご発言を求めたいと思います。
森崎:未来はどうなるのかという話がありましたが、 私は二つに分けてそれを考えたいと思っています。
ひとつはコミュニティです。 運命共同体とか社会とか同胞意識で表わされるようなコミュニティです。 もうひとつは、 都市基盤も含め、 目に見えてくる建築行為、 形の問題です。
実は私は新婚当初の5年間、 真野の長屋に住んでいました。 長屋に住むのは初めての体験だったのですが、 表の向こう三軒両隣と裏の向こう三軒両隣があるのです。 どう違うのかというと、 自分のハレの場所、 例えば海外旅行のおみやげを配るとかのエエ格好をしたいときは表の向こう三軒両隣に配る。 一方、 味噌やお金が足りないときは裏の向こう三軒両隣に行くのです。 全部合わせて10世帯30人ぐらいが日常のコミュニティになっていました。
この関係性が中高層で再現できるかが問われているのです。 単純に建物として同じ形態を創っても、 向こう三軒両隣を延々とつなげていく方法でしかできないし、 長屋は建物の高さや幅が緊張関係で保たれていますから、 平面的にそれを解こうと思っても不可能だと思います。 しかし、 宮西さんが言われたように、 私も関係性の再現はできると思っています。 それは、 建物の話で言えば、 シンプルでありながら、 もうひとつの選択の道があるような解き方を都市や建物でつくることだと考えています。
具体的に言うと、 消防で言う「2方向避難」(階段が2つ必要)というのがありますが、 できるだけたくさんの階段と動線を持つことです。 ひとつの住宅で二つの動線を持つ構造をつくって、 それを積層化していっても構わないと思っています。 すぐ利用できる階段が近くにある、 つまり10階に住む人が階段で9階に降りてそこからエレベーターに乗れるような設計が考えられます。 エレベーターも3層スキップにしてもいいと思います。
市の基準や建築規準には変な思いやり的な側面もあり、 高齢者用の建物だと各階にエレベーターを止めるという話があります。 それがはたして住む人のためになるのか。 長屋の再生を建物で行うとき、 そのやり方がかつての思いやりのある空間になっているかを再考する必要があるでしょう。 別の話で言えば、 土の道を石貼りにすることでかえってコミュニティを阻害していることもあり得るのです。
都市の基盤整備をするとき、 防災面からだけ見ていくのではなくて、 道の幅をどうするかによって人を緊張させたり、 ゆっくりさせたりすることに注意を払うべきではないでしょうか。 例えば、 救急車や宅急便の車が入らないから道路を作り替えようと言う前に、 そこに立っている電柱を地中に埋めるだけで問題が解決することもあります。 そういうことに目を向けていくことが、 まち住区論の基本ではないかと思っています。
小森:表三軒と裏三軒の違いは、 非常に面白くて驚きました。 確かにまちにはそういう要素があり、 生活の様式がまちをつくっていました。 それを再現することも可能だとのご意見でした。 他に何かご意見はございますか。
久保:まち住区論を読みながら思いましたのは、 2010年からは人口が減るのは確実なので、 高度成長期に行われたようなまちづくりは変わってくるだろうということです。 まち住区論に書かれていたことは、 それぞれが適したところに住み分けていく魅力、 共存しあって全体がさらに魅力を増すということだと思うのですが、 人口減になると都市は緑を含めたアメニティ環境がかなり良くなり、 交通の便も良くて職住も接近してという風に変わっていけると思うのです。 ですから、 中高層と低層の話は別として、 住み分けはかなり進んでいきますから、 まちづくりはそれを踏まえてつくるべきだという気がします。
小森:では続いて、 ディスカッションでご発言いただいた方々に、 短く感想をいただきたいと思います。
まちの雰囲気と言えば、 東灘区ではだんじりも復活しました。 お祭りによって人々の気持ちがひとつになることは、 震災前にはなかったことのように思います。 最後に、 異業種とのドッキングもまちづくりの線をつくるためには欠かせないと思いますので、 これを提唱していきたいと思っています。
