一つは、 酒造業者自身が決断を下しにくい状況にあったことです。 この辺りのほとんどの土地を、 酒屋さんが持っています。 そしてその土地は、 部分的にはマンションになるところもありますが、 かなりあまっている状況でした。
この土地の将来的な用途が、 各社で決まらない中で、 まちづくりの計画を作るのが恐い、 といったことが酒造業者の中であったようです。
ですから、 酒造業者は、 新しい住民に対して非常に警戒心を持っていました。 酒の匂いのことを取りましても、 酒屋側には「酒を造るのだから匂いがするのは当たり前」という言い分があり、 新しい住民側には「それが臭い」という言い分がありました。 両者の言い分がすれ違ってしまい、 そこから、 軋轢が生じかねませんでした。 このような関係の中では、 話をする機会そのものが、 持ちにくかったのです。
酒懇の中でも、 まちづくりである以上、 住民と一緒にならないといけない、 という認識があったのですが、 住民にどう呼びかけていくのかが、 まず大きな課題だったのです。 今まで文句を言われ続けている側から、 話を切り出すのも、 非常に恐かったのです。 このようないきさつで、 なかなか一歩前へ出れなかったのです。
酒懇の限界
酒造業者側の問題
酒懇ができてから震災まで約五年あるのですが、 計画はできたものの、 まちづくりにつながるような事は結局何一つ実行できませんでした。 今思い返しますと、 二つの要因があったと思います。
住民との軋轢
もう一つは、 住民との軋轢に対する警戒があったと思います。 特に魚崎は、 三郷の中でも、 酒造地域、 工業地域という性格だけではなく、 住宅地という性格を急速に強める傾向にありました。 昔は、 住んでおられた方は、 基本的には、 酒を造る関連業者の方でした。 しかし、 昭和四十年代ぐらいから、 新しい住民が入ってきました。 新しい住民の側から、 東灘という住宅地に住んだはずであるのに、 住んでみると周りは工場で、 冬になると匂いがする、 あるいは、 早朝からトラックがどんどん走りまわる、 といったクレームが出るようになったのです。
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