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リレートーク

復興とまち住区論


「まち住区」は「ロマン」である

(まち計画・山口研究室) 山口憲二

 このリレートークでは、 震災を契機にして、 あるいは震災以前から具体的なまちづくり活動にコンサルタントとして関わってこられた4人の方に、 それぞれの現場における「まち住区」について報告をしていただきます。

 まず、 それぞれの方にお話していただく前に、 私自身のことを若干お話しさせていただきます。

 水谷さんが亡くなられたあとの水谷ゼミで「まち住区」の勉強会をした時、 水谷さんの「まち住区」は「ロマン」なんだろうという解釈で話をさせていただいたことがあります。 いわゆる「ロマン」というのは良い意味でも悪い意味でも言えるわけですが、 悪い意味で言うなら、 現実には全然効力のない、 かなり幼児願望的なところもあるような論ではないか、 論としての構成なり形態も整っていないのではないか、 とも思っていたわけです。

 私自身の生活実感としても、 いわゆる「まち」なんていうものが果たしてあるのだろうかと、 「まちづくり」という言葉にもかなり欺瞞的な匂いも感じていました。

 それがこの震災を契機に、 私自身二つの地区で復興まちづくりに関わる中で、 「まち」というのはやはりあるんだし、 あらねばならないのだと思うようになりました。 復興前はかなり「まち」に対する思いが覚めていたのが、 少し元気を取り戻し、 そういう意味では、 私もロマンを持つ人間の一人になったのです。

 ただ、 これからのことを思うと、 いろいろ課題があるだろうと考えています。 私の話はこれくらいにしまして、 さっそく後藤さんから始めていただきます。


新在家南地区まちづくりとまち住区

(ジーユー計画研究所) 後藤祐介

私の「まち住区」論

 もともと「まち住区」論は概念の話ですが、 概念だけではなく、 この復興にどう役立っているのかということを、 実践論でお話したいと思います。

 まず、 私は、 ニュータウンを多く手掛けた経験から「近隣住区」の虚しさがよくわかっています。 その「近隣住区」に対するアンチテーゼとしての「まち住区」論は意味があるのではないかと思っています。

 それから、 今回の復興は既成市街地でのことであり、 「用途の純化」や「用途論」では単純にはまちはつくれないと考えているということです。

 地域住民がわが町を愛するという気持ちで、 まちづくりに取り組んでいます。 人間がいるという世界の中でこそ「まち住区」ということが言えるのではないかと思います。

 「用途論」について言うと、 住宅だけのまちではなく、 用途の混在性の中のまちということ、 多様な職種の人が集まって住むということに、 いちばん強く引きつけられます。

 私の関わっている新在家南地区でも、 お酒をつくる人、 樽をつくる人、 レッテルをはる人、 運送する人、 いろんな人が混じって生活しています。 そういった多様な人が集まって住むということが「まち」であり、 既成のまちにある歴史や文化を大切にした、 地域のアイデンティティのあるまちが「まち住区」ではないかと思います。


新在家南地区の概況

 新在家南地区は、 灘五郷の酒蔵のまちです。 国道43号で地域が分断されていますが、 約27haの地域に7社の酒蔵が点在し、 住宅も、 印刷工場もあるという中で、 まちが成り立っています。 惜しいことに国道43号で分断されていますが、 43号の北側にも、 まだ昔の灘五郷があり、 阪神まで続いています。 その中で、 昔の旧西国浜街道をコミュニティ軸にしてまちが成り立ち、 まちづくり協議会が活動しています。

新在家復興まちづくり構想図

 このエリアの中には、 清酒メーカーと住宅、 神戸製鋼所と小泉製麻といった企業など、 いろんな職種、 職業、 職場があります。 その中に、 社宅や下宿などの住宅もあって、 まちが成り立っています。


「まち住区」的取り組み

 一つは、 「まちづくり協議会」があります。 住民(自治会・老人会・婦人会が母体)だけではなく、 企業(西郷会という清酒メーカーのグループ・神戸製鋼所・小泉製麻など)も、 「まちに関係があるのだから、 いっしょにまちづくりをしよう」ということで、 会員になっていただいています。

 この地区では、 まちづくりの目標を「清潔で住み良く、 働き良い街への再生」として、 「住む」という機能だけでなく「働く」という機能のまちを意識しています。 また、 食品工業、 清酒メーカーが多いので「清潔」をキーワードに掲げています。