この10、 11、 12日には「トアロードまつり」を行うのですが、 昔から北野・山本界隈で行われていた「ジャズストリート」と連携する話もまとまりました。 これもクラフトを中心に50店舗出そうと、 意欲的なことを考えています。 これまでトアロードは3つに分かれていたのですが、 ひとつにまとまって行われることになりました。 隣の町と連携して行う方が効果が大きいだろうという期待が、 かなり具体的な形で出てきています。
それだけでなく、 まちを再発見しながら何かをやっていこうという雰囲気も出てきているようです。 なぜクラフトなのかという議論が行われました。 トアロードのいろんなものを見直すと、 「ハイカラ神戸」の原点のようなものを生活の中に取り込んできた歴史がある。 そういうものを再発見して、 まちおこしに使おうとする動きです。
また北野・山本地区はひとつのまち住区的なものだと思っていますが、 その中で、 異人館を残そうとか北野の特性を記録していこうという動きが出てきています。 そういう積み重ねがまちへの愛着をさらに深めていくと考えています。 よそから入って来た人たちとのあつれきもありますが、 そういう人たちも同化させていく意欲的なまちづくりをされているようです。
このような自分のまちを再発見する動きは、 おそらく他の地域でもあるでしょう。 地震によって今まで自分が住んできた地域の原点を見たから、 それを何かの形で自分たちの力にしていこうという動きだと思っています。 そういった点では、 まち住区的な考え方は住民の中にごく自然にあるのではないかと考えています。
例えば東灘区では、 震災前から住宅が建て込んでいることが潜在的に問題となっていたし、 商店街の店舗の再開もこの2年半、 82〜83%で頭打ちとなっています。 しょせん元と同じ形には戻れないことをふまえた上で、 再出発する必要があると考えています。
その時必要なのは、 昔からそこに住んでいる人だけ(例えばまちづくり協議会)で物事を決めていくのではなく、 もっと異質なものを導入して育てていく視点だろうと思うのです。 また、 それに対応する仕組み、 例えば区画整理地域の中で生まれた保留地の使い方についても、 産業のインキュベーターとして使うとか若い商業者を呼ぶために使うなど、 複合的に考えていかねばならない。 そういった取り組みが本当の意味での「未来に委ねた復興」に繋がっていくのではないかと思っています。
もうひとつ、 論文の中では、 芦屋、 西宮、 東灘区に新しいまち住区が生まれつつあることを指摘されています。 建築家、 弁護士等いろんな職業を持った人々のミックストユースのまちになっていて、 住宅地としての顔だけでなく新しい産業構造の要請に合ったまち住区になりつつあるとの指摘ですが、 今これらの地域には新しいマンションが続々と建っています。 それで、 新しいまち住区ができるのかが課題だと思います。
また、 先ほど後藤さんは東部新都心や六甲の再開発についてあまり見たくないという顔をされていましたが、 あそこでどうやってまち住区をつくるかが大事なポイントでしょう。 住宅が不足しているものだから計画が戸数中心になっている点が問題なのですが、 積み上げた高層のまちの中にもまち住区があるという仕掛けを考えていかないと、 本当の復興にはならないと思います。 実際神戸にはこれからそうした問題が数多く出てくると予想しています。 例えば、 長田で再開発をするとき、 そこにどういうまち住区論を持ち込むかが重要ではないでしょうか。
まず今回の集まりは、 震災復興に際して水谷さんならどうしただろうということがきっかけとなっています。 みなさんに配ったパンフレットには「都市計画家の宿命」という言葉があるのですが、 水谷さん個人に限らず、 都市計画家の仕事とは何か、 こうした大災害の時に何を期待すべきかという問題を下敷きにして開催されました。
そういう人たちは建築だけでなく、 社会学とか地理学とか出身は様々ですが、 なぜそこで働くかを聞いてみると、 ひとつには大学を出てもそう仕事がないとの事情があります。 しかしそれ以外にも、 こういうところで経験を積んで注目されるようになれば市役所に就職できるそうなんです。
