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世良美術館

世良美術館オーナー 世良臣絵

美術館設立のきっかけ

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世良美術館
改行マーク世良美術館の成り立ちでございますが、 一九九〇年頃、 山手幹線を作るためにどうしても自宅の土地を神戸市に差し上げなければならなくなったのがきっかけと言ってもよろしいでしょう。 土地を差し上げた後、 じゃあ私の家はどうしよう、 建て直さなければいけない、 困ったなと思いました。 仕方ありませんので、 自宅裏にあった自給自足用の畑百坪ほどを売ることにいたしました。 それを手放しましたところ、 私が数え切れないほどのお金が手に入ったのでございます。 これを自分が全部使ってしまうのはとんでもないことだ、 地域に何かお返ししたいと思い、 私は昔から小さな美術館が欲しいと思っておりましたので、 それを実現できないかと考えました。


小磯先生とのご縁

改行マーク私は小磯良平先生とご縁があり、 昔から家族ぐるみでお付き合いしておりました。 小磯先生の奥様は私の友人で、 お嬢さん二人はピアノの弟子です。 戦争後は私が山本通四丁目で先生が一丁目という近さでした。 もともとこの先生のお家は、 小磯先生を援助しておられた武田長兵衛さんが「都心は危ないから」と東灘の御影に土地を用意して引っ越しをすすめた家です。 先生は最初「御影はお金持ちしか住んでない所だろう。 僕たちが住めるだろうか」と渋っていらしたんですが、 せっかく土地まで用意して下さったんだからと引っ越ししてこられたのが昭和二十三年でした。

改行マーク小磯先生は私のことをピアニストとしてしかご存じなかったのですが、 ある時私が新聞のチラシの裏に色鉛筆で花を描いたのを見て、 「おや、 絵が描けるじゃないか。 これはいいよ。 ピアノの先生なんかやめて絵描きになれよ」とおっしゃったんです。 「絵描きは才能がなかったら乞食だよ。 でもあなたには才能があるからすすめるんだ。 試しにやってごらんよ」とおっしゃって下さって、 物不足の時代なのに先生が画材を提供して下さいました。

改行マーク絵に関しては小磯先生はそれはそれは恐い先生でした。 「僕は弟子はとらない主義だけど、 君は特別だから。 まあ五年ほど勉強して一水会にでも入って入選したら認めてあげる。 入選しなかったら、 絵は奥さんの楽しみにしなさい」と言われました。 それで私は絵描きになりました。 一水会にも入選して会員にもなりました。


いつか個人美術館を

改行マーク私が五十歳になったとき、 今度は「フランスへ行って本物を見てきなさい」とおっしゃったのです。 これには私の主人も反対したのですが、 先生がどうしても行けと強くおっしゃいましたので、 一年間フランス留学をしたのです。 その時にロダンやミレーの個人美術館を訪ねることができました。

改行マーク驚いたことに、 普通のお家なんですよ。 奥様が美術館の運営をしていらっしゃる。 「ああ、 こういうやり方でも美術館ができるんだったら、 私も欲しい」とその時思ったんです。 でも日本に帰ってみると、 個人美術館なんて夢物語。 まあ、 希望だけは持っていようと思っていました。

改行マークだから、 小磯先生のお宅で個人美術館をつくってくださいと申し上げたんです。 そうしたら先生がおっしゃるには「僕の家には絵なんかないよ。 描き上げたら片っ端から売れてしまうんだもの。 美術館をしたくても、 絵がなかったらできないだろう」。 そうして「君が描いた絵でいいと思うものを僕が選ぶから、 なるべく売らないように。 一水会で通った絵は全部残しなさい」とおっしゃって下さいました。 私もだんだん絵をしまうところがなくなってくると言いながらも絵は残しておりまして、 最初にお話ししたように自宅を建て直さなければならなくなったとき、 「今こそ個人美術館を作ろう。 お金は全部使っちゃおう」と奮い立ったのです。