 土地利用の方針としては、 やはり用途のすみ分けをしているのですが、 「居住ゾーン+生産ゾーン+集客施設ゾーン」となっています。 企業も、 時代の中でリストラをしながらどんどん業態を変えていっておられる中で、 工場が集客施設ゾーンに変わっていくという方向にあわせ土地利用の方針を考えています。

 その他「まち住区」的取組みとして、 景観に関することがあります。 歴史的な街並み、 酒蔵の街並みが残るところを「景観形成配慮道路」として「まちづくり協定」でまち並みを誘導していこうとしています。

 それから、 「ものづくり」として具体的に「酒蔵の道」をつくっていただいたり、 その南側にある灘浜運河を、 「なぎさ海道トレイル」と名づけて、 位置づけています。

酒蔵の道復興イメージ図

 このように、 単に安全で便利なまちをつくればいいということでなく、 地域の人が入り、 職住の混在があるという「まち住区」的な内容のことができているのではないかと思います。


「まち住区」の観点からの今後のまちづくり課題

 今後、 地域のまちづくりの中で出てくる課題として、 「新世帯と旧世帯の融和」があります。 古いまちをどう構成していくかという修復的なまちづくりに取り組む一方で、 小泉製麻さんが神戸市に土地を売られ、 現在500世帯住んでいるところに、 600戸の公営住宅ができてきます。 新しい住民と旧い地域の住民とが、 全く別々になってしまうのか、 融和していくのか。 たぶん別の自治会はできるでしょうが、 まちづくりとしてはどのように取り組んでいけばいいのか、 といった問題があります。

 企業がどう変わっていくのかということも、 最近非常に気になっています。 清酒メーカーも経営が苦しくなってきており、 神戸製鋼所も、 業態そのものを変えてきています。 企業は経済の論理で動きますから、 我々と一緒にやりながらも、 ついてこれないところがあります。 企業がどう変わっていくかによって、 まちもどう動くのかが大きな問題です。

 最後に、 今私が扱っている、 この新在家のまちは、 六甲道や東部新都心などの新しい都市計画に比べて、 地図を見てもわかるように非常にごちゃごちゃしています。

新在家灘浜地域周辺動向図

 このような、 人間もいて職場もあり、 人と経済、 何もかもが複合しているようなまちを「どうしていくか」ということをやらせてもらっているのは、 非常に幸せなことだと思っています。


まちを支える地域力〜個と全体の狭間

(神戸・地域問題研究所) 宮西悠司

「まち住区」論の位置

 具体的な事例を通しての「まち住区」というより、 ちょっと感じた話を述べてみたいと思います。

 水谷さんがなぜ「まち住区」という概念にこだわったのかですが、 我々の世代と水谷さんの世代は違うのかなと思います。 戦災復興から高度成長へと、 日本の都市がどんどん膨脹していく最中にあった水谷さんの時代と、 高度成長のまっ只中に最初から巻き込まれ、 あくせく仕事をし、 ものを考える暇などなかった我々の世代を思うと、 水谷さんの世代は非常に動きが鈍いところから激しいところに移行していく中で、 おそらくいろいろなことを考えられたのだと思います。 その一つが「まち住区」です。

 最近発行された『造景』の11号で、 元東大教授の大谷さんが「麹町計画」に触れておられました。 水谷さんは、 当時丹下研究室にいた大谷さんと一緒にこの計画に参画しています。 大谷さんは対談の中で、 ニュータウンをつくることに対しての批判として、 「麹町計画」を世の中に出さざるを得なかったと話されています。 「全体から個へ」という時代の中で、 「個から発想する」ということがあったのではないかと思います。

 私が都市計画を勉強し始めた昭和40年頃、 神戸市は第1次マスタープランを仕上げています。 その中で、 白地図の上に黄色い丸を描いただけのものではありますが、 「近隣住区の設定」がなされています。