確かに行政の人間がいきなりボランティア事業をしようとしても、 その経験もなければボランティアとしての人間的魅力もないわけですから、 そうできるものではない。 ですから、 行政がボランティアを根付かせたいのなら、 まず熟練したボランティアを雇うことなのです。 つまり、 フランスの若い人はそうやってプランナーの修行をしているとも言えるのです。 そういう人たちが経験を積み人脈も築いて、 やがて新しい事業のチーフとしての役割を果たすことになるのです。
そして水谷さんが目指したプランナーの姿は、 それに近かったのではないかと思います。 また、 前半にご発言された方々も、 現場で修行し、 学んできた方々なのです。 そういう人たちの力が今日の復興を支えてきた。 プランナーは未来を夢見る人であるとか、 人びとを説得する人であるとの話も出ましたが、 足場を人々の間において現場から育ってきた人だとも言えるでしょう。 そういう人びとを育ててきたことが、 水谷さんの第一の業績だと思います。
それは何かと言うと、 まち住区は人口3万人で近隣住区をいくつか合わせた単位だということです。 これは、 ある時代のある特定の地域には当てはまるかもしれないけれど、 常にあてはまるとは限らないと思うのです。
近隣住区の重要性は、 今回の震災で明らかになりました。 しっかりした近隣住区では、 お互いを助け合い分かち合って、 恐ろしい環境に立ち向かいました。 その重要性は今後なくならないと思います。 しかし、 それより上の単位となると、 実際には難しい。 ひとつのユニットとして存在するかどうかという問題もあるし、 先ほど大河原さんが指摘されたように、 相手が見えないために行政側の対応も難しいという問題があります。 いわば、 水谷さんが考えたロマンチックで中世回帰的なまちを今日再現するのは、 難しいのです。
しかし、 難しいからやめてしまうのではなくて、 それの持っている魅力、 生命力を生かすにはどうしたらいいかを考えることが、 今日的課題ではないかと思います。
震災直後には「神戸らしいまちづくりをしよう」という声がよく聞かれました。 しかし、 神戸らしさは何かというとみんな迷うわけで、 ハイカラ、 開放的、 明るいとかの言葉が出てきますが、 それは外から見た神戸のイメージであって神戸市民は必ずしもそうはとらえていません。 魚崎、 御影、 岡本とそれぞれ少しずつ自分のまちのイメージは違うのです。 ですから、 住んでいるそれぞれの自分のまちの魅力をどうやってつくっていくかが、 復興の課題であり今日的なまち住区の目標ではないでしょうか。
水谷さんの論文には今となっては古びている面もありますが(ある一定の規模・範囲を特定してその中で完結的なユニットをつくることは今では困難です)、 「このまちなら住みたい」「このまちに住むことが誇りである」というまちをいくつもつくって、 神戸全体の魅力をつくっていくやり方は依然として有効であると思うし、 神戸はそれだけのキャパシティを持っていると思います。
むしろ、 中高層は想定された住まい方に適合しない人びとを素早くふるい落とす機能があるのではないかと危惧しています。 「成功した都市計画」と言われるものは、 たいていそうやって「脱落者」を追い出しています。 外国の立派な駅舎は、 スラムの住人を追い出してつくられたケースが多いのです。 「成功」のもうひとつの顔です。 また、 欧米では戦災後の復興でつくられた高層住宅が、 今や、 貧困と犯罪の巣窟となっている例が多く、 高層住宅はもう建てられなくなっています。
そういった例から、 我々はいったい何を学んだのか。 今、 つくっているものはひょっとしたら30年後の都市の新たな病巣かもしれません。 特に、 今回の公営住宅のように低所得者、 高齢者を選択的に入れる政策は、 今後どうなるのか心配です。 都市計画者の悪夢を再生産しようとしているのではないか、 という懸念も私は持っています。
