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リレートーク3

生活協同組合コープこうべの
ルーツから

コープ・こうべ

田中道子

 

改行マークコープこうべでコミュニティ推進室に在籍し、 行政や諸団体の方々との窓口の仕事をしております田中です。

改行マークコープこうべの本部はJR住吉の駅前にありましたが、 地震で全壊し、 今は三木市の協同学苑に移転しています。 三木市で仮設本部が設けられて三年になりますが、 住吉はコープこうべ発祥の地であり、 いつかはこの住吉に帰っていこうということになっています。


生協の思想

改行マーク三木市の協同学苑は、 組合員と職員の学習・教育施設です。 生協の歴史を勉強する史料館もあり、 生協の歴史を作ってきた様々な人達の思想や考え方を学ぶことができるようになっています。

改行マークその史料館には、 賀川豊彦氏が記した「協同組合の中心思想」が掲示されています。 「利益共楽」「人格経済」「資本協同」「権力分散」「非搾取」「超政党」「教育中心」というもので、 生協の根本理念を短い言葉で表現したものとして尊ばれています。

改行マーク世界の生協は十九世紀前半におけるイギリスの産業革命を背景に起こったものです。 イギリスのロッチディルという町で、 厳しい労働と貧しい生活の中、 自分たちの生活を守るために二八人の労働者が「ロッチディル公正先駆者組合」を結成したのが今日の生協のルーツであると言われています。 それが発展し、 ヨーロッパでひろまり、 やがて日本にも入ってきたわけです。


コープこうべと「観音林クラブ」

改行マークコープこうべの発祥は、 住吉村と平生釟三郎という人物を抜きに語ることはできません。

改行マーク住吉村観音林(現在のJR住吉駅から山の方に上がった所)は明治三十八年頃に開拓され、 阿部元太郎という人が最初に居住しました。 もともとはお寺があった所でしたが、 お寺は山崩れで倒壊してしまい、 その頃は雑草と松林しかなかったそうです。 そこで阿部元太郎氏が地域一帯を買い取り、 上水道を計画するとともに井戸も掘り、 住宅地として開発していきました。 その頃からここは水や気候がいいと、 財界人が多く住むようになり、 大正二年に住友家が居住して以降は高級住宅地として発展していきました。 もちろん、 高級ではない普通の家も増えています。

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観音林クラブの規約(昭和16年8月改定)抄録
改行マーク阿部氏は住宅地開発のほか、 住民同士の交流や地域のまちづくりを考える場所も欲しいと、 明治四十五年に社交クラブ(観音林クラブ)と会館を造っています。 その規約(図1)には、 会員相互の交流を図ろうと書かれていますが、 平素の活動としては講演会や座談会を開いたり、 囲碁や将棋などの娯楽活動が主で、 財界のお歴々がくつろぐ場所だったようです。 その場所が、 後にコープこうべの前身である灘生協を作るときの話し合いの場所にもなりました。

改行マークこの観音林クラブからは勅撰議員が五人、 大臣が二人出ていますが、 大臣のうちの一人が文部大臣になった平生釟三郎氏です。 この人の資産と会員の会費で観音林クラブは運営されていましたし、 平生氏はさらに財団法人「拾芳会」も設立して育英事業、 教育・学術を普及奨励しました。 おかげでこの地域の子供達が多く学校に通うことができました。 また、 甲南病院や甲南学園を創設しています。

改行マーク観音林クラブは二十二年間続きましたが、 解消の際には会館が財団法人住吉学園に無償譲渡されています。

改行マークこの時代を調べていますと、 観音林クラブを支えた財界人は非常に社会貢献意識が強かったと感じます。 明治の文明開化の頃ですから、 日本が世界に飛躍するためには人づくり、 つまり教育が大事だと考えたのでしょう。 教育投資には、 特に熱心だったようです。


灘購買組合の誕生

改行マークコープこうべのルーツである灘生協は、 大正十年に設立されました。

改行マーク観音林クラブに行き来していた那須善治氏が事業に成功し、 その利益を何か社会事業に使いたいと思ったことが組合発足の始まりです。 那須氏が平生釟三郎氏に相談したところ、 新川で活動している賀川豊彦という人物が面白い考えを持っているから彼に話をしてみてはどうかと言われたのです。 社会活動家として知られる賀川は、 その頃新川の貧しい人たちが住んでいた地域で宣教師をしながらボランティア活動をしておりました。 そこで、 後の四代目の組合長田中俊介氏と二人で賀川を訪ねたら、 賀川は「寄付や慈善事業でお金をばらまいても社会はよくならない。 それより、 物価を安定させ協同扶助で助け合える社会をつくっていかないと暮らしはよくならない。 協同組合を是非作って欲しい」と言ったのです。

改行マーク那須自身はこの考えにあまり納得はいかなかったのですが、 平生は自身のロンドン在住の経験からイギリスの協同組合の活動を見ていたので、 賀川の言いたかったことがよくわかったようです。 そのことを那須に教えたところ、 那須もようやく納得して「生活協同組合に全力を注いでみよう」ということになって、 大正十年に灘生協が誕生することになったのです。

改行マーク神戸でも川崎・三菱両造船所の労働争議の後、 賀川豊彦の教えをもとに労働者が協同組合を立ち上げていました。 ですから、 労働者が作った神戸生協と事業家が作った住吉の灘生協がほぼ同時にスタートしたわけです。 ただ、 神戸生協は理論先行型で経営面では苦労していましたが、 灘生協は精神は賀川の教えを生かしながら事業家が運営したので、 しっかりとした経営内容だったようです。

改行マークこうして灘生協のルーツを見ていくと、 事業家が自分たちの資産を投げうって社会の発展のために尽くしたことがよくわかります。 住吉周辺を見ても、 駅前周辺、 JRの山側、 国道二号線の南など多くの土地・建物が灘生協のために提供されています。

改行マーク明治時代の事業家の心意気で灘生協は誕生しましたが、 事業家自身の平素の暮らしは非常に質素で、 釘一本でも大事にしたそうです。 「日常は質素に、 志は高く」の精神の人達でしたから、 灘生協の運営も当時から「いいものを安く」をモットーにしていました。 那須善治氏は四国の生まれでしたので、 四国から直取引をして安く仕入れたり、 灘生協が出来たおかげで「お屋敷価格」として周辺より高かった観音林の物価を下げる役割も果たしました。

改行マークその後も住吉だけでなく、 六甲、 本庄、 精道村、 芦屋に支店を出して灘生協を発展させていきました。 昭和三十七年には神戸生協と合併し、 「灘神戸生活協同組合」と名称を変え、 強固なものとなって現在へと至るわけです(灘神戸生協はさらに一九九一年に「生活協同組合コープこうべ」と改称されました)。

改行マーク簡単ではありますが、 これで生協のルーツについての紹介とさせていただきます。 ありがとうございました。

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