沢の鶴資料館 |
沢の鶴資料館自体の開館はわりと早くて昭和五十三年ですから、 もう二十一年になります。 昭和五十五年三月には建物と酒造りの道具三千点弱が兵庫県の「重要有形民俗文化財」の指定を受けました。
そもそもなぜこの資料館を作ったかについてですが、 実を言うと物持ちが良かったと言うか、 会社に古い道具がたくさん残っていたのです。 古い酒蔵を新しい酒蔵に変えて近代化していった時、 古い道具を捨てるのは忍びないから別の蔵へ移します。 その蔵を建て直すとき、 また道具を別の蔵へ移していくうちに、 道具だけたくさんたまったというわけです。 私は昭和四十九年の入社ですが、 当時から古い道具をどうしようかという会話が社内でしょっちゅう出ていました。 そんなに古い道具があるのかと蔵へ見に行くと、 それがなかなかいいんですよ。 私はなんとか残したいと思っておりました。 今なんとかしないと、 きっと散逸してなくなってしまうだろうという思いがありました。
私は、 日本酒とは日本の文化だと考えています。 古い伝統と歴史に基づく酒造りの原理は今でも一緒です。 江戸時代からのいろいろな知恵がいまに伝わっているのが、 日本の酒造りなんです。 しかし、 その割には業界では酒の文化を大事にしていませんでした。 私は入社以来「酒は文化だ」と言い続けてきたのですが、 社内でもあまり支持されなかったのです。
やはり口で言うだけでなく、 古い蔵や道具を残し、 目に見える形で展示して説明していかないと駄目だと思ったのが、 資料館開設のきっかけです。 酒造りを一般の方にも知っていただきたいし、 社員の教育のためにも必要だと思いました。 ただの金儲けのための酒造りではなく、 文化を知ってもらってそれを味わってもらうのが本来のあり方だと私は思っています。 それを言うといろんな所から批判されましたが、 ともあれ資料館の開設にこぎつけることが出来ました。
当時はまだ古い蔵もいくつか残っていたので、 角地にあった建坪三百坪の「千石蔵」を資料館として使うことにしました。 「千石蔵」は伊丹と灘だけにあった蔵で、 大消費地の江戸へ送るためにこんな大きな蔵を建てたのです。 「千石蔵」は当時の様式がほぼそのまま残っていたので、 資料館にはふさわしいだろうと思ったわけです。 後に文化財に指定されたのがこの蔵です。
道具の展示だけでなく、 酒器の展示や名産品の即売、 それに河島英五さんやシャンソンの人たちのコンサートも催しました。 当時、 東大寺管長だった清水公照先生からいただいた「明日を今、 古に学ぶ」という言葉を基本におきながら資料館を運営してまいりました。
しかし、 平成七年一月に震災。 開館十七年目で完全に倒壊してしまいました。 本当に無惨で、 文字通りガレキの山になっていました。 その時作った俳句が「夢なるか 無残の廃土に梅ひらく」というものです。 梅だけが廃墟の中でもしっかり花を咲かせていたのが印象的でした。
新しい資料館には、 旧資料館にはない四つの特徴があります。 一つは免震構造を入れたことです。 免震構造にしないと、 鉄骨の無骨な建物になってしまうので、 それでは嫌だったのです。 木造で免震構造にしているのは珍しいそうです。
二つ目は、 全国でも珍しい地下構造の「槽場(ふなば)」跡があることです。 槽場とは酒を搾る場所のことですが、 これが神戸市教育委員会の発掘調査で出てまいりました。 地下式があるのは灘だけです。 地下にした方が酒を搾りやすいということなんでしょうが、 これが四箇所発見され、 比較的よく保存されていたひとつを残すことにしました。 ここからは、 安土桃山時代にお酒を受けるのに使われていた貴重な壺が出ています。
三つ目は古い柱の内側から「天保十年(一八三九年)改造」という大工棟梁の墨跡が見つかりましたので、 建物の改造年代が分かったことです。
灘五郷というブランドはあるものの、 実は灘区は工業地帯のイメージの方が強いのです。 それを何とか変えたい。 酒造りの地域がもともと持っていた緑濃いイメージの町で、 酒造りをしたいという気持ちがあります。 「酒蔵を活かしたまちづくり」というテーマが協定の中にもうたわれていますので、 これはいいチャンスだと思って議論に参加しています。
灘五郷のうちで一番西に位置するのが私共の西郷なのですが、 八社が協力していい形のまちづくりにしていきたいと話し合っています。 市や灘区からもご協力をいただいています。 資料館近くに地元のにしごう会館ができるときも、 酒蔵風に作っていただきました。 住吉神社も修復されましたし、 大石側右岸も歩道を整備して桜や松を植えて貰いました。 桜は鎮魂のため六千五百本植えていく計画です。 まちづくりとしては、 ひとつの形ができつつあると感じています。
いずれ、 西宮からHAT神戸まで歩いていけるようにしたい。 灘五郷をつなぐ散策の道を作っていけたらなあと考えています。 二十一世紀は文化に親しみながら散策をするような時代になって欲しいし、 歩いて楽しい道、 しかも文化的な施設があちこちにあって人間性を豊かにできるような場所ができれば嬉しいと思います。 その中に私達の資料館があり、 文化を伝えられる場所にしていきたいと考えているところです。
秋には「ほろ酔いコンサート」を予定していますが、 それ以外にもいろいろやりたいと考えています。
最後に資料館が再開したときの一句を披露いたします。
「酒蔵は 花にふたたび賑わいて」
賑わいを取り戻したいという気持ちを込めています。
資料館オープンから震災まで
資料館をオープンさせると、 年間六万人の人が来てくれました。 そんなに多くもないのですが、 企業の文化施設がさほどなかった時代ですから、 全国的にみると多い方だと言ってくれた人もおられました。
新資料館再建へ
とにかく、 これではもう再開は無理だというのがその時の正直な気持ちでした。 社内も設備を稼働させるためにみんなが走り回っていて、 とても資料館のことを言い出せる雰囲気ではありません。 なんとかならないものかと思っていた矢先に、 県・市の方から援助してもいいというお話がありましたので、 これで社内でも資料館再建の話ができると思って動くことにしました。 再建の際には当社の負担はもちろんですが、 県・市から大きく援助していただきました。
酒蔵とまちづくり
四つ目は、 資料館とまちづくりの関わりを考えたことです。 旧資料館開設の時はまちづくりのことはあまり考えていなかったのですが、 平成二年に「新在家まちづくり委員会」ができました。 私達の酒造業界もまちづくりを考えていこうと灘五郷のひとつである西郷から八社が集まって西郷会を作り、 定期的に話し合いをしていました。 震災後に新在家南地区まちづくり協定ができましたが、 まちづくりについてはそれ以前から議論していましたので、 新資料館再建の時は強くそれを意識しました。
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