しかし、 いずれにしても我々はこういう危険を予知して、 その処方箋を提示することができます。 それが、 都市計画家に科せられた仕事ではないでしょうか。 そうした点で、 水谷さんは優れたビジョナーでした。 ビジョナーとは幻想や幻を見る人という意味がありますが、 同時に将来起こりうる変化を見出して素早く対応する人でもあります。 水谷さんはその点に優れていたがためにたくさん敵もつくってしまった面もありますが、 今こそそうした優れたジビョナーが必要な時代だと思います。 そういう意味からは、 今水谷さんがおられないのは残念なことです。
もし水谷先生がいたらと仮定すると、 おそらく水谷先生なら「区画整理はいいだろう。 しかし、 第二種再開発はだめだ」とおっしゃるんじゃないかという気がします。 土井先生が提言した「第二次復興計画」のように、 これからが本当のまちづくり、 まち住区の概念のもとでのまちづくりだと思います。 しかし、 可能性があるとの話も出た「垂直方向のまちづくり」は、 小森先生と同じく僕も悲観的に見ています。 ただ我々まち住区を志すものとしては、 3階から上は好きなようにつくっていただいたとしても、 1〜2階はちゃんと考えてほしいと願っています。 もし1〜2階が駐車場だったら、 いったい街並みはどうなってしまうのかと考えてしまうのです。
僕が「まち住区」をテーマとして議論をしたいと思ったきっかけのひとつは、 神戸市のマスタープランには「まち住区」という言葉で書いてあったはずなのに、 なぜ今回の復興計画で駅前は第二種再開発で行われるのかが気になったからです。 我々が議論しているまち住区論に対して、 あまりにも事業手法が幼稚なのではないか。 むしろ、 神戸市はまち住区をつぶしてしまうつもりなのか、 とさえ思えてしまいます。
私たち水谷ゼミナールは、 水谷先生の教えを受けた建築や都市計画に関わる者の情報交換の場として、 92年10月から年に6回のペースで勉強会をしています。 今年(97年)でちょうど5年目になりました。 我々の特徴を紹介しますと、 まず建築と都市が好きだということ、 真面目である、 さらに社会に対して不器用だとも言えようかと思います。 なかなか世の中になじめなくて、 その結果としてメンバーは貧乏である。 つらいことに、 それが我慢できるのです。 大きな再開発や新都心の仕事をもらった方が金銭的には楽なのですが、 もちろんもらえないし、 その間のゴチャゴチャした地域を手がけて満足し、 しかも自信を持っている集団です。 言い換えれば、 金と権力とシステムの外にいる人間達で、 水谷先生の代名詞だった「在野精神」を体現しながら活動しているわけです。 ごく少数、 システムの中に入った人もいます。 今日も有光さんがおいでくださいました。
ただ、 今回の震災後の復興事業を見ていると、 あまりにも金と権力とシステムに振り回されている面が強いように思えて、 その中で貧乏に強い水谷グループが活動しているのは貴重なことではないかと自負していますし、 今後も頑張っていきます。
水谷先生が僕たちに残したものはたくさんありますが、 ○△□だけではなくて、 お金と関係なくやれる本当のまちづくりの面白さもその一つです。 今日来ていただいた方々も「在野精神」という点で、 共通項があると思っています。
そういう事情から、 今日お話ししていただいた方々に謝礼も出せなくて、 実はそのことが言いたかったのです。 すいません。
とにかく、 水谷グループは「在野精神」ひとつでやっておりまして、 せめてお話しいただいた方々に拍手を送りたいと思います。 本日は本当にありがとうございました。
1 まちの未来像を考える
森栗茂一
小森:森栗さんは「長田を見守る都市民俗学者」という奇妙な肩書きですが、 震災以降のご活躍はご存じのとおりです。 仮設住宅に行っても「あ、 テレビに出てくるおっちゃんや」と大変な人気ですが、 お人柄は大変まじめで、 ふるさと長田のために立ち上がったボランティア都市学者として活動されています。
前期近代都市と後期近代都市
