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名前の由来とこだわり

灘の由来

改行マークここで、 灘という名前の由来について説明したいと思います。 そもそも、 灘という言葉は、 海を意味します。 例えば、 玄界灘、 遠州灘などです。 しかし、 灘は陸地ですから陸地に海という地名がついたことになるのですが、 江戸時代以前の資料を見ますと、 これには、 灘ではなく、 灘の辺り、 灘辺(なだべ)という名前として出てきます。

改行マーク都が京都、 奈良にあった時代には、 都から西に日本が発達していました。 今で言えば、 京都から九州に行く山陽道が、 当時の国道一号線に相当しました。 山陽道は、 京都を出発し、 今の国道一七一号線を通り、 伊丹から西宮に出ます。 そして、 ちょうどこの辺りで、 都を出た旅人が初めて海を見るのです。 この理由より、 旅人達の第一印象が海となり、 海の辺り、 灘の辺りということで、 灘辺という名前ができたと思われます。

改行マーク灘辺が言いにくいものですから、 この辺(べ)が目(め)という字に変わりまして、 灘目という名前に変わります。 江戸時代の地図には、 灘目が出てきます。 それが、 また、 いつの頃からか、 目という字も取れ灘となります。 灘辺、 灘目、 灘と変化したのが、 灘という地名の由来だと思われます。


灘の中心はどこか

改行マーク今でこそ、 東灘、 灘と名前を二つに使い分けておりますが、 歴史的な意味では、 間違いです。 本来は、 今の灘区、 東灘区の全部が灘です。 そして、 灘の中心は、 実は、 現在の東灘区に相当する部分なのです。

改行マーク酒造地帯として今津、 西宮、 魚崎、 御影、 大石・西郷が知られており、 灘五郷といいます。 しかし、 江戸時代には、 西宮、 今津は入っておりませんでした。 灘三郷と呼ばれた魚崎、 御影、 大石が灘の酒造地帯だったのです。

改行マーク江戸時代の中期から幕末にかけて、 灘のお酒が江戸に送られます。 そして、 将軍が灘のお酒を誉めたので、 それが評判となり、 灘の酒が全国展開します。 幕末になりますと、 全国の酒の六〇%以上のシェアを、 灘の酒が占めることになります。 ですから、 灘の酒でないと売れないわけです。 そこで今津と西宮は、 それぞれが造るお酒を売るために、 明治に入り、 灘に入って灘五郷と称するようになったのです。 ですから、 本来は、 灘は灘区、 東灘区の辺りで、 しかもその中心は灘区ではなくて東灘区の御影のあたりです。

改行マークですから、 御影が本来の意味で灘の中心地なのです。 今の灘区は歴史的な背景で言えば昔の村と同じく西灘という名前が正しいのです。 つまり東灘が灘で、 今の灘が西灘というような概念が一番正しいと思うのです。


灘区、 東灘区の合併

改行マーク神戸市は区の名前を付けるときに、 灘区と東灘区というような歴史とは逆の名前を付けました。 この理由は、 神戸市が灘区にあたる灘三ヶ町村を先に合併していたからです。

改行マーク昭和四年に西灘、 六甲、 西郷という三ヶ町村が神戸市に合併されます。 その二年後、 昭和六年に神戸市が区制をしきます。 その区制をしく時に、 すでに合併している西灘、 六甲、 西郷の三ヶ町村が灘の一番西端に掛かっていたので、 灘区という名前を付けたのです。

改行マークところが、 東灘区を合併するときに、 これが大きな問題となりました。

改行マーク東灘区は、 昭和二十五年、 戦後になって合併します。 しかし、 この地域には戦前から隣の芦屋市と一緒になって一つの市となる構想がありました。 これは市の名前も決まっておりました。 六甲の南で甲南市、 あるいは灘の中心だから灘市ということでした。 これは、 もうすぐ実現というところまできて、 当時の内務省まで報告は上がっていたのですが、 戦争が始まり、 駄目になってしまったのです。

改行マーク戦後になり、 五ヶ町村は自力での復興は難しいという問題に直面します。 その際に、 神戸市が合併の話を持ち掛けるのです。 その時、 実は隣の芦屋市も合併の話を持ち掛けていました。 結局、 東灘五ヶ町村を中心に、 神戸市と芦屋市が綱引きをはじめたのです。

改行マークまず、 最初に神戸市に傾いたのが、 五ヶ町村の中の御影、 魚崎の二つの町でした。 御影、 魚崎は早くから神戸市に合併したいという意見を持っておりました。 これに対して、 住吉では合併の必要性を疑問視する意見もあり、 あまりどちらにもなびかなかったのですが、 両サイドが神戸市に合併する意向を見せたので、 とりあえず神戸市に合併することとしました。 この結果、 まず、 御影、 住吉、 魚崎が神戸市に合併する案を出すことになったのです。

改行マークところが、 本山、 本庄は、 神戸市に合併すると、 市の中で一番東端に位置してしまいます。 両者は、 市の端に位置してしまうので放置されるのでは、 と思って最後までもめます。 村会議員のリコール運動とか、 あるいは住民投票にまで発展していきます。 本庄の中には、 神戸市の端になるよりも芦屋市の真ん中になる方がいい、 という意見もあったようです。 結局、 昭和二十五(一九五〇)年の四月一日に御影、 住吉、 魚崎がまず神戸市に合併します。 本庄、 本山は一緒に合併はできず、 半年おくれの同年十月十日にようやく合併し、 今の東灘区の領域ができあがるわけです。


東灘が、 本来の灘

改行マーク御影、 住吉、 魚崎の三ヶ町村が合併した時に、 区の名前が問題になりました。 三ヶ町村側は灘という名前にこだわりました。 ここが灘の中心なのだから、 ここを灘区にしてもらいたい、 ということを言うのですが、 すでに神戸市は灘区をつくっています。 ですから、 今の灘区をやめて西灘区にするということはできません。 灘区にしてくれなかったら合併しないとか、 こっちが本当の灘だから、 本灘区にしてほしい、 などいろいろな意見が出ました。

改行マーク結局、 当時の市長の裁断で、 現行の灘区の東隣ということで、 東灘区という名前が付きました。

改行マークこのような経緯から、 今の東灘は、 本来の意味では灘ということになります。 ですから、 コープこうべの前身のひとつ、 灘生協は住吉にあります。 これは正しいのです。 受験の名門校、 灘中学校、 灘高校は東灘区にあります。 これも正しいのです。 東灘区は灘で、 今の灘区は西灘と、 歴史的には取れるのです。

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