その1

《犬猫堂とそれをめぐる人びと》

 犬猫堂の店主、 犬田啓三 (いぬた けいぞう) は最近少し不安になっていた。
 彼は、 20年前にかなり無理をして、駅前ビルにテナントとして50坪の書店を開いた。 すでに彼は結婚し、 会社ではぼどぼど地位を得ていたが、 会社勤めをするより、 独立して商売がしたいと思っていた。 子供がなかったことや、 妻が反対もしなかったことで、 彼は思い切ってテナントを借りたのであった。 いわゆる 「脱サラ」 というやつだ。
妻の旧姓が猫田昌子(ねこた まさこ)であることから、 店の名前を 「犬猫堂」 にしようと言ったとき、 妻に大笑いされたが、 この風変わりな名前のおかげで、 町の人にすぐに覚えられ、 順調に売上を伸ばしてきた。 それは、 店を始めるときに雇った猿山幸夫(さるやま ゆきお)に負うところが多い。 彼は、 本を売るという商売のコツをすぐにマスターした、 というよりもそれを自分の趣味にしてしまうくらい熱心に棚と向かい合った。 そして今では店の仕入の要として犬田も一目置いている。 その後、 店が順調になったころ、 社員を募集した。入社したのは丘羊子(おか ようこ)だった。 彼女は、別の書店で働いていたのだが、 給料が安く、 残業が多いことが不満で、 その店を辞め犬猫堂に転職したのである。 犬田が丘を採用した理由は、 書店の経験があることは勿論のことだが、 丘の名前が羊子であることもそのひとつである。 犬田、 猫田、 猿山、 そして羊子、 すべて動物に関連しているのがなんとなくラッキーであると思ったからだ。 そして丘羊子は犬田の期待どおり、 店の売上を大きくしていったのである。

 そして、今から3年前、 ある理由で隣のテナントが撤退した。 店を大きくしたいと思っていた犬田は、 取次店に相談をした。 取次店の担当者は熱心に、 増床を薦めた。 犬田は、 テナント料や店が大きくなることによる増員のための人件費、 それに什器にかかる費用など、 新たな借金を背負うことにかなり不安があったが、 取次店の担当者の 「絶対儲かる」 という言葉に乗せられた形で50坪から100坪に増床した。 そこには、 最近出来たロードサイド型書店に売上を少しもっていかれているのをなんとか食い止めたい、 という犬田の 「戦略」 もあったわけではあるが。

 さて、犬猫堂の話を始めよう。

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