さて、 民俗学者の仕事が何かを簡単に言うと、 時代の変化、 世相の変化の中に今あることを位置づけていくことです。 その観点から、 近代都市も前期近代都市と後期近代都市の二つに分けられます。 前期近代都市は、 職住が混在していてガチャガチャしているが活気がある。 後期近代都市は、 そんな前期を否定して工業地域、 住宅地域とまちをパシッと機能分化させようとした街づくりだと思うのです。 おそらく私達の社会は、 前期近代都市を引きずりながら後期近代都市の中に入ってきている状況ではないでしょうか。
震災以降に直面した「都市の未来像をどうするか」
さて震災以降、 私達が直面している状況はこういうことではないでしょうか。 それは、 かつてインナーシティに住んでいて被災された人は、 仮設住宅に暮らしながらもまち住区の記憶、 つまり前期近代都市の職住が一緒になっていた記憶を持っています。 それをどうやって、 次の新しいコミュニティに連続させていくべきかが問われているということです。 言い換えれば、 私達が前期近代都市で持っていた知恵や記憶を未来の住宅やコミュニティにいかにつなげられるか。
2 酒蔵のまちづくり
安福重照
小森:安福さんは、 灘の酒造りに長い伝統を持つ一族の方で、 現在酒心館会長を務めておられます。 灘の酒造りは今回の震災で大打撃を受けてしまったのですが、 安福さんはそれを乗り越えて新しい形の、 地域に根ざした産業とまちづくりを試みられています。 そのお話をお願いしたいと思います。
まちづくりと地場産業
ところで先ほどの専門家の方々のお話をうかがっていて、 震災のはるか前、 昭和30年代後半から神戸市が始めた埋立てのことを思い出しました。 当社は東灘区御影塚町にございまして、 埋立てが始まる前は白砂青松の景色に恵まれた地域でした。 向かいには紀伊半島が見え、 浜辺では網元が干魚を干している、 そんな景色が埋立てが始まって一変しました。
酒蔵のまちづくり、 震災前と震災後
さて、 神戸の酒どころは灘五郷のうち、 西郷、 御影郷、 魚崎郷の三郷です。 実は今の市長になる前、 宮崎市政の時代は埋立て等のこともあって、 神戸市と我々業界との間はぎくしゃくとした関係が続いていました。 今の笹山市長になってからは、 「酒蔵のまちづくり」という実に巧みなやり方で我々の頭をなでてくれるようになったのです。 「酒蔵のまちづくり協議会」もできました。 その元になったのは、 灘区のまちづくり推進委員会でして、 その中に「酒蔵のまちづくり協議会」がつくられたわけです。 総会には市長も顔を出されて我々と懇談し、 それまでとは一変した雰囲気の中でまちづくりが進んでいきました。 それぞれのメーカーを点としてそれらを線でつなぎ、 神戸市もそれに合わせて道路の舗装、 表示板、 照明等々の投資をしてくれました。 震災前年(1994年)に行った10月1日の「酒の日」には、 約1万人もの人びとが来てくれて、 素晴らしい将来を感じさせるまちが出来上がろうとしていたところでした。
3 行政とまち住区
大河原徳三
小森:大河原さんは、 神戸市の企画畑に長く在籍された方です。 特に街の中のコミュニティのあり方や育成に注目しておられ、 大都市の自治体の中では最初に丹念な調査をされました。 つまり、 ソフトなまちづくりを政策面でリードされてきた方です。 ではお願いします。
「まち住区」がマスタープランに登場するまで
大河原:まち住区という言葉は、 昭和40年につくられた神戸市の最初のマスタープランに出ていたと思います。 我田引水になりますがこれは非常に素晴らしいマスタープランで、 本質的なことだけ書いてあり、 計画の30年後、 震災前にはほぼ目標を達成することができました。 住民の目から見ても、 ひとつの大きな目標として分かりやすい設定だったのではないかと思います。
まちの魅力と行政の関わり方
しかし、 まち住区のまちというのは行政として非常に扱いにくい単位だったのではないでしょうか。 ですから、 震災以降「まち住区」としての施策は行政からは正面に出ていませんが、 先ほどのお話にもあった「酒蔵のまちづくり」、 また北野町の異人館を行政がある部分買い上げて、 観光資源としても活用しながらまちの人たちの生活とも一体化していこうという考え方は「まち住区」の考え方そのものです。 その地域の持っている魅力に対して行政がどう関わっていくかを形にしたものです。 その背景には、 まち住区的な考え方が生きていると思います。
