書店経営2000年12月号(最終回)掲載分

《僕が書店で働いていた頃》

■大型化とコンビニ化
 今年は、20世紀最後の年で、ミレニアムという言葉を何度も何度も聞いた。21世紀は新しい時代だと多くの人達が叫んだ。そして20世紀最後の年は、使えない500円玉と2000円札、何をしでかすのか17歳、iモードとIT革命、そして出口の見えない不況の中で終わろうとしている。
 先日ふらりと近所の書店に出かけた。いつもどおり特に買いたいものがあったわけではない。立ち寄ったのは、書店の定番スタイルである雑誌、文庫、実用書、コミック、学参、新刊を並べた書店だ。店には多くの人が入っていて、雑誌を立ち読みする若い女性や、子供たちがコミックに夢中になっている姿があった。休日なのに中高年の姿が少ないのが気になったが、休日を書店で過ごすほど彼らには余裕がない。仕事帰りにあわただしく書店に立ち寄るのが精一杯なのだろう。
 世紀末を迎えるあたりから、書店は大きく変った。それを一言でいうなら大型化とコンビニ化だ。それを支えたのは、コンピュータを使った商品管理(POS)と流通の改革(オンライン)だ。時間はかかったが、取次店がこのシステムを普及しなかったなら、今のような書店のスタイルは出現しなかっただろう。サービスの向上や人件コストの削減に貢献したと言える。バブル崩壊以降、家賃の下落や大型商業施設を次々と郊外に出店する企業と書店の利害が一致し大きな店が次々出来た。300坪なら中型、500坪を超えないと大型店とは言えない時代だ。そうした店で働くのは、書籍販売のプロではなく、フリーターを中心とするアルバイトだ。書店はこれからどうなっていくのだろう。

■売ること、買うこと
 客の一人として、こうした書店の変化を僕はこんな風に素直に感じている。どんなに書店が大きくなっても、ない本はない。インターネット書店のデータベースには絶対負けるのだから、それはそれでいい。パーフェクトな品揃えなんて不可能なのだから、書店は何でも置いている必要はないのだ。だから僕は、自分の興味のある本をたくさん品揃えしている書店を探すことにしている。あなたのために品揃えをしましたよ、と言ってくれる店に足を運ぶ。そんな店なら規模なんて関係ない。欲しい本がなくてもかまわない。また来よう、その時は入荷してるかもしれないから、と僕は思うのだ。
 きっと読者の気持ちは、時代と関係なく一定の質を保っているのだと思う。消費者が小売店で物を買うときの気持ちは、それが本であろうと食料品であろうと電化製品であろうと同じだ。欲しいと思うものを買うこと、店がいい商品ですよとディスプレイしているものを納得して買うこと、そういうことだと思う。だから20世紀だろうが21世紀だろうが、買う立場に変化はない。店は、お客が欲しいものを知っていて、展示してお客に買わせる、このことは21世紀になっても変らない。
 僕は、さきほどの書店で、新聞広告にでていた本が見たくなり棚を探した。しかし本の所在が分からず店員に聞いた。すると置いていませんという返事。その次には注文になりますという殿下の宝刀を抜かれてしまった。ブックフェアーをやっていたが、誰かがお膳立てしたものだった。取次店のシステムが支える情報を活用し品揃えをし、読者にサービスを行う時代が21世紀スタイルの書店だと思う。しかしこの書店には、本という商品について、陳列したものだけが商品であり、そこにあるものだけで売上を確保しようとしているように僕には感じられた。立ち読みに利用されるだけなら、商売している意味がないじゃないか。

■幸せだった頃
 こんな原稿を書いたり、ホームページで書店さんへの応援をしたりしている僕のところに、書店を開きたいがどうすればいいのか、というような問い合わせがあることがある。その問い合わせに共通するのは、自分の好きな本に囲まれそれを売るという商売、それが書店であるという認識だ。原点だと思う。しかし現実はそうじゃないことを知っている僕は、そんな夢のような商売じゃないですよ、と言わざるを得なくなる。しかし僕は、そうした人達に、そんな商売じゃメシは食えませんよ、と言えないでいる。それにはこんな訳がある。
 僕は書店で働いたことがある。書店にいた頃、毎日が幸せだった。特に新刊が入荷するときは格別だった。1冊1冊を吟味して売れそうだとか、売れなさそうだとか考えたり、本のテーマから世の中のことや世界のことが読み取れたりすることが楽しかった。「こりゃ売れるよ、追加追加!」と叫んだり、どうしても店のお客さんに読んでもらいたくて、あまり売れない本の平積みを続けたり、徳川家康好きのお客さんのためだけに品揃えしたりすることが、仕事として大きな喜びだった。その楽しさを増すために毎日本を読んだ。通勤時間はすべて読書にあてた。昼休みも本を読んでいた。自分が面白いと思う本は店のみんなに知らせた。本にまみれ、本と格闘することがそんなに苦痛ではなかったのは、それらがすべて本を売るということにつながっていたからなのだろう。僕は本を売るために本を読んでいたせいか、書店を辞めてから本をあまり読まなくなってしまった。逆に言えば、そうまでして僕は本を売りたかったのだ。

