さらに遡って見ると
東灘、 灘の豪族
このような成り立ちだったのですが、 それ以前に遡りたいと思います。
この辺りは六甲山の南側のふもとです。 昔から土地が肥えており、 原始時代から人が住み、 早い時期から農耕が始まり、 集落ができていたと考えられます。 六甲山の南には川がたくさん流れておりますが、 二〇〇〇年ほど前の弥生時代には、 この川ごとに集落ができたのではないか、 そして、 その集落ごとに、 小さな国家ができていたのではないかと考えられます。 その小さな国家を牛耳っていた豪族達もいたでしょう。
四世紀から五世紀にかけて、 天皇家を中心とし、 蘇我、 物部、 大伴などの豪族による連合政権である大和政権が成立していました。 その大和政権に組み込まれた豪族が、 この辺りの川沿いにも小さな国家をつくり、 生活していたと考えられます。
それらの豪族の名前を挙げますと、 旧本庄村あたりを牛耳っていた葦屋漢人(あしやのからひと)、 本山村あたりを牛耳っていた大和連(やまとのむらじ)、 魚崎を牛耳っていました雀部朝臣(ささべのあそん)、 住吉には住吉朝臣(すみよしのあそん)、 御影の地域には鏡作連(かがみつくりのむらじ)、 といった豪族がいたと考えられています。
このように、 御影には、 鏡を作る専門集団がいたようです。 御影という名前の由来は、 この鏡から来たのではないかと、 歴史的には考えられております。 つまり、 鏡とは影を見る、 カゲミですから、 それがひっくり返ってミカゲになったのではないかと考えられているわけです。
灘区には、 南部の岩屋の浜に津守氏(つもりのうじ)、 これは、 敏馬(みぬめ)神社と関連のある豪族だと考えられます。 古代には、 敏馬のあたりには敏馬の浦という港がありました。 津というのは港のことで、 その港を守っていた豪族であろうと考えられます。 それから、 灘区の北部には凡河内氏(おおしこうちのうじ)という豪族が見られました。 これらの豪族がこの地域を牛耳っていました。
郷の成立
その後、 豪族は淘汰されて行きます。 六四五年に大化の改新、 七〇一年に大宝律令という法令が中国から輸入され、 その大宝律令に基づいた律令制により、 地方行政が確立されていきます。 律令制により全国を六〇数ヶ国に分け、 その国の中をいくつかの郡、 その郡の中をいくつかの里に分けるという、 国(こく)・郡(ぐん)・里(り)(又は郷とも書く)という体制が成立します。 それにより、 このあたりは、 摂津国(せっつのくに)となり、 郡の名前は今の夙川(しゅくがわ)から生田川までの六甲山より南側は摂津国菟原郡(うはらぐん)となります。
菟原という名前は、 今もこのあたりで結構見られます。 例えば、 東灘区民センターの大ホールを菟原ホールと言います。
そもそもの菟原の由来については、 きれいな海、 海原から来ているのだという説と、 六甲山の野原を駆け巡っていた菟(うさぎ)がたくさんいたので菟原とついたと言う説の、 二つに分かれております。
そしてこの菟原郡の中に、 葦原郷(あしはらのさと)、 加美郷(かみのさと)、 佐才郷(ささいのさと)、 住吉郷(すみよしのさと)、 覚美郷(かがみのさと)、 津守郷(つもりのさと)、 天城郷(あまぎのさと)、 といった郷(さと)が出来上がります。 その郷から、 先ほど申しました、 旧村々を構成する村落が出来上がっていったのです。
裕福であった東灘、 灘
江戸時代以降、 このあたりは尼崎藩の藩領で尼崎とのつながりがありました。 明和六(一七六九)年の上知令(あげちれい)という法令で、 このあたりは尼崎藩領から天領に変わります。
このあたりは、 江戸時代以来、 かなり裕福な土地でした。 と言いますのは、 この辺りには、 一揆を起こしたという記録がほとんど無いのです。 阪神間、 特に神戸の東部では、 一揆が起こったという記録がほとんどありません。 ということは、 村の人達が、 ある程度、 生活に満足していたと考えられます。
江戸時代以来、 阪神間、 特に東灘、 灘には、 水田も多く、 農業が盛んでした。 また、 海を利用した漁業も盛んでした。 しかも、 江戸時代の中期以降になりますと、 浜の方に酒蔵が建って、 酒が経済の基盤として出来上がっていきました。 このことから、 このあたりは、 経済的にかなり恵まれていたと考えることができます。
このような条件のもと、 明治時代にはこれらの村が幾つか集まり、 冒頭に申し上げました、 東灘に五ヶ町村、 灘に三ヶ町村ができていきます。
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