4 まち住区とそれが生みだす産業
森田博一
小森:森田さんは、 水谷門下生の中では珍しい、 経営系のご出身です。 しかし、 お若い頃から地域開発や都市活動でご活躍をされてきました。 では、 お願いします。
まち住区が持つ3つの意味
森田:今回これをきっかけに、 まち住区の持つ意味を考え直してみました。 まち住区論は、 大きく3つに分けられると思うのです。
まちと産業の関係
住まいと経済が共存していくためには、 まずまち自身が自立していることが必要です。 もうひとつ必要なのは、 地場産業です。 かつて地域おこしが各地で提唱されたときも、 地場産業論が大きな役割を果たしました。 水谷先生自身もスケールの大きな「環播磨灘工芸都市群」という絵を描いたことがあります。 これは、 播磨灘を囲む淡路、 播磨、 備前、 讃岐の特産物による地場産業論です。 神戸市の場合でしたら、 地場産業はゴム・ケミカルになるでしょう。 ただ、 その頃は発展途上国がこれほど日本の産業を追い上げてくるとは思わなかった。 今では在来型の都市でのものづくりは、 不可能に近い状況になっていると言えます。
5 まち住区と復興の関わり
土井幸平
小森:最後にご発言いただく方は、 長らく東京の都市計画分野でご活躍の後、 関西へ来られた土井さんです。 震災後に大阪市立大学研究室メンバーを率いられて、 被害調査をされ、 その後もリーダーとして復興を見守っている方です。
復興課題の捉え方−「第二次復興計画」の提言
さて先日、 建築学会が東京で開催されたのですが、 そのシンポジウムで後藤さんが神戸の報告をされるのを聞きました。 やはり現場からの報告は、 大学の先生を霞ませてしまう力があります。 その時、 神戸大学の室崎先生が「後藤さん達のように現場で復興まちづくりに取り組んでいる人びとからは充足感、 燃焼感を感じるけれど、 大学の先生達の話はそこまでいっていない。 それを学会としてどうするんだ」と発言なさったのですが、 私も大学人の一人として身につまされるものがあります。
復興のポイントとなるまち住区構造の再生
ところで最初にちらっと話した東京と大阪の都市計画の違いについてですが、 大阪の町の特徴として旧市街地がグリッドパターンで出来ていることがあげられます。 これは、 大阪だけでなく、 京都、 神戸、 たくさんある門前町や堺、 尼崎の築地など関西の古い町はみんなグリッドパターンです。 西宮から長田に至る市街地整備の状況を見ても、 多くがすでに区画整理がされている。 それらの街並みの過去を辿ると、 関西の都市は古代の条里制が現れるのです。 条里制をベースにして耕地整理、 区画整理が施されたようです。
討 論
垂直積み上げ型のまちづくりに未来はあるか
小森:最後に土井先生から非常に示唆的なお話をいただきました。 リレートークでお話になった方々への質問だとも思います。 今のまちづくりは、 垂直積み上げ方式が多いんですね。 その方法で、 今までのまちが持っていたいろんな性格を吸収できるのかどうか、 それだけの弾力性があるのか。 インナーシティは防災上の問題を指摘される一方、 人間らしいまち、 助け合うまち、 いろんなチャンスを与えるまちとも言われてきました。 はたして中高層のニュータウン型まちづくりで、 以前の生活環境を提供できるかどうかはこれからの課題だと思います。 これについて、 先ほどお話ししていただいた方々にお考えを聞かせていただきたいのですが。
垂直のまちづくりの可能性
森栗:今の森崎さんのお話を聞いて、 垂直のつながりはできるのかなあと考えました。 中高層に住んでいると、 上の階に対しては「うるさいな」、 下の階に対しては「うるさくないかな」という気遣いが常にあります。 しかし、 そういったことはともかく、 大規模住宅ではそれぞれ他の町に住んでいた人びとが集まって住むわけですから、 その複合性が新たなコミュニティの可能性を持ってくると思うのです。 今までの前期近代都市では、 様々な職業や生活の仕方の複合がいろいろな可能性を生み出してきたわけでした。 そう考えると、 大規模住宅でもそれぞれの心にあるまちのイメージをうまくコーディネイトすると、 新たなコミュニティができる可能性があると考えられます。 しかも、 そこで半分ボランティアみたいな形で仕事をいろいろと複合させると、 ひとつのまちができるじゃないか。 だから高層だからだめだという問題を超えたものがあるのではないかと考えています。