■夢を忘れずに
 書店にいた頃、正直に言うと、売上なんてどうでもよかった。店にいるときに感じる本の質 感とそれらが発する読者へのオーラが好きだった。そして僕はそれらをいかに読者の目に触れるようにするかのか、どうすれば読者に手に取ってもらえるのか、世の中には様々な本がありそれらついてそれを読みたいと思う人がいるということだけが気になっていた。夕方に回収される売上カードの中にその日の僕の仕事のすべてが凝縮しているように感じていた。追加発注したり、棚から削除する時には、店にやってくるお客のことを意識していた。後3人くらいは買ってくれるだろうとか、この本を買ってくれる人は店には来ないだろう、いい本なのに、とかそんなことだ。
 僕は幸運だったのかもしれない。好きな本を好きなように売って、それで売上が上がっていたのだから。棚を耕し、新しい読者を発見するたびに売上は上がった。売上は単純に日々の仕事の結果だ。僕は書店の一番おいしい部分を経験したのかもしれない。その後、それだけで到底メシが食えるはずがないことを僕は今の仕事をするようになって知った。
 書店を取り巻く状況は変化している。「好きな本に囲まれ、それを売るという商売をしたいのです。どうしたらいいですか。」という人たちに、「厳しいですよ。」と言わざるを得ない状況だ。しかし、不特定多数のお客ではなく、ひとりひとりの読者のために棚づくりをすることが本という商品を売ることであること、それを夢を持ち、書店を開きたいという人達が教えてくれている。それを理想論であると笑ってはいけない。その理想すら掲げられない、あるいは忘れそうになっていることで、特定の良質な読者を失っていることにはならないだろうか。  24回にわたる連載で書きつづけたのは、現場の経験をどう生かすべきかということである。現場には、数字や言葉に置き換えられないノウハウがたくさん存在している。現場での経験の蓄積が、読者に喜ばれる店頭を作り出していく、と僕は信じている。経験とは、技術や理論ではなく、書店とお客が「本という商品」を介して行うコミュニケーションから生まれるものである。そしてお客とは、あなたの店で本を買いたいと思う人達のことである。

□あとがき
 2年にわたる連載にお付き合い頂きありがとうございました。
 急速に変化する書店を取り巻く状況について行くのが精一杯というのが、僕の本音です。
 店頭で「はたき」をかける店主の姿を見かけなくなった。そしてそんなのんびりした商売をしようなんて思っている店主もいなくなったのだろう。かつて立ち読みを警戒する鋭い目に脅かされたことことのある僕は、店内に椅子を置いて、さぁごゆっくりどうぞ、と言っている書店の姿に、変化した書店のあり方を実感している。大きな店もたくさん出来た。書店は商店街にあるのではなく郊外にあるもの、というのが定着しつつもある。本のことを誰も店員に聞かない。展示場所を探すためのコンピュータが書店に配備されているからだ。店員は本のことを聞かれるとすぐさまパソコンと対話し始める。頭の中がカラッポでも機械がすべてやってくれるからだ。店主はコスト削減に奔走し、店の質を高めるための投資をしなくなった。
 変わったこと、変わることに僕は異議を唱えているわけではない。僕が言いたいのは、変わることとは、これまで築いたものの上に立ってより良い方向へ転換すること、決して築いたものを忘れることではない、ということだ。
 僕は書店店頭を見るにつけ、また書店で働く人を話をするにつけ、多くの忘れ物を書店はしてしまったように思えるのだ。そしてその忘れ物とは、「お金儲けがしたいのですか?、本という商品を売りたいのですか?」という問いの答えの中にあるような気がしている。

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