 その頃、 外国でニュータウンをつくっていく理論、 または既成市街地を理解する上での理論として「近隣住区」があり、 それを日本で適用して考えるとどうなるかということを、 いろいろな先生が勉強されています。 欧米では、 教会を中心とした「教区」で一つの「近隣住区」いう概念が成り立ちましたが、 日本では「小学校区」であるということで、 千里ニュータウンなどのニュータウン計画に引き継がれ、 小学校区単位を一つの単位として住区をつくり、 もう少し大きな単位で生活圏、 例えばショッピングセンターを持つ形の単位をつくっていくということが行われていました。 たぶん、 そういうことに対して、 水谷さんはやりきれなさを感じていたのではないかと思います。

 そして「ニュータウンとベッドタウンの区別化」ということがあります。 昭和40年の神戸市のマスタープランには「ニュータウン」という言葉と「ベッドタウン」という言葉が区別されて使われています。 「ニュータウン」とは何かというと、 職住近接という概念がそこにはっきり現れています。 昭和40年頃にそういう議論をしていながら、 そのあとつくってきたまちは、 職住近接ではなく職住を分離する形でした。 そのギャップが水谷さんの中にあったのではないかと思います。

 水谷さんは都市計画家であり、 限りなく建築家でありたいという人でもあり、 建築−まち−都市というものを同一の視野に納められる類いまれな人だったという気がします。 水谷さんは、 大阪湾を中心として都市というものを全体的に管理運営していかなければならないという発想を込めて「コートハウス→まち住区→ポートオーソリティ」という言葉を使っていた時期があったと記憶しています。 水谷さんの頭の中には「建築−まち−都市」をどうとらえていくかという枠組みができていて、 その中の一つが「まち住区」という論に展開されているのではないかと思います。


私と真野の出会い

 そんな昭和40年頃の時期に、 私は神戸に来ました。 水谷さんのところへ行き、 また、 神戸市に行くと、 ただ東京から神戸に流れて来ただけの学生をつかまえて「おまえ、 真野知ってるか」と訊かれ、 「知らない」と答えるのも癪だから適当なことを言って、 その晩帰って勉強して、 また次に行って…そんなことを想い出します。

 私が真野に関わったのには変な因縁があります。 私の都市計画の先生である川名先生という方は、 水谷先生の先生でもありました。 大阪市立大学から東京都立大学に移られ、 私はそこで教わりましたが、 神戸市の第1次マスタープランを川名先生がお手伝いされているわけです。

 昭和30年代には、 それまでの丼勘定の自治体経営を、 計画として管理していこうという時期に入っていました。 いろんな都市問題が起こって「都市の病理」という言葉が生まれます。 都市がどういう病気にかかっているかを、 社会学や政治、 地理の先生方が全国的に調査し、 その結果としてマスタープランが自治体の中でつくられていきました。

 そうした調査を通して、 川名先生は、 住工混合地域としての真野が抱えるいろいろな問題は、 そう簡単に「近代都市計画」で言う「用途分離」で解決できる話ではないということを、 見ておられた思います。 そして今日参加されている神戸市役所の大河原さんらに「真野を勉強しろ」と言い遺して東京に行ってしまわれたわけです。 大河原さんは何を勉強しろと言われたかわからない、 困った、 という状況のところへ、 私がたまたま舞い込んで、 真野に関わるようになっていったわけです。

 真野というのは、 「職住近接」と言うと良く聞こえますが、 「住工混合、 公害の町」というような惨澹たる状況のまちでした。 結果的にはそこで住民運動が起きて、 今日の住民主体のまちづくりへと展開してきたのですが、 川名先生や水谷先生が注目していたのは、 そこに人間がおり、 いろんな地域の活動があり、 お互いにみんなが支えあっているという状態が「まち」として認識できる、 そこのところがまちの中でいちばん大事だということを、 まちづくりとして個から全体を見渡す中で、 思っておられたのではないかと思います。


震災を経て、 論から実態化に向けて

 我々の場合「まち住区」論をどうやって実態化させていくかということが仕事で、 いろいろ悪戦苦闘してきたのですが、 今回震災で「まち」というものをみんなに認識させたということは、 住民主体派の私としては非常に良かったのではないかと思います。

