この土地は明治の終わりに今の阪急電鉄が農地を買い上げたものです。 大正になって阪急電鉄が線路を引いて住宅地を開発したのですが、 以来私どもはここに住まわしてもらっています。 もう一度かつての本山村時代に戻した形で土地を活かすとしたら、 今ならどういう使い方ができるのかという思案もありました。
というようなことで、 震災前からひそかに、 いろいろな人が気楽に集える場が出来れば、 という思いがあったわけでございます。 私は中学校の美術の教師をしておりました。 そういう点では文化という言葉に馴染んでいたのかもわかりませんが、 合わせて「文化は金にならんもんや」ということも身を持って体験していたつもりです。
先程西崎先生がおっしゃったように岡本にまちづくり協議会が生まれて十八年になります。 家内が元民生委員として協議会に参加しておりました関係で、 家内からの聞きかじりで、 私は私なりにこの街がどういう方向で歩んできたかということを少しは理解はしていたつもりです。
駅前の掲示板にクリーン作戦のポスターを月に一回書いて張ってみたり、 「まちづくりニュース」が発行されるときにはカットを書かせていただき、 それなりに私自身もまちづくりの一端に関わらせていただいていたつもりです。
また神戸の「93アーバンリゾートフェア」が行われたとき、 甲南大学で「若者と共に生きる街」というシンポジウムがございました。 そこで河合隼雄さんと安藤忠雄さんが対談をなさったのですが、 その中でどちらがおっしゃった言葉か忘れましたが「地域学」という言葉が出たのです。 ここには大学が三つ、 商船大学を入れたら四つありますが、 そこで「共通の講座みたいなのが出来たら面白いんじゃないですか?」という流れで、 「地域学」という言葉が出たのを何となく覚えていました。 これもホールづくりの夢につながる一つのきっかけになっています。
もう一つのきっかけは、 私自身のこだわりです。 終戦後すぐに、 大阪の桜橋に有名な音楽喫茶が生まれました。 「日響」という名でしたが、 その経営者である曽我部さんご夫婦が大阪の店を閉められた後、 岡本で喫茶店をされていました。 戦後の音楽文化を育てられた立役者のお一人だと思っています。
その曽我部さんからかつて、 もちろん震災前ですが、 「あんたとこの家の立地条件は、 音楽聴くのには絶好や。 九〇センチぐらい掘り下げたら、 ええサロンできんねんけどな、 そういうの作る気ないか?」、 「作ったら、 ごっつええピアノやるよってに」と聞かされていたのです。
ピアノのほうは先に某女子大学に話が行ってしまいましたが、 私の頭の中には先程の地域学のことと、 音楽サロンの話がこびりついていたのです。 不謹慎ですが、 地震で家が全壊したときに、 「あ、 ひょっとしたらこれで思い切って踏み切れるかもわからん」と思ったことは事実です。
私の一番好きなことは未知数と言いますか、 可能性があるのかないのか、 それすらも分からんという中でバタバタすることです。 でもそれではクリエイティブな面白さはあっても、 実際の運営はできません。 その辺でのはっきりしたご指導をぜひ頂きたいと思います。
このホールがいろいろ矛盾も抱えながら、 今までなかったような方向で発展したということを、 いつかお話しできる機会がやってくることを夢見ております。
「建築主」から
TOZAWAコートオーナー 戸澤正雄
今、 西崎先生から英断とご紹介いただきましたが、 当の私どもにとりましては、 これより手はなかった、 道から奥まったところにあるまとまった広さの土地を生かせる最後の一手というつもりでした。 大げさに言いますと、 資源の死蔵をしてはいけない。 本来土地はそういう物ではなかろうかというつもりでやりました。
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