美術館オープン

改行マークそれから瀬戸本淳先生に設計していただくことになりました。 瀬戸本先生はほんとうに優しい方で、 私の「ああしろ、 こうしろ」といううるさい注文に一生懸命応えて下さいました。

改行マークそうして、 九二年にほんとうに可愛い美術館ができました。 ほんとうはお花をいっぱい植えたかったのですが、 そのスペースがなかったんですね。 それでもわずかなスペースにお花を植え、 外から見て「きれいなお花だな。 中はどうなっているんだろう」と思ってもらえるようにしました。 実際「花がきれいだから、 中も見たくなって」と来て下さる方もいらっしゃいます。

改行マーク二階のギャラリーには小磯先生のデッサンがございます。 私が絵を始めた頃、 「君、 その人物には鎖骨がないよ」と先生がおっしゃったことがあって、 私が鎖骨や大腿骨が分からないとその場でサッと描いて下さるのです。 「子供の頭と大人の頭は違う」とたくさんの子供の頭も描いていただきました。 家族ぐるみのお付き合いで、 お誕生日の時の楽しい絵もあります。 そういうデッサンは絵を勉強されている方には大変役に立つので、 学生さんも大勢見に来てくれます。 昭和十六年作のトンボの絵もございます。 小磯先生のデッサンはほとんど戦災で焼失してしまいましたから、 これは本当に貴重なものです。

改行マークまた、 絵だけでなく建物も神戸市から賞をいただいて、 建築の勉強をしていらっしゃる方がわざわざ遠くから見に来て下さいます。


美術館の運営

改行マーク運営についても少しお話しいたします。 建てた当時は私にもお金があり、 利息も入ってきました。 ひと月百万円の利息収入があり、 何とかやれたのですが、 ご存じのように今は利息が入るなんて夢物語です。 銀行へ行くとかえってタクシー代を損しちゃうようなものでございます。

改行マークですから、 今は絵画教室を開いています。 五十〜六十人のお弟子さんがいます。 小磯先生は戦前に日本の草花を一生懸命お描きになっていました。 戦後は武田薬品の漢方薬の植物画を描くようになって、 その時間がなくなったのです。 「だから、 日本の草花は君が跡を継ぎなさい。 コツを教えてあげるから」と教えて下さったのですが、 私がその教えを持ったまま死んではいけませんから、 後に続く方々に全部差し上げたいと思うのです。 ですから専門的に教えている教室ですが、 それが美術館の人件費など運営費の収入源のひとつになっています。 また、 絵はがきも売っていますので、 わずかですがそれも運営費の一端になっています。


運営の苦労いろいろ

改行マーク開館してから来年で八年になりますが、 何とかトントンでやってきました。 お金は決して残りません。 ですが、 いいスタッフに恵まれました。 チェンバロ教室もあり、 音楽会は年に五、 六回はございます。 それには海外の高名な奏者や日本在住の素晴らしい演奏家に来ていただいております。

改行マークこれは言うはやさしいことですが、 お客様をお招きするのが大変なんです。 スタッフの大きな仕事で、 チラシを配ったり新聞に広告をお願いしたり。 美術館会員という倶楽部制度はまだ私達では作っておりませんが、 来ていただけるお客様はほぼ定着いたしましたので、 なんとかそれで運営しております。

改行マークまた、 いらしたお客様にお聞きすると「香雪美術館のすすめで来ました」とか「小磯美術館から」とか「白鶴美術館の人がここは面白いからと言っていたので」とおっしゃるんです。 地域の美術館のみなさまが助けて下さるのですよ。 もちろん私達も「あそこへ行ってごらんなさい。 大変いいものがありますよ」とお薦めしています。 こうして、 お互い助け合いながら、 地域の交流のシステムを作っているんです。 いい美術館はこういう中でできるのだと思います。 そして、 お金では買えない人の心に届くものが必ずそこには生まれるのです。

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