 その後、 どんどん変化していくまちを良い方向に導いていくために、 いろいろな制度が必要になってきていますが、 日本の縦割りの行政機構の中ではなかなかうまくいかない。 例えば、 まちづくりの中で住宅の話、 道路の話はできるけれども、 工場の話などは、 とてもじゃないけれどできない。 そういう中で産業と生活、 「まち住区」をどう考えていくかと言っても、 できるわけがありません。 しかし例えば今回の震災で工場がつぶれた、 公営の共同工場をつくろうと考え、 実際にそういうものができています。 このように、 今回の震災で少し風穴があいたり、 新しい方向性が制度または実態として出てきているということでは、 震災は、 これからまちをつくっていく我々に多大な贈物をしてくれたと思います。


「個」から「全体」に積み上げていく
建築家の職能

(森崎建築設計事務所) 森崎輝行

私と水谷穎介さんとの関わり

 私の震災に関する取り組みには、 真野と宮西さんからの教訓や、 三宮で水谷先生と酒を飲みながらしゃべったり(それが水谷先生だと、 後でわかったのですが)、 小林さんやいろいろな方から水谷先生についてお聞きしたことが影響しています。

 私たちの学生時代、 神戸大学建築科では、 水谷さんのところへアルバイトか居候か夕食を食べに行くか、 または毛綱モンタという建築家のところに入り込んでしまうというのが、 およそのパターンになっていたものです。 私はあまり勉強もせず麻雀ばかりやっていましたが、 元来建築が好きだったので、 建築設計事務所に入りました。 2、 3年後、 安藤忠雄さんのところへ移りましたが、 安藤さんは、 水谷さんと少なからず関係がありました。 そう考えると、 安藤さんや宮西さんほかいろいろな方とのつながりから、 私は水谷さんの孫弟子になるのかもしれないと思っています。


私の「まち住区」観〜真野と団地計画の経験から

 私が読んだ論文では「町住区」という漢字でしたが、 なぜひらがなの「まち住区」に変えたのかわかりませんが。 私が常々言う「漢字はなかなか動きがないが、 ひらがなで書くとよく動く」という意味では、 変えると良いのかなと思ったりもしています。

 この「まち住区」という考え方を以前に読んだときは、 何のことかよくわからなかったのですが、 街区の中にポケットパークを取りこんでいくという展開を総合的・形態的にネットワークする真野の計画図面を見たとき、 こういうことを実践的にどうすすめていけるかということを常々考えていました。

 ところで、 安藤さんのところから独立した私は、 住宅・都市整備公団からタウンハウスの造成の仕事を委託され、 全国各地20か所くらいのタウンハウスを計画しました。 実際にできたものでは、 広島市の廿日市や鈴が峰などがありますが、 そういう、 山を切り開いての団地計画・基盤整備を手掛けました。 これはまったく住宅しかない都市です。

 こういう二つの経験から、 私は「まち住区」を大きさでとらえると、 行政区から一歩さがった、 中間的な領域を持つということだと考えています。 例えば、 30万人くらいの人口を10個に割って3万人くらいにしていく。 たぶん小学校区的な単位として成り立つと、 わりと地域のコミュニティが繋がるのではないか、 それも、 子どもからおばあちゃんまでというように世代の若いときに繋がっていなければ、 次の時代になかなか繋がらないのではないかと考えています。

 逆に小さな単位からいうと、 アレキサンダーの言う30人、 世帯で10世帯から始まるような社会的小集団を積み重ねていって、 約10ブロック、 面積10ha、 1,000世帯3,000人くらいのかたち。 これが野田北部の鷹取東という区画整理事業と合わさった地区に該当します。 このエリアを、 まちとして何か旨くいくのではないかと、 震災前から観ていました。


「個」と「全体」〜
「個」から「全体」に積み上げていく方法論

 震災を経て、 私の建築家としての職能性についてのポリシーは次の4つです。

 まず一つはクライアント=「個」に対しての利益保全をいつも思っています。

 二つ目は社会への利益還元をやりたい。

 三つ目は社会と「個」の矛盾をどのように克服し連担させるかということです。

 四つ目は、 時代の継承、 つまり次の時代をどうしていくかというようなことをしなければならないと、 思っているわけです。

 特に「個と全体」ということについては、 個が個であって、 個が成立した中で全体に連担させていくという方法論と、 全体から分割して個に持っていくという方法論の二通りがあると思いますが、 都市計画の方は後者であり、 私たち建築家は個からの積み上げで全体を構成するという方法をとりたいと思っています。

 その「個から全体」に積み上げていく方法論として、 区画整理を例にとると、 それぞれの権利者の方々に一人ずつ会い、 住宅プランなども合わせて話をしながら、 個を積み上げていくわけです。