企業と地元の関係を考える
安福:今回の再建の中で、 一番重要視しているのは地元の人びととの接触です。 ただ蔵を再建するのではなく、 蔵を開放して地元の人びとに来てもらいたいと考えています。 ですから、 居酒屋を蔵の中につくりました。 国道43号線沿いは飲食店をするには難しい立地で、 これまでもほとんど失敗しており、 残っているのはボーリング場のレストランだけです。 当社としてもリスクが大きいと考えていますが、 やはり地域のポイントは必要だと思います。 何よりも地元の人がそういうものを望んでいるということがあります。
まちの原点発見から魅力づくりへ
大河原:私は今観光関係の仕事をしておりまして、 そこから考えたことを申し上げます。 中央区でチューリップを集めて商店街で展示をするというイベントをしましたが、 震災後、 まちの人びとが中心になって動こうとする気持ちが強くなったように思います。
復興には異質なものを導入する視点が必要
森田:何度も出てきた議論だと思いますが、 「復興をどうとらえるのか」について再度考え直さないといけないと思っています。 先ほど土井先生は「第二次復興計画が必要だ」とおっしゃいましたが、 その第二次復興計画をつくるときの計画の中身は何なのか。 第一次復興計画をふくらませただけだったり、 元の同じ形をつくるだけが復興ではないと思うのです。
どういうまち住区論を持ち込むかで成否が問われる
土井:水谷先生の論文を読んでいくと、 東大阪、 板宿、 長田のインナーシティまち住区論があります。 震災後、 それらの地域の人々がまちの原点を求める動きがあるとのお話が出ましたが、 それを再構成していくと、 まち住区ができるのではないかという流れが論文の中にあります。
まとめ−水谷さんが残した功績と課題
小森星児
皆さんありがとうございました。 では最後にこれまでの議論の中から、 残された課題を整理・補足してみたいと思います。
都市計画家とは何か
話が横道にそれますが、 ヨーロッパの再開発の現場ではたくさんの若い人が働いています。 だいたいそういうところは危険で、 一人歩きできない地区で、 例えば、 パリのノール駅北側は古い住宅街ですが今ではアラブ人や他の外国人の方が多くスラムと化した地域です。 そこで若い人がハウジングの改造やホームレスの世話をしているのです。
まち住区実現の難しさ
第二に指摘したいことは、 まちづくりとまち住区についてです。 まち住区はそれまでの「近隣住区」という用語に比べるとさらに上位で、 住という関係だけではなく、 仕事、 遊び、 学ぶという関係で結ばれた人々のまとまりだとしています。 それはよく分かるんですが、 かなり強引な接着が試みられている。
まち住区と復興はどういう関係にあるか
第三に課題として指摘したいことは、 まち住区と復興はどういう関係にあるかということです。 やはり神戸の魅力とは、 個性を持ったまち住区がたくさん存在していることじゃないでしょうか。
未来への視点
ただそれまでのまちが持っていた魅力を、 ガラガラポンの高層住宅が実現できるのかという問題があります。 私自身は難しいと思っています。 それはもし自分が貧乏になったらと想定したら分かりやすいと思いますが、 昔ながらの低層に住んでいたら貧乏になったとしても土地を半分に割ってどちらかに住む、 上下に分かれて住む、 あるいは下で仕事を始めるなど、 柔軟に対応できたわけです。 中高層にそれだけの柔軟性があるのでしょうか。
在野精神(貧乏なんて怖くない)
後藤祐介
最後に水谷ゼミナールの世話人として挨拶させていただきます。
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