 かたや「全体」としては、 私の持つ区画整理の全体構想のように、 街区に小ポケットパークをつくり、 歩行者のネットワークで組み、 中にはやはり宅配便も通るだろうということで、 その地区にとって必要なものだけを通すための車のネットワークをつくる。 こういう構想のイメージを地元の方と協議するのではなく、 個々との相談の中で「個」の成立を図りつつ、 仮換地をパズリングしていくということをしてきました。

公共施設整備基盤図

 つまり、 「個」から発想する「全体」へという考え方は、 「個」を成立させておかないと「全体」がなかなか形づくれない。 そして「全体」を形づくるときに「個」の修正というのもあり得るわけです。

 「まち住区」論の中にもあるように、 商売との兼ね合いや、 まち全体のビジョンを個々がイメージし、 「個」を修正しながら積み上げていくといった動きが、 ある種の文化的な話にもつながると思います。 「産業」「文化」で考えていくと、 また全体の分割になるので、 そうではなく個々の方が文化性・経済性を考えていく中での積み上げをしていくと、 そのような一つの形成ができる。 そして、 その時に、 個の方が経済性、 文化性をどのようにしていくかということが、 必要なのではないかと思います。

 水谷先生が言外に書かれている、 建築家としても都市計画家としても、 まちづくり人間としてもこだわりを持ちながら、 どのようにも変化させていくファジィさのようなもの、 それが私が読み取った水谷さんの思いです。


新長田駅北地区(東部)まちづくりと
まち住区

((株)久保取り計画事務所) 久保光弘

「事業調整型協議会」から
「ビジョン共有達成型協議会」へ

 水谷先生の論文を読んで、 その実践を具体的にどういう方法論ですすめていくかということが課題ではないかと思います。

 私は震災前から関わっていた味泥地区と、 今回急遽「復興土地区画整理事業区域」となった新長田という、 二地区に関わっています。 新長田については、 いきなり事業ですので、 通常のビジョン・コンセンサスがあって事業のコンセンサスがあるという流れが逆転しています。 そのためか、 仮換地が終わると、 それで事業が終わったというムードになる傾向があります。 しかし、 ビジョン・コンセンサスがなければ、 将来への展望がありません。

 仮換地が決まるまでは事業調整的な動きからなかなか離れず、 実際に仮換地が始まると具体的に建築が建っていく。 その間にどうコンセンサスができていくかという、 非常に難しい事業です。


「ミックスト・ユース」の実践

 水谷先生の「まち住区」論の中の具体的な考え方の一つに「ミックスト・ユース」があると思います。 この「ミックスト・ユース」という言葉は最近も使われ始めていますが、 単に混在している、 多々の用途があるということだけではなく、 複合・連関している中でどう新しい価値をつくっていけるかという、 積極的な意味での「複合」であり、 積極的に取り込んでいく必要があると考えています。 長田でいうと、 都市の資源を活かす都市資源ビジネスをどう広めていくかということではないかと思っています。

 20世紀の一つの思想として「用途分離、 用途純化」でまちの秩序づけをし、 単一機能で効率を図るという高度経済成長期の考え方がありますが、 「ミックスト・ユース」という複合・連関の中での新しいまちの秩序づけには、 「環境・景観」が重要になってきています。

 「長田の良さを生かした街づくり懇談会」が震災の年の6月に提案したコンセプトは「杜(森)の下町・長田」です。 下町は「ミックスト・ユース」や「まち住区」という概念にあたり、 森は「環境」にあたるということで、 非常に重視すべきコンセプトではないかと思っています。

 そういう中で、 私は新長田地域のエコロジカル・ストラクチャーとして「新条理都市・ながた」という考え方を提案しています(『きんもくせい』46号)。 これは新長田の土地区画整理事業区域だけの問題ではなく、 全体として山から海への方向が出なければ、 一部の地域が頑張ってもどうにもならない、 ストラクチャーとしての共有イメージをつくる必要がある。 その共有のための環境として提案したもので、 「風水思想」を見立ての手法としています。

 また、 産業・経済の部分的な施策として、 ケミカル産業を集約してある場所にまとめるという考え方もありますが、 「まち住区」「ミックスト・ユース」という考え方をすすめ、 ケミカル産業の復興を地域(製造)文化振興としてとらえなければ、 次の展開は開けないのではないかと思っています。


「まち住区」の視点からの今後のまちづくり課題
産業をまちに埋め込むしくみづくり

 今後は、 少し気持ちの余裕のある地区から合同してビジョンをつくろうと、 「地区発展計画(生活・産業ビジョン)」や「いえなみ憲章」「道路・公園アメニティ管理計画」を検討・実行しようとしています。

 「地区発展計画」は、 「産業地区創造懇談会」(工業系の6協議会と中堅の企業)と「商業関係懇談会」(商業系の7協議会)を中心に、 検討中です。 なにしろ新長田で21の協議会があり、 東部でも11ありますので、 状況に応じて合同するかたちで懇談会を開きながら、 ビジョンをつくり始めています。 この段階では、 他の協議会と調整したり、 協議会自身の中で揉まれる必要があるので、 まだ仮の姿ですが、 「新長田駅北地区(東部)まちづくりビジョン(コンセプト)案」というものをあげています。

 また、 靴をつくっている長田と消費者との接点がないという状況から、 消費者にできるだけまちに来てもらい靴に接してもらうための「シューズ・ギャラリータウン構想」という大きなコンセプトもあげています。

 この中にある「シースルー工場(見える工場)」や「ショーウインド付工場」を「いえなみ憲章」の中に折りこんで、 できるだけうまく設置していけるよう努力していこうしています。 アメニティ基盤としては、 土地区画整理事業により、 かなりいい基盤ができますので、 それにソフト・ハードのしくみをつくっていこうということです。

 こうした「ミックスト・ユース」の具体的な手法の中で痛感するのは、 「システムデザイナー、 システムプランナー」の必要性です。 長田のケミカルの工場もそうですが、 ばらばらに存在している住工商の素材をつないでいくことによって何かを生んでいけるようなシステムプランナー、 システムデザイナーとして、 「産業地区創造懇談会」には住宅復興メッセの仕掛け人の平田さんに参加してもらっています。

 その中でできつつあるのは、 ある企業が開発した足型の測定器を使って、 来街者の足に合う靴をそこでつくれるようなアンテナショップをつくることです。 いろんなタイプの靴をつくっている小さなメーカーと繋ぎ合わせていくことができるのではないかという話も出ています。

 また、 高級な靴のメンテナンスを個々の企業と結びつけるシステムも検討中です。

 こうした「シューズタウンギャラリー構想」は、 地域の中で「造る」「売る」「来てもらう」という産業の循環システムをつくっていこう、 そしてそれをオーガナイズしてもらう専門家を育て、 行政から支援してもらうことを考えていこうというものです。

 こういうことを協議会のまちづくりニュースで発信しながら、 まちづくりというのは何が起こるかわからないので、 幸運が起こることも期待しています。


「用途混在」の計画的評価と
「個と全体」の調整

(まち計画・山口研究室) 山口憲二

 4人の方の現場を踏まえた報告は、 それぞれの地区によってテーマも地区の広がりも違い、 また「まち住区」理論との重ね合わせということでは、 「まち住区」論そのものの“ファジィさ”もあって、 なかなか焦点が絞れないという印象を受けました。

 共通点としては、 4つの地区のうち3つまでが長田地区であることや、 まちの特性として住工の用途混在がベースにあることなどがあります。

 「近隣住区」理論に対する一つの反論として「まち住区」理論というのが生まれたという経緯を踏まえて、 やはり用途混在、 ミックスト・ユースを積極的に評価しながらまちづくりをやっていこうという姿勢は、 みなさん同様であると思います。

 また、 「全体」と「個」の関係において、 「個」の発想、 現場からの発想、 あるいは住民主体ですすめていくという進め方についても共通していると思います。

 水谷先生が、 都市計画もやり建築もやりということで、 板宿の区画整理事業をベースにしたまちづくりの計画を立てながら、 それを具体的な建築のレベルまで含めた未来像としてまちのあり方を提案されたり、 三宮東の区画整理事業の中では1階にお店のスペースも持った共同住宅の設計をされていたのと同じように、 「個と全体」の調整をどう図っていくのかということを、 実際にまちをつくっていく上での具体的な課題として提案されていたと思います。

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